星降る町*1
その日、パブは賑わっていた。珍しいことに。
『PUB POTATO HEAD』は大抵、人が少なくて落ち着いた様相だ。流行ってない、とも言う。けれど今日は全ての席が埋まっているような状況だ。わいわい、かつそわそわ、といった様子で、様々種々雑多な客達が、ジャガイモのガレットとビールを楽しんでいる。
「ああ、いらっしゃい、ストレンジャー!悪いね、見ての通りの込み具合だ!空いてる所に上手く入ってくれ!」
マスターの声がカウンターの向こうから飛んでくる。だが、空いている所、と言われても、カウンターもテーブルも、全てが満席に見える。さて、どうしたものかな。
「あっ!そこのお兄さん!こっち、こっち!」
考えていたら、ふと、僕に声が掛けられた。聞き覚えのある声に振り向けば、なんと、ジャンク整合性売りがにこにこと僕を手招きしていた。床の上に空の麻袋を敷いて座り、表にあったのだろう木箱をテーブルにして。成程ね。席が無ければ作ればいいのか。
「相席で良ければ、ここどうぞ!」
「ああ、ありがとう。ご一緒させてもらうよ」
「こちらこそ、今日はお買い上げありがとう、お兄さん!」
にこにこと愛想のいい整合性売りは、『素敵なお兄さんにかんぱーい!』と言いながら、ビールの瓶を掲げている。成程ね、酔ってるらしい。
「ところで今は、『お兄さん』なんだね」
「そりゃあね!終業後まで昨今のご時世事情になんて構っちゃいられないよ!」
まあそうだな、と納得したところで、僕らの足元に小さな空き缶がトコトコ歩いてやってきた。それはコンビーフの缶だったらしいが、中はすっかり綺麗に洗われて、ついでにペーパーナプキンの蝶ネクタイまで身に付けていて、この店の従業員としての誇りを持って働いていることがよく分かった。
空き缶の中には『ご注文をどうぞ!』と書かれた紙とペンが入っていたので、ありがたく、それに注文を書きつけていく。『今日のおすすめ、アルコール抜き』。これでマスターが上手く見繕ってくれるだろう。
ついでに整合性売りが『今日は売れたから!』とにこにこしながら、ジャガイモのガレットとビールを追加で注文すると、空き缶はまた、トコトコとカウンターの方へ帰っていく。それを目で追っていると、マスターが空き缶を拾い上げて、中の注文の紙を読むのが見えた。
「ところで、今日は何があるんだろう」
それにしても、今日は混んでいる。いつも席を自由に選べるようなパブにしてはあり得ない程の混み様だ。そして、皆、何かを楽しみに待つようにそわそわしている。腕が6本ある男も、頭部がテレビでできている人も、ブドウの房を両肩から生やした蛇口も、猫の耳と尻尾が生えたポリ袋も、皆がそわそわと、行儀よく……床に敷物を敷いて勝手に席を増やすのも、この町じゃ行儀のいい内に入るだろう……まあ、行儀よく、待っているのだ。
「あれ、お兄さん、知らないの?表の張り紙、見なかった?」
僕の言葉に、整合性売りが首を傾げる。表の張り紙、というと、『FALLING is coming!』か。意味が分からなかったけれど。
「フォーリンが来るんだ!皆、集まらないわけにはいかないよ!」
「ええと、その、『フォーリン』というのは?」
興奮気味の整合性売りは、空き瓶が運んできたビールを受け取って中身を飲み始めると、にっこりと笑って答えてくれた。
「歌が上手い狂人さ!」
それから少しして、僕らの元に料理が届いた。
「注文の品だ。ジャガイモのガレット2つとシュニッツェル。あと野菜のオムレツだ」
僕らの元に料理を運んできたのは、なんと、ニワトリだった。
スーツのジャケットを脱いだ所に、ダークグリーンのエプロンを身に付けている。中々様になったウェイター姿だ。
「今日はウェイターなのか」
「ああ。ポテトヘッドの奴、『手伝わないとお前の明日は無いぞ!』とやりやがったんでな。まあつまり、コーヒーを人質にとられている、というわけだ」
成程ね。『手伝わないとお前の明日のコーヒーは無いぞ!』ってことか。確かに、あのコーヒーを毎日飲んでいたら、あれを味わえない朝に耐えられなくなるだろう。
「フォーリンが来るとなると、いつもこうだ。全く……ああ、オムレツはナイフを入れた途端に中から野菜のごった煮が溢れ出るから気を付けて食うといい」
「ああ、ありがとう。気を付けるよ」
口ぶりの割に、ニワトリはてきぱきと働いていた。カウンターの向こうからマスターに呼ばれて何か話して、笑いながらまた別の料理をトレイに乗せて運び始めた。彼、中々ウェイターが似合ってるね。
ところで、ニワトリの職業を今まで気にしたことが無かったが、彼、普段は何をしているニワトリなんだろう。卵を売って生計を立てている、という風でもないけれど。
からん、とドアベルが鳴る。その音につい振り返って……僕は、絶句することになった。
「あ、フォーリンだ!」
整合性売りが期待に満ちた声を上げる。途端、パブの中が『フォーリン?フォーリン?』と騒がしくなる。
そこには、美しい女性が居た。
そう。美しい、女性。頭部がエナメルのハートに換装されているわけでもなく、気が狂ったように叫び続けているわけでもなく、その瞳にはきちんと理性が宿っていて……その上、美しい。
ストレンジタウンの中においてあまりにも異質に見える彼女こそが、『FALLING』……フォーリン、なのだろう。
フォーリンがパブに入ってくる。こつ、と靴のヒールが床にぶつかる音が、やけに響いて聞こえた。
「久しぶりね、マスター。歌いに来たのだけれど」
そして、彼女の声が発された直後。パブの中は歓声と拍手で、わっ、と溢れかえる。『フォーリン!フォーリン!』と彼女を歓迎する声が響いて、普段静かなパブとは思えない賑やかさだ。
「ああ、フォーリン、いらっしゃい。ピアノは空いてる。好きに使ってくれ」
マスターが指し示す先には、ぽつん、とアップライト・ピアノが置いてある。黒く塗られた奴じゃなくて、クルミ材か何かでできているように見える、ダークブラウンの洒落た奴だ。
床に座席が増設される無法地帯においても、そのピアノの周りにだけは誰も居なかった。フォーリンが赤いドレスの裾を翻してピアノへ近づく間、皆はわくわくそわそわと静かに待つ。
ピアノの蓋が開かれて、そこから象牙色の鍵盤が覗く。フォーリンは椅子を引いて丁度いい位置に腰を下ろすと、一度伸びをしてから鍵盤に手を置く。……そして。
ぽん、と1つ音が宙に浮かんだ。
ぽん、ぽん、と続けて2つ。
そしてそこからは、立て続けに無数に。
音が次々に並んでいけば、それは音楽になる。そう、音楽だ。このストレンジタウンで聞くことなんて無いだろうと思われた、音楽というもの。
それは自分で思っていた以上に、僕にとって刺激的だった。
娯楽というものが無いこの町で聞く音楽は、すっかり僕の意識を奪っていく。
そしてピアノの音を裂くように、彼女の歌が始まる。
空気を裂くようなハイトーン。かと思えば1オクターブ以上離れた音に飛んで、変拍子を刻んでいく。
無秩序な曲だ。だが、バラバラじゃない。4拍子でも3拍子でもないリズムで飛び飛びの音が軽やかに紡がれていく様は、成程、確かに、多くの人が聞きに来るだけのものだった。
フォーリンは、異国の言葉で歌う。或いは、僕が意味を理解できないだけだったのかもしれないけれど。とにかく、意味をまるで理解できない歌であることは確かだ。それでも、何かが伝わってくる。何かが。
そう、何か。秩序以外で、この無秩序な音と言葉を音楽へと作り替えている、何か。それがきっと、僕らに深い共感をもたらす。
軽やかで突拍子もなくて、そしておそらくとても技巧的なんだろうその曲は、強く激しく、パブの中に響く。
曲が終わる時は唐突で、そして、拍手が沸き起こった。ついでに、盛り上がった気分に合わせて注文も増える。マスターが喜色満面で忙しなく動いている様子がカウンターの向こうに見えた。
そうして僕は思わず拍手しながら、止まった時間が動き出したような、そんな感覚を覚えていた。感動、とでも言うべき感情に満たされて、『次にまたフォーリンが来る時には必ずパブに来よう』と心に決める。
「彼女が狂人だって?とてもそうは見えない!」
静かに興奮している僕は、隣で同じように盛大な拍手をしている整合性売りにそう、訴える。整合性売りはフォーリンのことを『歌が上手い狂人』と言っていたが。
「そう?まあ、そうかもしれない!」
整合性売りはまるで気にした様子もなく、にこにこと拍手を続けている。僕もそれきり、さっきの説明は忘れることにして、フォーリンの2曲目が始まるのに聞き入ることにした。
そうしてフォーリンは5曲ほどを歌い、『ああ、満足した!』と笑って、歌を終えた。それから、ニワトリによって椅子が増設されたカウンター席に座る。
「ご注文は?」
「いつも通り。コーラとフライドチキンをお願い」
フォーリンは笑顔でそう言って、ニワトリにウインクしてみせる。ニワトリにフライドチキンを注文するとは。ニワトリは肩を竦めて笑いつつ、その注文をマスターに伝えに行った。
フォーリンはマスターやニワトリと懇意にしている仲なのだろう。何かを話し、笑い合う様子が見えた。あんな美女と知り合いなんて、ニワトリもマスターも中々やるじゃないか。
「あれ、お兄さん。もう帰るの?」
「ああ。いい歌も聞けたことだし……明日も仕事なんだ。君は?」
「明日は暇を売る予定だからさ!」
暇売り、というのも羨ましい話だが、僕は明日、上司がうっかり僕の死亡届を出したりしないように様子を見ておかなきゃいけない。明日も出勤する者として、僕はパブを出ることにした。
少し遅くなってしまったので、鍵がすやすや鞄の中で寝ていた。『ごめんよ』と謝りながら鍵を起こして、ドアを開ける。そのまま鍵がまた眠ってしまう前に、僕はさっさと風呂に入って、さっさと眠ることにする。
眠る時、脳裏にさっきの歌が思い浮かぶ。歌を聞いていた時の、あの高揚を思い出しながら、疲れていたらしい僕はさっさと眠りに落ちてしまった。
翌日も時間通りに起きた僕は、鍵におはようの挨拶をして、身支度をして、パブへ向かう。
パブの中には、昨夜の気配がまだ少し残っている。こもった酒と食べ物の香りが、どことなく一日の始まりには相応しくない。まあそれでも、コーヒーを飲めばそんな感想は吹き飛んでしまうわけだけれど。
「やあ、マスター。昨日はすごかったね」
「まあな。彼女が来ると売り上げが一気に20倍以上だ。毎日ああだと……いや、忙しくてかなわないかな」
マスターは苦笑しながら僕のコーヒーを淹れ始めてくれる。ふわり、と広がり始めたコーヒーの香りは、昨夜の気配をかき消していくようだった。
「次、彼女は何時来るんだい?」
「さあね。フォーリンは気まぐれだから……何せ、ストレンジタウンの外に住んでるし」
ストレンジタウンの外、という言葉に、少々ぎょっとさせられる。そんなところに住んでいながら何故こんなところへ、という疑問もあるし、この町に何度も出入りする人が居るなんて聞いたことが無い、という疑いもある。
「彼女については俺よりニワトリが詳しいよ。興味があるなら聞いてみるといい」
「分かった。ありがとう」
もし、フォーリンが本当にこの町の外からやってきているのだとしたら、その彼女と連絡を取れるニワトリは、町の外部と連絡が取れる、ということになる。
いや、別に、僕だって取ろうと思えばとれるはずだ。ただ、個人的にそうしようと思える相手が居なくて、職場からの業務連絡をリトルハット行政区宛てに出す程度だけれど。
「あまりこの町らしくない人だね、彼女」
「そうかな?まあ、見た目は少なくともそうか」
マスターはくつくつと笑って肩を揺らすと、如何にも忠告だ、というように指を一本立てて笑う。
「だが彼女は彼女でちゃんと狂人だ、ストレンジャー。この町に好き好んでやってくる奴が、狂人じゃないわけないんだよ」
その日、僕はニワトリに会わずにパブを出た。ニワトリは昨夜、パブの手伝いをしていたんだろうから、夜が遅かったんだろう。いや、それを考え始めると、24時間営業を続けているマスターは一体何なのかが分からなくなってくるけれどね。
出張所に向かって太陽の光の中を歩いていく。上司はどうしているだろうか、と考えながら、萎れたナス(5mほどのものだった)を迂回して、また進む。
ぱたぱたとナイフが飛び交い、スパナが叩き落されるのを横目に進めば、やがて、職場と、職場の前の人だかりが見えてくる。
何の騒ぎだろう、と思って見てみると、それはどうやら、何かの宗教団体の集会であるらしい。
「消火器は青い!よって消火器は善である!我らは悪しき消防車を排除し、消火器の復権を目指さなければならない!」
木箱に布を掛けただけの演説台に立って演説しているのは、顔面をキラキラと輝かせるミラーボールだった。……と思ったが、よくよく見てみれば、ゴルフボールにアルミホイルを巻いただけの粗末な頭部をしているらしかった。
「消防車の健康被害に科学的根拠は無い、などというのは実のところ全くの嘘である!政府はこの事実を隠蔽し、如何にも、消防車は体に良いものであると誤認させるような働きかけをしているのだ!一方、消火器は体に悪いなどと風評被害を受け、排除の対象となることが決まろうとしている!」
何のことだ、と思っていると、どうぞ、という声と共に横から何かが差し出される。それを受け取ってみれば、どうやらパンフレットらしい。
パンフレットの表紙には空色の地にびかびかと下卑た太陽が描かれ、その太陽の中に消火器が描かれている。そして、そんなイラストと共に、『消火器の御腕に救われる会』と書かれていた。
うちの上司が所属していてもおかしくないな、と思いつつ、そっと、パンフレットを地面に捨てる。地面が『俺はゴミ箱じゃない!掃き溜めでもない!クリームチーズだ!』と騒ぐのを踏み躙って黙らせた。
「今こそ、消火器を体に取り入れ、大いなる消火器との交信を図ろう!そうすることで我らは救われることができる!」
ゴルフボール頭がそう言えば、周囲の人々はわっと歓声を上げた。賑やかなことだ。
さて、ここで集会を開かれていると、僕は職場に辿り着けない。窓から入るにも、恐らく窓の戸締りは完璧なはずだ。だが、この謎の集会を突っ切っていくだけの気力は僕には無い。
何か助けになるものはないだろうか、と、何気なく周囲を見回す。
すると、僕の視界の端に、赤いドレスが見えた。
フォーリンだ。昨夜と同じように赤いドレス姿で……昨日とは違って、その手に、マシンガンを携えている。
そのマシンガンの銃口は、間違いなく、ゴルフボール頭やその周りの群衆に向けられている。
成程ね、彼女、中々に狂人だった。