Unnamed*2
「きっかけは、去年の秋に同僚が横領してたのを見つけたことでね」
ニワトリとフォーリンとマスターを前に、僕は話し始める。天使は外で、整合性売りに遊んでもらっているらしい。まあ、子供に聞かせたい話じゃあないからね。配慮に感謝するよ。
「大した額じゃなかったよ。それこそ、真っ当に区役所の職員として働いて得られる安定した給金を考えたら、本当に大したことの無い……はした金だ」
仮眠用ベッドに腰掛けた僕を囲むようにしてスツールや木箱に座る面々は、まあ、好奇心たっぷり、って訳でもない。皆、僕を心配している。ありがたいことだね。
「それで僕は、彼女に直接、言った。『それは横領じゃないのか』ってね」
「それでまともに聞く奴なら最初から横領なんてしないんじゃないか?」
「まあ、その通り」
僕を心配する以上に、僕の代わりに憤ってもくれるらしいニワトリは、『太々しい奴だな』と呟く。僕が僕以外から聞いたことの無い評価を聞いて、僕は少々気分が晴れる。案外、話してみると気分が晴れることって、あるものだね。
「それで、彼女がまるで聞かないから、しょうがない。僕は上司に相談することにした」
ふと、当時のことを思い出す。
夕日が差し込む区役所内の一室。僕が相談を持ち掛けた上司は、深刻そうな内容だと判断したのか、人目に付かないように窓にブラインドを下ろして、そこで僕の話を聞いていた。
同僚が横領している事実を、僕は相談したわけだ。ただ、『だから彼女に厳罰を』なんてことは言わなかった。『どうすれば彼女がこれ以上罪を重ねずに済むか』何ていう風に相談した覚えがある。
「信頼してた上司だったよ。不正を許さない、ちゃんとした正義感の持ち主だと思ってた。けれど……」
「……裏切られた。そうだな?」
裏切られたか、と言われると、少し、疑問が残る。
別に、その上司との間に同盟関係があったわけでもない。そしてその一方、僕も知らなかったところで、同僚と上司は恋愛関係にあった。
だから上司はむしろ、『裏切らなかった』のだろう。自分の優秀な部下であり恋人である人物を、裏切らなかった。その結果、僕が酷いことになっても、それは上司にとっては煩い羽虫を追い払っただけにすぎない。
「まあ……期待は裏切られたかな」
そういう訳で、上司が裏切ったものは、僕からの信頼と期待。それだけだ。どちらにも大した価値はないと判断したっていう、ただ、それだけの。
「『見なかったことにしろ』と言われたよ。俺が何とかしておくから、ともね」
思い出すと胸が悪くなる。
上司の、あの、血走って濁った眼。今思えば、あれは正気の眼じゃなかった。
「そこで上司を信じていれば、それきりだったんだ。けれど、どうにも、僕は彼を信じられなくてね。……同僚の監視を続けていたら、彼女、何食わぬ顔で横領してたよ。エルメスの口紅だとか、グッチの財布だとか、バーバリーのコートだとか、そういうのを見せては『買ってもらった』なんて言って笑っていたけれど、それら全部、横領した金で手に入れてたものだった」
思い出そうとしなくたって、思い出せる。品の悪い笑い方も、噎せるような妙な笑い方も。妙に舌足らずで不明瞭な発声も。次々に脳裏に浮かんでは、消えずに僕の脳を蝕む。
「流石にね、僕は義憤を感じた。だから僕は上司に頼らず、もっと上の方に陳情を出した。同僚の横領を密告したのさ」
僕は僕の過去を振り返って、ああ、賢くなかったね、と思う。賢く生きるなら、口を噤んでおくべきだった。
けれどあの時の僕は、賢くなくとも、正しく生きようとしてしまった。正しさになんて、何の価値もありはしないっていうのにね。
「『安浦京』は同僚の横領を見つけて報告した優秀な職員、ということで表彰されることになった。……そうして表彰式に出たのは、彼女だったよ」
「いつの間にか、彼女が『安浦京』になってた。僕の名前は、彼女に盗まれていた」
僕の話を、皆が聞いていた。特にフォーリンは、もう大方この辺りを知っていたんだと思うけれど、それでも、随分と真摯に聞いてくれた。センチメンタルなことを敢えて言うならば、まあ、それが僕には嬉しく感じられた。今までこの話に聞く耳を持ってくれた人なんて居なかったから、余計にね。
「何が起きたのかまるで分からなかったね。名前を盗まれるなんてこと、あると思うかい?」
「聞いたことが無いね」
そうだろうね。まあ僕は頭がジャガイモになる面接官も初めて見たわけだけれど。
「全く、よくもまあ、名前なんて盗めるものだなあ。俺には信じ難いよ。それでどうして、周囲の人間は何も言わなかった?」
「しょうがない。彼女は仕事ができると評判だったし、何より、美人だったから」
「あら、私よりも?」
「いや。君と比べたらゴミ屑だ」
僕の答えに、フォーリンは『あら、嬉しい』と言いつつ、『当然ね』というような、自信たっぷりの笑みを浮かべた。その笑みがまた美しいものだから、僕も思わずにっこりしてしまう。
「それで、お前はその同僚の身代わりに、こっちへ飛ばされた、と。そういうことか、ストレンジャー」
「まあ、概ねそういうところだと思うよ。僕は彼女の代わりに横領したことにされて、それでストレンジタウンへ異動にされたのかもしれないし……或いは、彼女の元の名前は懲戒免職されたことになっていて、僕は単に口封じのために飛ばされたのかもしれない」
僕はここへ来る直前まで、『まあ、密告するような奴は疎まれて飛ばされるものか』と思っていた。そういうものか、と、自分の愚かさと正しさを悔いながら、この世界っていうものに絶望して、ただ諸々を諦めて、ここへ来た。
「正確なところは分からないのかい?」
「ああ。……実のところ、僕にもよく分かっていなかったんだ。よく分からないまま、気づいたら辞令を受け取っていたし、彼女が『安浦京』になっていた。本当に、何も分からないままだったよ。表彰式のことも、僕が知ったのはそれが終わった後、広報誌で知ったくらいでね」
「だからこそ、私に『安浦京』を調査するように頼んだんでしょう?」
フォーリンの言葉に頷いて……それから、僕は、『少し違うか』と思い直す。思い直して、考えて……それから自分の頭の中に見つけてしまった考えが、随分と馬鹿らしくて、思わず笑ってしまう。
「どうやら僕は、『安浦京』として、僕を見つけてほしかったみたいだ」
今、僕はなんとなく、満足に似たものを感じていた。
これでいいや、とでもいうような、そういう感覚だ。ここに居る僕こそが『安浦京』なのだと、ここに居る皆は知っている。それが、僕にとっては案外重要なことだったのかもしれない。実に馬鹿らしいと、そう思う自分もまた居るわけなのだけれどね。
「なら、私はあなたにもう一通の方を渡すべきだったかしら。あなたも何か隠しているようだったから、両方渡すのは躊躇われたのよね」
「いや、いい。君は僕の道具じゃない。君は君の意思で、そうすると決めて行動する権利がある。僕が隠し事をしていたのと同じことだ」
申し訳なさそうなフォーリンに笑って答えつつ、さて、と僕は思う。
「彼女、どうせ1年かそこらで寿退社するらしいからね。まあ、それまでの身代わりだと思えば、そう悪くない」
その時、僕の名前が僕のものになるかは分からないが。それはそれとして、もういいや、という気分だから……まあ、とにかく、『もういいや』っていうところだ。それ以上を望む余力は無いね。
だが、僕はよくても、ニワトリはそれじゃあ、よくないらしい。
「それでいいのか、ストレンジャー。ただ、お前を虐げて、踏み躙った奴らに対して、ただ待ってやるだけで、本当にいいのか?」
ニワトリの瞳の中に燃えているものは、怒りだろうか。成程ね、彼は僕のために怒ってくれるのか。実に紳士的だ。公平で、公正で、暴力的な、狂人。彼は最高の隣人だ。
だが、僕の中に、もう怒りは湧いてこない。
「虐げられて、踏み躙られて、か。それが何だっていうんだ?」
多分、僕は疲れたんだ。怒りっていうのは、自分の中で何かを燃やして維持するものだ。燃やすものも無いほどに疲れてしまったなら、怒ってはいられない。瞬間的にならまだしも、一年も二年も、ずっと怒り続けてはいられない。
何にもならないっていうのに怒りを維持できるほど、僕はエネルギーに満ちた人間じゃない。
「もう今更だ」
アルコールランプに蓋をしてしまえば、火は消える。記憶にもそれ以外にも、蓋をしてしまえば、救われない怒りなんて、そこまでだ。
「お前が言ったことだろう、ストレンジャー。『それでもむかつく奴は死んだ方がいい』と」
それでもニワトリは、諦めないらしかった。彼の怒りは、僕には眩しい。
「そうだね。むかつく奴は死んだ方がいい。当然のことだ」
思い出す。
自分のために激しく強い怒りを灯すことは、どうにもできそうになかったが、それでも僕は、漫然とした苛立ちを覚えることはあったし、それを全て吹き飛ばすような、鮮やかな暴力を望んでもいた。
できる限り派手に。出来る限り惨たらしく。
飛び散る体液とかその片付けとか、法律がどうだとか、そういう不愉快な現実は一切無視して夢想することが、僕にだって、無いわけじゃない。
「お前は踏み躙られるべき存在か?お前を踏み躙る連中に、正しさはあったか?奴らはのうのうと生き延びるべき連中か?」
「いや、奴らは正しい道を自らの意思で踏み外した。『理不尽』に手を染めた。だから死ぬべきだ」
思い出す。
正しさを信じていたことは、決して間違っていなかったはずだ。そして本来、それは踏み躙られてはいけないものだった。
正しい行いが踏み躙られたなら、それは、相手が正しさの庇護を捨てたっていうことで……『正しくない行い』によって踏み躙られることを許容したっていうことだ。
「ストレンジャー。暴力と狂気は、理不尽に対する最後の抵抗だ。全てをひっくり返せる可能性を秘めた、最後の手段だ。もうそれしか残されてないって奴らには、最高の夢だ。そして……」
「唯一の『救い』だ。そうだね」
思い出す。
……そう。この町で、暴力と狂気が救いになるってことを、僕は、知った。
「お前に怒りが足りないのなら、俺が代わりにやってもいい。だが、お前がやりたいだろうと思ってな」
思い出す。
「殺すつもりはないか?ストレンジャー。理不尽な奴らを、理不尽に踏み躙ってやろうとは、思わないか?」
思い出す。
「『安浦京』を……お前でもないのにお前の名を騙る奴を、殺したくは、ないか?」
僕は、思い出す。
僕はニワトリみたいに暴力的にはなれない。
けれど、僕の中に暴力性が無いってわけじゃない。
ずっとある。ここに、ある。
誰でもいいから殺してやりたいっていう衝動が、ずっと。
その相手がむかつく奴なら猶更いいね、と思う理性も、ここに。
蓋をしたって構わず燃え盛る衝動は、はっきりと、ここにある。
「思い出せ、ストレンジャー。お前の狂気を」
この衝動はきっと、狂気という名前のアレだ。
……思い出した。
誰でもいいから死んでほしいような気分になることなんて、山ほどある。
勿論、誰でもいいって言ったって、できるならムカつく奴がいい。
そういう奴が、できる限り派手に。出来る限り惨たらしく。死ぬ。
飛び散る体液とかその片付けとか、法律がどうだとか、そういう不愉快な現実は一切無視して夢想する。
誰でもいいから、ムカつくあいつを殺してほしい。
誰でもいいから、あいつをド派手に殺してほしい。
誰でもいい。
僕でも、いい。
……いや、僕が、いい。
僕はずっと、人を殺したかった。




