ストレンジタウンへようこそ!
誰でもいいから死んでほしいような気分になることって、あるだろう?
勿論、誰でもいいって言ったって、できるならムカつく奴がいい。
そういう奴が、できる限り派手に。出来る限り惨たらしく。死ぬ。
飛び散る体液とかその片付けとか、法律がどうだとか、そういう不愉快な現実は一切無視して夢想することが、あるだろう?
僕は正に今、そういう気分だ。
誰でもいいから、名前も知らない、けれどムカつくあいつを殺してほしい。
誰でもいいから、あいつをド派手に殺してほしい。
誰でもいい。
僕でも、いい。
Stranger in strange town with NIWATORI
~奇妙な町の異邦人、あとニワトリ~
『Welcome to STRANGE town!』
門の上ですっかり色褪せた看板には、元の文字を消すように殴り書きがしてあった。
門から伸びてぐるりと町を囲む高い鉄の柵は、さながら刑務所の檻のようだ。ここにもご丁寧に有刺鉄線が巻いてある。
有刺鉄線には所々、錆び以外の色も見受けられた。多分、血とか、吐瀉物とか、よく分からないペンキとか。
ここは、通称『ストレンジタウン』。
周辺の町から隔離されて、『狂気の町』とも呼ばれて正式名称をすっかり忘れられたここが、これから僕が働くことになる町だ。
きっかけは然程重要じゃないように思う。簡単に言ってしまえば、異動だ。
僕はリトルハット行政区の職員で、そして、この『ストレンジタウン』は名目上、一応、リトルハット行政区の管轄となっている。だから、僕は単純に、部署を異動させられてここに配属されたっていうだけのこと。
まあ、『狂気の町』に配属されたっていうことは、僕は雇用主である行政区からまるで期待されていないっていうことになる。能力を、というか……それ以前に、まあ、生存を。
町に入って数歩目で、ナイフが飛んできた。
誰かが投げたって訳じゃない。ただ、ナイフが空を飛んでいる。さながら、蝶かハエか、まあ、そういうものみたいに。
少し見回せば、ぐよぐよと生き物のようにくねる道路標識が見つかった。煙っぽく霞む往来を行き交うのは、頭をエナメル製のショッキングピンクのハート形に換装した女だったり、目の前に吊るしたナマコを罵倒し続けている老人だったり。ちら、と目をやった路地裏には、バールのようなものを死体に叩きつけ続けている男が居た。
幻覚じゃない。ここではこれが普通ってだけだ。『奇妙な町』の名は伊達じゃない。
ここではナイフは空を飛ぶし、道路標識はよく捻じ曲がる。愛を囁き続けるティッシュペーパーも、八脚走行で駆け抜けていくペットボトルも珍しくない。そして、多分、殺人も。
狂気の町ではこれが普通だ。
地図に書いてある通り、リトルハット行政区出張所へ向かう。
横殴りに光を投げかけてくる朝陽が鬱陶しい。
ストレンジタウンでは太陽も笑う。下卑た笑みを浮かべて、下品な黄色い光を投げかけて、僕らを嘲笑う。僕はそんな太陽に向かって進まなければならない不運を呪いながら、新しい職場へと歩いていく。できるだけ、足元へ視線を落としながら。……けれど、それですら割れた鏡が落ちていて、太陽がそこから図々しく恩着せがましく、光を投げかけてくる。
益々眩しく鬱陶しい。僕は鏡の破片を踏み潰した。ぶちゅっ、と嫌な音がして、鏡の破片は弾け飛ぶ。
その場の地面に靴の底を擦りつけて気休め程度に綺麗にしつつ、地図を広げてもう一度確認する。やはり、出張所はこの先にあるらしい。まだ東だ。つまり太陽の方向だ。畜生め。
「おう、新入りか?」
地図を相手に心の中で悪態をついていたら、僕の横から覗き込んでくる人が居た。
人だ。一応。顔のパーツの位置がおかしいけれど。具体的には、肘っていうのは本来、顔面に無いはずだ。
「ここはいい町だぜえー?きーっと気に入る!ほら、そんな顔をするもんじゃあねえ……な、折角だから、笑顔に!ハッピーに!な!」
肘がついた顔面がよく分からないことを喋って、笑みを浮かべる。肘も笑うのか。膝が笑うとは聞いたことがあったけれど。
「……おい、笑えよ。ハッピーに!」
「生憎、気分じゃない」
肘の手が僕の肩に回されたのを払い除けて、出張所に向けて再び歩き出す。すると、途端に肘が絶叫した。
「ハッピーじゃない!ハッピーじゃない!お前、ハッピーじゃない!」
ハッピー、ハッピー、あああああ、あああああ、と意味の分からない絶叫を上げながら、肘は身悶える。
あああああ、あああああ、と口の端(肘の端でもある)から音を漏らして、肘はメキメキと音を立てて割れていく。
……そして僕の目の前で、肘から骨が飛び出て、その骨が僕に向かって凄まじい速さで伸びてくる。
僕は慌ててその場から走り去った。
一頻り走って、走って、息が続かなくなったところで走るのを止める。
「……聞いてた以上、だ」
ストレンジタウンの評判は、職場でそれなりに聞いていた。
曰く、狂気の町だ、とか。よく人が死ぬ、とか。一度入ったら生きて出られる奴は少ないし、正気を保っていられる奴はもっと少ない、とか。
だが、こうだとは思わなかった。予想外だ。勿論、悪い意味で。
「ここも期待できそうにない」
意味も無くぼやきながら、僕は目の前の建物を見上げる。
コンクリートから鉄筋がはみ出ている素敵な建物が、リトルハット行政区の出張所。
ここが、僕の新しい職場だ。
建物の入り口はガラス製の自動ドアだった。この町にありながらガラス戸が割れていないことに驚きながら扉の前に立っていると、まるでドアが開かない。
仕方がないから自動ドアだったらしいものを手で押して開けて中に入る。
中に入るとすぐ、古めかしいカウンターとアクリルの仕切り板が目に入る。カウンターの横には呼び鈴らしいものと『ブルーバード特別区へようこそ!』と書かれた色褪せたパンフレットが埃を被っているのが見えた。
それらを横目に、カウンターの後ろ側へと回る。パーテーションと枯れた観葉植物の鉢とで簡単に区切られたそこへ入れば、古めかしいオフィスチェアに座っている人間の後ろ姿が見える。
「あの、すみません」
声を掛けると、その人間が椅子ごと振り向く。その腕の中には消火器が抱えられており、消火器のホースの先は人間の口に突っ込まれていた。
「本日付けでこちらに異動と……」
「ああ、ああ、いい」
一応挨拶を、と思ったが、人間は消火器のホースから口を離すと、鷹揚に手を振って僕の挨拶を遮った。
「それで?今回の奴は何日持つ?辞表を出すか?それとも自殺か?発狂するなら辞表の後にやってくれ!……ああ、どちらにせよ私が報告する羽目になるんだ!ああ、面倒だ!」
面倒だ、面倒だ、と言いながら、その人間は消火器のホースを再び口に咥え始めた。
「……何をなさっておられるのですか?」
「あ?見りゃあ分かるだろう!消火器を吸ってるのさ!」
これが業務だと嫌だな、と思いながら聞いてみると、相手は何故か少々嬉しそうに答える。そうか、消火器を吸っているのか。
「これが中々イイんだ……お前も一本、どうだ?」
「遠慮しておきます」
「禁煙中か?つまらない奴だ。人生の半分、いや、8割を損しているね!」
こいつの人生の残り2割に何があるのか気になったが、曖昧に愛想笑いを浮かべて「はあ」なんて返事をしておく。こういう手合いにはこれで十分だろう。
それから5分程して、僕の上司なのだろう人が消火器を吸い終えたらしい。恍惚とした表情で消火器を横に置くと、さて、さて、と言いながら、デスクにそれらしく肘をついて顔の前で指を組んだ。
「さて……まあ、一応、お前が明日死ぬ新入りだったとしても、業務は教えなきゃいけないな」
上司は何か考えて、それから、重たげに体を動かして立ち上がる。そうして向かった先にあったのは、PCが置いてあるデスクだ。ディスプレイは4台置いてあるが、その内の1台はディスプレイがすっかりひび割れていて、2台はPC本体ではなくマッチ箱とタワシに接続されている。
「まず、朝来たらこのタワシの毛の本数を数える。次に、窓の数だ。これらはリトルハット行政区長にメールで報告する必要があるから、念入りにな」
上司はそう言うと、せかせかと歩いていって、壁際のキャビネット、流し台、またキャビネット、と移動していく。
「それからこの資料が何ページあるか数えて、水が何滴蛇口から零れているかを数えて、それから町の死者の数を、報告があった分だけ報告する」
死者の数の報告についてだけは、僕も知っていた。『ブルーバード特別区内の本日の死者は零』以外の報告が来た事が無い、というのは有名な話だ。
「そして何より大切な仕事だが……ブルーバード特別区史を編纂する。一日、一時間、一分単位で記録することが望ましい」
上司が見せてきたノートには、昨日の午後三時に『空が爆発した』という記載がある。
「以上がここでの仕事だ。まあ、そう多くはないが全て重要な職務だ……決して気を抜かないように」
「はあ」
上司に返事をしながら、ああ、これは本当に、『聞いてた以上』だな、とだけぼんやり思った。
その後、上司はまた消火器を吸引し始めた。僕は消火器を嗜む趣味は無いので、ただ上司が消火器を吸引するのを眺めて、上司が脈絡のない(本当に脈絡のない)話をするのに適当に相槌を打った。
それから窓口に人がやってきて、『この住民票は間違っている!』と文句を付けに来た。だが突き出された書類はどう見ても植木の剪定のチラシだった。(植木の他にスパムミートの剪定もやっているらしい。)
なので『これは住民票じゃありませんよ』と教えてやったところ、相手は僕の側頭部をプラスチック製のバットで殴打して帰っていった。僕の頭を殴る割にガラス戸は割らずに出入りしていくんだなあ、と僕はふらつく頭で考えた。
『これ、労災下りますか?』と念のため上司に聞いてみたところ、『労災はお前如きが賜れる栄誉じゃあない!身の程を弁えろ!これだから最近の若者は……』との返事を頂いた。まあ、ストレンジタウンで労災が下りる期待は初めからしていない。
そうしてまた上司の話を聞かされ続け、帰ろうとしたら消火器を噴射され、帰るタイミングを見逃し続け……気づけば夜の8時になっていた。
『この町の夜は危ないから気を付けて帰るんだぞ』と言って奥の部屋へ消えていく上司を見送って、そもそもお前が居なければ僕は夜になる前にここを出られたんだが、とぼんやり思いながら、玄関のガラス戸へと向かう。
自動で動かない自動ドアを押して開けて、そういえばこれって鍵も何も無いけれどいいのか、と一瞬迷ったものの、そもそもここに入る気ならガラスを破れば済む話か、と思い直してドアを閉めただけでそのまま外へ歩き出す。
これから向かう先は、一応、自宅だ。新しく僕の自宅になる予定の場所。社宅、とでも言うべきアパートメントが、ここの裏手にあるらしい。
夜も遅くなってしまっていたが、大家の部屋を訪ねて挨拶をして、部屋の鍵を貰う。事前に送っておいた荷物は既に届いているとのことだったので、礼を言って部屋へ向かう。
たったそれだけのことが、酷く新鮮だった。思い返せば、この町に来てから初めてまともにやり取りができた例になる。狂気に満ちた町ではあるが、多少はまともな人も居るのだろう。
僕は受け取った鍵で203号室を開ける。
部屋の中には、机と椅子、小さなキッチンと冷蔵庫と電子レンジ、といった家具家電が慎ましやかに揃っていた。
そして、玄関に上がってすぐの床の上に、12本の脚で蠢く蟹の群れ。
(脚が12本ある以上、これは蟹ではないのだろうが、蟹に非常に近い形状をしているため新種の蟹であると仮定する。)
この蟹が群がっている先は段ボール箱で、それは間違いなく、僕が事前に送っておいた荷物である。その割に、箱の数が少なすぎるが。
慌てて蟹を退けようとするが、蟹はまるで僕のことを気にせず、段ボールに群がり続けている。仕方なく、玄関に設置してあった消火器(吸引不可、と注意書きがしてあった)を噴射して蟹を追い払う。
蟹はそれでも段ボールに執着し続け、そして、粉塵を全身に浴びてエラが詰まったのか、或いは肺呼吸の蟹だったのか、やがて、息絶えて動かなくなった。
……蟹が全滅した頃には、僕はすっかり疲れ切っていた。だが、死んだ蟹を引き剥がし、消火剤を避けて段ボールの中を確認しないことには一日が終わらない。
蟹を剥がしては投げ、剥がしては投げて段ボールをなんとか解放して、鞄から出したカッターナイフでガムテープを切り裂き、箱を開ける。
……そこには蟹が詰まっていた。
死んだ蟹を投げ慣れた僕はその蟹を掴んで投げた。投げる時にちらりと見たら脚が8本だったので、こいつは本物の蟹だったのかもしれない。
カッターナイフを適当にズボンのポケットにしまいながら部屋の中を確認したが、他に荷物は無い。
……どうやら、荷物は届いていないらしい。或いは、荷物が蟹にすり替わったか。
元々大した荷物は送っていなかった。家具家電は備え付けがあると聞いていたから、送っていたのは数日分の着替えと食料品、必要最低限の生活用品だけ。娯楽の類は何も用意していない。唯一、鞄の中に入れてあるテトリスマイクロカードだけが僕の娯楽用品だ。思い入れがあるものは何も送らなかったが、それにしたって、それの荷物が消え失せていて、代わりに蟹が居たというのは、衝撃的だ。
さて、着替えも日用品も無い状況で、明日をどう過ごせばいいか、僕は悩む羽目になる。だが、その前に……今日をどう過ごせばいいかがまだ、決まっていない。
「……何、食おうかな」
時計を見れば、夜21時。これから新しく食料を調達しに行くのはあまりにも馬鹿だと思うが、朝から何も食べていない。そろそろ限界だ。空腹もだし、冷静な判断を下すのも。
そうして僕は夜の町に出た。
夜のストレンジタウンはより一層、狂気を増している。
ネオン灯の代わりに光っているのはバナナの輪切りだし、猫の鳴き声を上げながら駆け巡るポリ袋と、ポリ袋に餌をやっているブラウン管テレビが道を塞いでいる。
なんとかブラウン管テレビとポリ袋の群れの横を通り過ぎても、街灯は5つに4つ程度がサボっているため道が暗い。残りの1つについても「俺はこの町に唯一残された希望……!」と妙に悲壮感漂う独り言を呟き続けているため気味が悪い。
こんな調子であるので、食料が手に入る場所の見当がつかない。酒場らしい場所はいくらか見当たるのだが、『チャージ料:腎臓1個』と看板が出ている酒場に入りたいとは思えない。まだ、そのくらいの正気は残っている。一応。
……そうして町を彷徨うように歩いていると、ふと、ヒステリックな叫び声が聞こえてくる。前方から。
足を止めて観察してみると、路地裏、死にかけの街灯が「俺が死んだら骨はミネソタの小麦畑に埋めてくれ……」と呻く下で、途切れ途切れの光に照らされて、三人の女が喚いているらしかった。
「どうしてくれるの!こんなものを食べさせておいてタダで済むと思っているの!」
「人に食べさせようと思ってないなら産まないでよ!食べて欲しくないなら産まなければいいじゃない!」
「そもそもこんなの美味しくない!不味い!卵はもっと甘くてとろとろしてなきゃいけないのよ!あなたには美味しい卵を産む能力が無いのね!分かっていたけれど!」
ヒステリックな女達は醜い顔をさらに醜くゆがめて、口汚く鶏を罵っていた。
……そう。鶏を。
鶏は路地裏に積まれた木箱に悠然と腰掛けている。ぴしり、と伸ばされた背筋も、僕より大柄な体躯を包むブラックスーツも、実に品が良い。
鶏は罵られながらも、聞いているのかいないのか、特に何も反応を見せない。そして女達は特に反応しない鶏の姿を見ていよいよ調子づき、罵倒はエスカレートしていった。
「あなたが産んだ卵はとても不味い!不味い!不味い!不味い!」
「こんな地味な卵じゃ駄目!なんでピンクじゃないの!不味い!不味い!不味い!」
「分かっていたけどとても不味い!最初から期待してなかったけど!不味い!不味い!不味い!」
鶏の傍には卵が落ちて割れている。
見れば、女たちは鶏を罵りながら、その鶏が産んだらしき卵を地面に叩きつけて割っているのだった。
叩きつけられて割られている卵はベージュの殻をしていて、殻の中には色の薄い黄身と艶やかな白身が収められていたらしい。
地面に叩きつけられて潰れていく卵は、光りも爆発しもせず、愛を囁くこともない。実にオールド・ファッションな卵だ。
ところで僕は、卵が好物だ。当然、光りも爆発しもしない奴。愛を囁く卵なんてこの世から消え去ればいいと思う。そう。目の前で叩き割られている奴みたいな、こういう卵が好きだ。焼いても美味いし、茹でても美味いし。生でもいけるし。
……そんな好ましい卵が、目の前で、叩き割られている。
叩き割っている女達は醜悪で、下品で、煩い。
そして僕は空腹だ。疲れてる。そして何より、苛立ってる。
……だから、思う訳だ。ずっと思っていた訳なんだ。
誰でもいいから死んでほしいな、と。
勿論、誰でもいいって言ったって、できるならムカつく奴がいい。今、目の前に居るような。
そう。今、目の前に居る奴らが、できる限り派手に。出来る限り惨たらしく。死んだらいい。
飛び散る体液とかその片付けとか、法律がどうだとか、そういう不愉快な現実は一切無視して、そう、夢想する。
誰でもいいから、名前も知らない、けれどムカつくあいつらを殺してほしい。
誰でもいいから、あいつらをド派手に殺してほしい。
誰でもいい。
僕でも、いい。
ポケットに手を伸ばす。
そこにはさっき、段ボールの開封に一度だけ使ったカッターナイフが入っている。
「あなたが産む卵なんてもう二度と食べてあげない!不味い!不味い!不味い!」
ヒステリックに叫ぶ女に、僕は、一歩、近づいた。
狂気の町の当たり前を、僕自身の手で齎すために。
「何を勘違いしている?」
だが、僕がカッターナイフを振りかざすより先。鶏が突如、羽を広げた。
それだけで女達はびくり、と震え、その動きを止める。鶏を動かず物言わぬものだと認識し、それ故に罵っていた女達は、先程までの威勢はどこへ行ったのやら、困惑の様子すら見せていた。
鶏は女達を悠々と睥睨して、そして、言った。
「俺はお前らに食わせるために卵を産んだわけじゃあない。ただケツがモゾモゾしたから産んだだけだ」
そして女達は凍り付いた。
……まさか、鶏が喋らないものだとでも思っていたのだろうか?まさかそんな馬鹿な事はないだろうに。鶏は喋るものだ。
女達は喋った鶏に何か、弁明しようとした。だが既に遅い。
鶏は鉄パイプを勢いよく振り回して1人の女の頭蓋を叩き割る。
女は醜い悲鳴を上げ、汚らしい脳漿をまき散らして死んだ。
これに他の女達は騒然とした。今まで鶏を無害だとでも思っていたのか。鶏が自分達を殺し始めた途端、泣き喚いて逃げ出そうとした。
だが鶏は手際が良かった。逃げようとする女達の頭蓋を次々に鉄パイプで殴り壊し、例外なくその頭を爆発四散させていく。
死にかけの街灯が、ふっ、と消える。けれど月明かりに照らされて、そのショーは只々色鮮やかに、派手に、そして清々しく、繰り広げられる。
……僕はその見事なショーを、只々茫然と見ていた。
女達を瞬時に撲殺せしめた鶏の手腕に驚嘆し、また、それをとても快く思った。
鶏がただ卵を産むだけの物ではなく、確固たる意志を持った者であることに賞賛の念を抱いた。
そうしてただの生ごみとなり果てた女達の死体の中、鶏は木箱へ戻ると悠々足を組んで座り、そこで1つの卵を産んだ……のだと思う。スーツのジャケットの内側に手を突っ込んだと思ったら、その翼に卵が握られていたから。
ことり、と隣の木箱の上に置かれたベージュの殻は品が良く、さぞ中身もシンプルが故に美味いのであろうと思われた。
鶏は産んだばかりの卵を一瞥すると、特にそれ以上何をするでもなく、鉄パイプに付着した血を振って払うばかりであった。
僕はその光景をただ茫然と見つめ……さっき踏み出し損ねた足を一歩、前に出す。
更に、もう一歩。そして、もう一歩。そうして近づいていくと、鶏も僕の接近に気づいて顔を上げる。
「その卵を貰ってもいいか。とても美味そうだ。食ってみたい」
僕はそんな鶏に、尊敬の念をもって、丁寧に尋ねた。
……僕は疲れていたし、空腹だったので。もう、苛立ってはいなかったけれど。
鶏は特に何を言うでも無かったが、どうぞ、というように(そしてどこまでも興味が無いように)卵を翼で示す。
僕は礼を言って卵を取って……そこらを飛んでいた皿を捕まえて、その上に卵を割る。
とろり、と艶やかにまろびでた白身と、それに包まれた黄身。黄身の色は少々薄めのレモンイエロー。いかにも上品そうな見た目に期待しながら、僕はそれを、飲む。
……卵だった。
卵であった。
期待通りの、オールド・ファッションな味。シンプルが故の美味さ。
白身の瑞々しさが喉を潤していく。口内で黄身が割れれば、まろやかな旨味が爆発的に広がっていく。
ごく僅か、感じられるかどうかの限界に近いくらい控えめで柔らかな塩味。そしてまろやかに濃厚な旨味が甘味にも似て感じられ、そして、それらはとろりと滑らかに喉の奥へ滑り落ちていく。
ただ、香りだけは普通の卵とは異なっていた。
ごく僅か、意識しなければ分からない程に感じられたその香りは、煙草のような燻煙のような、刺激的な苦み走った香り。それにチョコレートのような品のいい香りが合わさって、そして主張せずに消えていく。
僕はしばらく、喉の奥に消えた卵の余韻に浸る。
「ありがとう。とても美味い卵だった」
俺は鶏に一言礼を言った。尊敬まじりの、心からの謝辞であった。
鶏はそんな俺を一瞥したかと思うと、「そうか。それはよかったな」と、一声満足げに鳴き、また俺から興味を失ったように鉄パイプの手入れを始めた。
「新入りか」
「え?」
そして、鉄パイプへ視線を落としたままの鶏から唐突に言葉を投げかけられて、僕は咄嗟に反応できなかった。鶏が理性的で、そして僕がこの一日ですっかり理性的なやりとりから遠のいていたからかもしれない。
「ああ、今日、ここに来た」
「そうか。住んでいる場所は?」
「区役所出張所の裏のアパートだ」
素性の分からない鶏相手に住所なんて教えていいのか、とも考えたが、途中まで考えて考えるのを止めた。どうせ住所を知られて襲われる可能性は、住所を知られなくても襲われる可能性にほぼ等しい。
「何?あそこは……」
だが、鶏にとってはこの情報が重要だったらしい。
「燃えるぞ」
……そして、僕にとっても重要だった。
鶏と一緒にアパートへ戻ると、鶏の言っていた通り、アパートが燃えていた。成程、甘く見ていた。狂気の町ではこれが普通か。やってられないね。
「……さて、野宿かな」
いっそ開き直った気持ちでそう呟けば、鶏がなんとも言えない目で僕を見てきた。多分、憐憫の意を込めて。
「やめておけ。死ぬぞ」
「だろうね」
だが、僕には行く当てがない。強いて言うなら、区役所出張所に泊まり込むこともできるのだろうし、それが野宿よりは現実的、なんだろう。だが、どうにもそうする気になれない。
「……俺の部屋の隣が、空いているが」
「え?」
「他にアテが無いなら、そこに住むといい」
そしてまたも唐突に投げかけられた言葉に、僕は耳を疑う。不運と狂気に慣れかけた僕には、幸運も善意も理性も、咄嗟に理解ができない。
「これがお前の荷物か」
鶏の声に気づいて見れば、アパートから離れていたために火災を免れたらしいゴミ捨て場に、どこか見覚えのある段ボール箱が3つ、置いてあった。……1つは着替え、1つは食料品、そして1つは日用品だ。差出人も送り先も、僕の名前だ。間違いない。
「嫌でなかったら手を貸そう。幸い、これなら往復しなくてもよさそうだな」
そして鶏は、ひょい、と段ボール箱を2つ重ねて持ち上げたのである。この意味を理解するのにも、僕は数秒を要して……それから質問するのに、また、数秒を要した。
「その、どうして……僕に良くしてくれるんだ?」
なんとも間の抜けた質問だと、僕も思う。だが、他に何を聞けばいい?
鶏は僕の質問に首を傾げて、それから、くつくつ、と(或いは、こっこっ、と)笑った。
「俺は誰かのために卵を生んでいるわけじゃあないが、俺が生んだ卵を美味いと言う奴に悪い気はしない。それに、どうやらお前は素質がありそうだ。貴重だな。真っ当な会話ができる相手はこの町に少ないもんでな。その点お前は隣人にもってこいだろう」
鶏の言葉が、どこか、光めいて僕に届く。太陽の光のような下卑た奴じゃなくて、月の光のような心地よい奴だ。
「ようこそ、異邦人。お前は歓迎されたくないだろうが、俺はお前を歓迎しよう。……奇妙な町へ、ようこそ」
鶏が笑うのを見て……僕は、意を決した。
「ああ、ありがとう。これからよろしく」