陽さんはずるいです
グラスの中の氷はとっくに解けてしまい、汗をかいたグラスから滴る雫で下には水溜りができている。
夜見さんから語られた話は俺が思っていたものとは全然違うものだった。俺と一緒に生活をするのが嫌になるかもしれない話と言っていたので、すごく悪いお知らせが語られるかと思っていたのだけどそうではなかった。
たしかに俺は小学校六年生の夏休みに京都のじいさんの所に預けられていたし、最後の方で熱中症か何かで倒れたことがあったことは記憶がある。
でも、あの時に夜見さんに出会ったこと、スマート珈琲に行ったこと、八坂神社、安井金比羅宮、まして夜見さんの家に行った記憶は全くない。
それは夜見さんの話にあったように夜見さんのお父さんが俺の記憶から夜見さんに関わるものを消したからだろう。
とういうか、夜見さんの話しを聞く感じだとあの時の俺は積極的過ぎない? 小学生ながら別れ際にお茶に誘ったり、連絡先を書いたメモを渡したりしてるし。あの頃は今ほど羞恥心がなかったのだろうか? 今、同じような場面に出くわした時に同じことが出来る気がしない。
夜見さんは残っていたお茶をぐっと一気に飲んで一息つくと再び口を開いた。
「陽さん、うちは大事な時にやらかす子です。二回しか会うたことのないあなたにまた会うために、何年もどないしたらまた会えるか考えてるような子です。そして何より、許嫁として派遣されてるのに怖くて怖くてあなたにいっぺんも好きですと言えませんでした。好きですと言うてあなたに拒まれて自分が傷つくのが怖くて言えへんかった。うちはあなたが思てるほどええ子でも優しい子でもありません。あなたに幸せになってもらいたくてここに来たのに、あたなの幸せよりも自分が傷つかへんこと優先するような子です」
彼女の目からは涙がとめどなく流れ、膝の上に置かれた拳の上に落ちていく。
俺には今の彼女に掛けるべき言葉を持っていない。「好きです」の言葉がなくても全然気にしていなかったなんて言ったら大噓になる。暮方さんと話したあの日からそれが気になってしかたがなかったくせにというところだ。
かといって、夜見さんを嫌いになったわけではない。けれども、今の彼女を慰めることが出来るような言葉が出てこない。
だから、初めて彼女がここに来た時に俺を優しく抱きしめてくれた時のように、俺も優しく彼女を抱きしめた。
「本当に、なんで、なんで、そないに優しくしはる」
抱きしめたことで俺は彼女のふわりとした香りに包まれた。心臓の鼓動は早くなるよりも一つ一つが大きく脈打つように動いている。
そして、抱きしめたことでやっと気が付いた。俺は今まで「本当に夜見さんは俺のことが好きなんだろうか」と考えていたけれど、俺はちゃんと夜見さんに自分の気持ちを伝えていたのだろうか? 彼女が傷つくのが怖くて好きと言えないのなら、自分から彼女の方に飛び込めばいいのではないのだろうか。だとしたら俺が彼女に今言うべきことは簡単だ。
「好きだから、俺は夜見さんのことが好きだから……、好きだから優しくするのは当たり前でしょ」
夜見さんは朱に染められた顔を上げると、上目遣いで抗議の声を上げた。
「陽さんはずるいです。今、うちに好きって言ったら絶対に断られるなんてことないとわかって言うたやろ」
どうしよう、抗議の声を上げているけど、今の夜見さんがすごく可愛くて愛おしい。
「だから、陽さんの場合は好きの言葉だけでは足りまへん。ちゃんと態度で示してください」
態度って言われてもすでに夜見さんのこと抱きしめているし、これ以上のどんなふうに態度で示したらいいのだろう。
「それじゃあ、明日からは学校に行く時に手を繋ぐ」
「足りまへん」
「行きだけでなくて、帰りも繋ぐ」
「まだ、足りまへん」
夜見さんはいったいどこまで求めているのだろうか。まさか、一気に大人の階段を昇るつもりでいるのではないだろうか。それはまだいくらなんでも早すぎる。どうしたらいいのだろう。
「うちは今まで好きとは言えませんでしたけど、ちゃんと態度では示しとったつも――」
抱きしめていた夜見さんの唇にそっと自分の唇を優しく重ねた。
夜見さんとキスをしたのは初めてではないのに今までとは全く違う感覚と気持ちが駆け巡った。
鼓動は大きく暴れているのにやかましいとは感じられず、それすらも心地よく感じる。何というかドキドキするのに同時にリラックスもするような不思議な感じで、それが気持ちいい。
「まだです。今までうちがしたよりもたくさんしてくれないと足りません」
一度唇を話すと夜見さんは視線を斜め下に向けて、息が多めの小さな声で呟いた。
再び唇を重ねていく。今まで夜見さんからキスをされた回数は何回だっただろうか五回くらいだろうか? たぶん、もうそれ以上重ねている。最初は軽く唇と唇をちょんと合わす程度だったのに徐々に激しくなっていき、最初は俺から唇を合わせていたのに途中からはお互いに求めるように唇を合わせた。
まずい、キスの心地よさと夜見さんへの好きという思いが溢れてきて、歯止めが利かなくなりそうだ。俺は残されていた僅かばかりの理性にすがるようにして、一度キスを止めた。
お互いに目が合うも何を話していいかわからず沈黙が時間を埋めていく。
「あ、明日も学校だし、そろそろ寝ようか」
「そ、そうですね」
さっきまで何度もキスをしていたのに止めてしまうと、急に恥ずかしさが込み上げてきて、目を合わすことも難しい。
このあと、歯磨きをしたりして就寝の準備をしている間に俺と夜見さんとの間に会話はなかった。
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