彼女の思い、彼の思い
陽さんが兄さんを送りに出て行ったので、夕飯の準備をしながら待つことにした。手持無沙汰でじっとしている方が落ち着かない。
まさか、子供のころからよくお父さんが言っていた襟巻の件が親が子供に言うことを聞かせる常套句だとは思っていなかった。お父さんは厳しく真面目で神使のキツネとしてかなり仕事熱心だ。いや、仕事熱心というより仕事の方ばかり見ている。
襟巻の件を陽さんはどう思っていはるやろ。
騙されたと思っているんちゃうか。
この家に来た日、もし、襟巻の件がなければ本気でうちのことを拒否したかもしれない。襟巻の件があったから、うちが襟巻にされるのはかわいそうだと思って追い出すこともしないで今日まで置いてくれていたのかもしれない。
でも、もう追い出してもうちが襟巻にされることはない。ならば、何の心配もなく、何の後悔もなくうちをここから追い出すのではないか。
そう思うとずんと胃が重たくなる。そのつもりはなくても結果として騙していたのはこちらなので何も文句が言えない。
やっとここまで仲良くなれたのにこれで終わりは嫌や。
なんでこのタイミングで兄さん来はるの。
別に兄が悪いわけではないということは、わかっているがどうしても恨めしく思ってしまう。
とにかく、陽さんにちゃんと謝らなあかん。
そう心に決めるのを待っていたかのように玄関ドアが開く音が聞こえた。
◆
「ただいま、駅まで天明さん送っていたから遅くなってごめん」
ダイニングへの扉を開けながらそう言うと、夕食の準備の途中だった夜見さんはその手を止めて、俺の方に向かって気をつけのポーズをとった。
「陽さん、襟巻の件は騙すつもりはなかったのですが、結果としてあなたのことを騙してしまいました。本当にすいません」
頭を深々と下げた彼女は慣れない標準語でぎこちなく謝罪の言葉を並べた。おそらく夜見さんとしてはとてもまじめに謝っていることを示すためにいつもと違う標準語で話しているのだろう。
「夜見さん、そんなに頭を下げないで。さっき、天明さんとも話していたんだけど、襟巻にされるって話を夜見さんが信じてくれて助かったと思っているよ。たぶん、その話がなかったら俺は許嫁の話を聞いた時に強くお断りをしたと思うんだ。それは夜見さんのことが嫌いとかではなくて、やっぱり急に許嫁とか言われてもわけわかんないじゃん。襟巻の話があったから、とりあえず、一緒に暮らそうと思えたんだよね」
決して夜見さんを責めたりするのではなく優しく、ちょっとした言い間違いがあった程度の感じで話した。
「でも、でも、うちのやったことは陽さんの優しさにつけこむようなもんです」
顔を上げた夜見さんの目には決壊寸前なほど涙が溜まっていた。
きっと、夜見さんは本当に御利益を達成できなければ、襟巻にされると思っていたのだろう。だから、そのことで俺を騙していたという罪悪感も強い。
「天明さんが襟巻の話は子供に言うことを聞かせるための常套句だって言ったときに、俺は夜見さんに騙されたなんてちっとも思わなかったんだ。むしろ、俺から夜見さんの命を左右するようなものが無くなったことを嬉しく思ったくらいだよ。だって、そんなものがずっと俺にあったら俺たちは決して対等に話をしたり、物事を決めたりすることが出来ないだろ。これでこれからはもっと気楽にここで生活できるってものだと思わない?」
俺が話している途中から再び夜見さんは顔を俯かせて強く握った拳を小刻みに振るわせていた。
「な、なんで、陽さんはそういうことはすらすら言いはるんですか。騙されてたのに優しいし、それをプラスに捉えてはるし。もし、うちが悪い奴ならその優しさにまたつけ入りますよ」
あれ? 怒らせしまったのだろうか? 別に俺は誰にでも優しいわけではないと思う。勝又が同じ事をしたら奴の自慢のオールバックのセンターにバリカンを入れて逆モヒカンにしたかもしれない。
「夜見さんは悪い奴じゃないから心配はないよ。さあさあ、襟巻の話はもうおしまい。俺は騙されたなんて思っていないし、襟巻の件がなくても夜見さんを追い出したりしないから。それよりもご飯の準備しよう。俺も何か手伝おうか?」
俺の料理スキルではあまり手伝いにはならないかもしれないけどね。サラダくらいは作れると思う。
「ひ、陽さんはこっちには来んで大丈夫です。うち一人でできるさかい、陽さんはお風呂の掃除をお願いします」
はーいと返事をして風呂の掃除で制服が濡れると困るので一度着替えるために寝室の方へ向かった。
「よかった、これからもここで陽さんと暮らせる」
「ん? なんか言った」
何やら夜見さんがぼそりと言った気がするけど、全く聞き取れなかったので聞き返したら、何でもありませんとしか話してくれなかった。ただ、その表情は彼女も肩から何か荷物を一つ下ろしたようなものだった。
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