元カノの浮気
「こないなこと言うんは嫌なんですが、実は彼女さんは浮気してはったんです」
非常に申し訳ないという様子で、旅行鞄から一冊のファイルを取り出すと俺に渡した。
その中には元カノが俺も知ってるクラスメイトのイケメンと楽しそうにカフェで話している様子、映画に行っている様子、果てには俺とは一緒に行ったこともないネズミのテーマパークに行っている様子の写真が収められていた。カフェで話す顔は俺に見せないような笑顔で、映画は興味ないとか言って断られた作品だし、テーマパークは誘ったけどまだ早いかなと言われて保留にされていた。
ファイルを持っている手がどんどん冷たくなっていくのがわかった。呼吸の仕方がわからなくなったように息が吸えない。
そして、気づかないうちに写真の上に涙が次々と落ちていく。息が出来たかと思ったら、女の子の前だというのに抑えることが出来ない嗚咽が漏れ、鼻水や涎までが止まらない。膝が折れ、ファイルが手から零れて、床に写真が散らばった。
確かに春休みになってから彼女とのメッセージのやり取りが減り、デートの時もよそよそしい感じは出ていたけど、浮気だなんてことは一ミリも疑ってなかった。
「ほんま、堪忍してな。うちはこのことを知ってても必要以上の接触を禁止されとったから陽さんに教えることが出来へんかったんよ」
夜見さんは自分の服が俺の涙や鼻水、涎で汚れることもいとわず、そっと抱きしめてくれた。ふわりとした優しい感触と彼女から香るいい匂いが次第に俺の心を落着かせてくれた。
時間にしてどのくらい経っただろう。その間、夜見さんはずっと抱きしめたり背中をさすってくれたりした。
顔を上げて夜見さんを見ると彼女も泣いていたらしく頬には涙が走った跡が残っていた。
「あ、ありがとう、夜見さん。もう大丈夫だから」
俺は一度顔を洗ってくると告げて、洗面所に向かった。
鏡に映る自分の顔は相当ひどく汚く目も腫れている。こんなに泣くなんて何年ぶりだろう。
悲しいとか悔しいとかむかつくとか情けないとかいろいろな感情がドロドロに混ざり合い胃の下の方にずーんと居座っていて吐き出そうとしても吐き出せず、心地悪さだけが残る。
顔を洗い最低限の身なりを整えて、リビングに戻ると夜見さんの姿がない。どうしたのかと思って、隣のベッドルームの扉を開けた。
「キャッ」
短い悲鳴を発した上半身下着姿の夜見さんと目が合う。
ごめんと反射的に言って、扉を閉めた。
見えたのは一瞬だったけど、脳裏にはしっかりと薄ピンクに花のレースが咲いているブラと陶器のように白く綺麗な肌が焼き付いていた。
俺はベッドルームの扉を背にするようにしてリビングに立って、落ち着くためにビネの公式を唱えていた。
待つことしばし、扉が開く音がして夜見さんが出てきたようなので振向く。
「あの、さっきは堪忍な。急に扉が開いてちょっと驚いただけです。うちは陽さんの許嫁やから着替えてるの見られるくらい全然恥ずかしくなんかあらへんよ」
夜見さんは恥ずかしくないかもしれないけど、それでは俺がもちません。
あと、恥ずかしくないと言っているのに顔を赤くして、ちょっと震えていると全然説得力ないからね。
「いや、俺こそノックもしなくてごめん。それから、服を俺の涙とかで汚してごめん」
「ううん、そんなに謝らんといて。それで、さっきの話の続きなんやけど――」
元カノの浮気の件ですっかり本筋を忘れていた。
「今日になって、神さんから陽さんが振られたって連絡が入って、準備しとった計画が発動されたんです。大沼荘にトラックが突っ込んだもの、大家さんがここに引っ越すように言うたもの、万が一、陽さんが振られた時にうちが許嫁として陽さんのもとに派遣できるようにすべて準備されとったんです」
だろうね。トラックが突っ込んだ光景を見てから夜見さんがインターホンを押してここに来るまでの流れが綺麗すぎるもんね。
大沼荘からここに引越したのは大沼荘に二人で住むのは無理だからだろう。
「別に騙すつもりは無かったんです。うちらからしたら施されたら施し返す、御利益ですからというところです」
夜見さん的には渾身のギャグを放ったつもりらしくニヘヘと笑って見せる。
「うん、夜見さんの言っていることはわかった。理解したつもり。でも、夜見さんはそれでいいの。特にかっこいいわけでもない。今までまともに話したこともない。オタクで陰キャで変に理屈っぽい人の許嫁にされて。そんなほとんど知らない人の許嫁にされて嫌じゃないの。夜見さんなら俺じゃなくてもっといい人と付き合うことくらい簡単に出来るよ」
こんな俺の許嫁にされるなんて夜見さんが可哀想過ぎる。
別れた彼女だって俺のこの性格が嫌になってきっと浮気をしたのだろう。夜見さんだって御利益のために派遣されて好きでもない男の許嫁にされるなんて嫌に決まっている。今は御利益達成にために可愛らしく取り繕っているかもしれないけど、きっとそのうち嫌になってくるに違いない。そうなれば、こちらが許嫁をお断りするどころか、夜見さんの方から勘弁してくださいと言うかもしれない。夜見さんにまでそんなことを言われたら俺はもう立ち直れない。
じいさんには悪いが、許嫁コースから恋の応援コースにでも変更してもらおう。
「陽さんは変なことを言いますね。ちょっと昔までは祝言の時まで相手の顔も見ないことなんて普通にあったんよ」
それちょっと昔どころじゃないだろ。たしかにドラマとかでは戦前のシーンでそんなことはあったけど。現代じゃそんなことはかなりマイノリティーなはずだ。
「それにもう、うちに帰る家はありません。ここに来た時点で今まで住んでいたところは解約しました。あと、陽さんがうちのこと気に入ってくれへん場合は、うちは神さんとこに帰らないけまへん。そして、ちゃんと御利益を果たせなかったということでキツネの姿に戻されて襟巻にされてしまいます。まあ、タヌキの場合はタヌキ鍋にされますからちょっとはましかもしれませんけど」
えっ、何そのスプラッター映画みたいな結末。どちらも死亡のバッドエンドじゃん。
「陽さんはうちのこと嫌いですか?」
夜見さんは俺との距離を詰めて潤んだ瞳で見上げてきた。
ちょ、ちょっと、そんなふうに見つめるの反則だろ。運動会の騎馬戦にサブマシンガン持ち込むくらい反則。
それに襟巻にされるってのも反則だろ。そんな話を聞かされて、それでも夜見さんを許嫁としてお断りしますなんて言えない。
連休明けに学校に行ったら夜見さんの机が無くなっていて、先生からは夜見さんは両親の仕事の関係で急に転校しましたなんてことを聞かされたら一生もののトラウマになるに違いない。
「い、いや、俺は夜見さんのことは嫌いじゃない。でも、さっき振られたばかりだし。夜見さんのこと全然知らないから好きとか嫌いとか――」
突然のことで今起こっていることがわからなかった。
俺の首に夜見さんの手が回され、話していた口は彼女の唇に塞がれた。
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