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生前善行を積んだ魂は死後天国へと導かれ新たな生命へと生まれ変わり再び地上へと産み落とされ、悪行を摘んだ魂は死後地獄へと落とされ魂にこびり付いた罪を清算するまで苦行に晒される――これは、大陸に存在する国々に共通する認識であった。
人類がまだ悪魔との闘争を繰り広げていた時代に『事実』として確認されたことであり、数百年経過した現代では知らぬものは誰一人としていない常識であった。
だからこそ、私は目の前に真っ暗な空間が広がっていることを認識した時、ここは天国ではなく地獄だろうと判断した。
天国は、雲一つない青空とどこまでも広がる草原が特徴的な世界だ。私の目の前に広がる天も地も存在しない真っ暗な世界には一片たりとも似通った部分が存在しない。
天国でないのならば、地獄しかない。
「……天国や地獄では生前のように考えて喋ることができないって話でしたけれど、普通に考えて喋ることができるようですね」
手を開閉させようと意識すれば動いている感覚が神経を通じて伝達されてくるが、光源が一切存在しないため、己の身体が存在しているかどうか分からない。
死後、人間は魂だけとなるため自己が曖昧になり思考を保てなくなる――というのが数百年前から伝わっている不変の事実なはずなのだが、どうしてだか私は生きていた時と同じように思考することができていた。
「私が死にたてだからなのでしょうか?」
「ケハハッ、死んだばかりだってのにそこまで冷静に物事を考えられるとは、テメェ中々に狂ってやがるな。ま、俺様と共鳴するやつだからまともなわけがねぇか」
「ッ、誰ですか!?」
突如として暗闇に響いた軽薄な声に、私は反射的に誰何の声を飛ばした。
周囲は一切見えないままだが、先程までとは異なり私ではない別の存在の気配を感じた。
「俺様か? 俺様の名前はビェイズ。魔王様の右腕にして、記憶を司る悪魔だ」
「悪魔……ですって?」
数百年前、人類を滅亡の危機にまで追い込んだ存在――悪魔。
大陸の九割を支配下に置いたものの、聖女アジュベールや彼女の仲間の手によって滅ぼされた敗北者。確か、歴史書には強力で滅ぼすことが叶わなかった魔王と数体の悪魔は異空間に封印されていると記されていたはずだ。
「まさか……かつて聖女アジュベールに封印された悪魔だとでもいうつもりですか?」
「聖女アジュベール……数百年もたった今でもあのクソ金髪女の名前を聞かされるとムカつくぜ。あのクソ金髪女の脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き回せなかったことだけが、俺様の唯一の心残りだしな」
憎々しく吐き捨てられた言葉に、確信を抱く。
この悪魔は数百年前に人類を襲い聖女に封印された、本物の悪魔なのだと。
「ケハハ、俺様の正体に確信を抱いても怯えないその魂……いいぜ、俺様の好みだ」
「怖くないわけではありません。ただ、どうせ私は死んだ身ですから怯えたところで何の意味もないから怯えていないだけです。……それより、どうして悪魔が地獄にいるんですか? 記録によれば、悪魔は異空間に封印されているということでしたが」
「あぁ、テメェはまだ勘違いをしているのか。ここは地獄じゃねぇ、俺様が封印されている異空間の牢獄さ」
ケハハハハ、と悪魔が哄笑する。
一体今のやり取りの何が面白いのか、私には分からない。
「テメェの魂と俺様が共鳴したから、テメェの魂はあの世じゃなく引き寄せられるようにこの場所に来たんだよ」
「共鳴?」
「ああ――テメェ、死の間際に世界を呪っただろ。自分と同じように理不尽に全てを奪われて死んでしまえってな。テメェが世界を呪おうとする憎悪が、俺様という悪魔に共鳴したんだよ。ま、よくわかんなけりゃテメェが呪詛を吐いた瞬間、この牢獄に入る適性を手に入れた、とでも思っときゃいいぜ。入れた理由なんて、どうでもいいことだしな」
「……そうですね、確かにどうでもいいことです」
私が呪詛を吐くほどに膨れ上がった憎悪が、このビェイズと名乗る悪魔を引き合わせた。
それが一体どういう意味を持つのか分からないが、入れた理由はさほど重要ではない。
重要なのは、記憶の悪魔であるビェイズが私の前に姿を現した理由の方であった。
危害を加えることなく名前を名乗りこうして対話を行っているということは、この悪魔は私に何かしらの話があるのだろう。
その内容こそが、この場において何よりも重要なことであった。
だからこそ、私は単刀直入に問いかけた。
「私に、何かお話があるんですか?」
「ケハハ、話が早くて助かるぜ。お前――生き返りたくはねぇか?」
「……え?」
胸の中心で心臓がドクンと大きく震えた気がした。
処刑されすでに生命活動を停止しているため間違いなく錯覚なのだ。しかし、そうだと錯覚してしまうほどに悪魔からの思いがけない問いかけに動揺せずにはいられなかった。
「生き返るなんて……そんなことが可能なんですか?」
「本来なら不可能だ。だが、女神が異世界から連れてきた娘の魂を憑依させ、無理矢理に聖女として覚醒させた影響で、今あの世からこの世に逆行することができる道が一か所だけ開いてるんだぜ。人間一人の力じゃ無理だろうが、俺様の悪魔の力を使えばたった一度だけだが生き返ることができる道がな」
「異世界から娘の魂を連れてきた影響……そういえば、アメリアは自分が転生者だって言っていましたね。あれは妄想でもなんでもなく、事実だったということですか」
アメリアが時折この世界には存在しない単語を口走っていたのも、この世界で生まれ育った人間ではないからか。だとしたら、彼女が言うところの乙女ゲームなるものも本物だということになる。
牢獄では一つでも多く情報を引き出すために会話に応じただけでその内容には懐疑的であったが、悪魔がそれを裏付ける発言をしたということは事実なのだろう。
ならば私は、本当に悪役令嬢だからアメリアに目をつけられ、嵌められて殺されたのか。
――生き返るか、否か。
天国に上るか地獄に落ちるかしかないと思われていた場面で登場した新たな選択肢。
私は、迷うことなく選択した。
「迷いはありません――記憶の悪魔ビェイズ、私を生き返らせてください」
突き動かすのは、己の首が飛ぶ間際に抱いた魂をも焼き焦がすほどの憎悪。
聖女に、第一王子に、民衆に、世界に災いあれと願ったあの気持ちが、私に生き返ることを選択させる。
私は、私が積み上げた全てを奪い理不尽な死を突き付けてきた世界に、復讐がしたい。
「ケハハッ、欲望と憎悪で捻じ曲がったいい眼をしてやがる。分かった、それじゃあテメェを今から蘇らせてやろう――と言いたいところだが、そううまく話は進まねぇ。テメェが生き返るには、俺様と悪魔契約を結ばなくちゃならねぇからな」
「悪魔、契約?」
記憶の悪魔ビェイズが悪魔契約について簡単に説明してくれる。
悪魔契約とは、適性を持つ人間が対価を支払い悪魔の魂の一部を融合させる儀式であり、魂が融合した人間は契約に基づいた対価を支払い続けることにより、悪魔の魔法を扱うことができるようになる、一種の邪法であった。
「ようは、テメェはこれから俺様が望むものを先払いし、さらにはその後も俺様が望む対価を支払い続ける必要があるってわけだ。その代わり、俺様が得意な『記憶』を自由に弄る魔法を扱うことができるようになる」
「それが、生き返ることとどう関係しているんですか?」
「この封印結界を突破しさらには現世に繋がるか細い糸を辿るには、人間の魂じゃ難しいってだけの話だぜ。悪魔の魂が混じれば、人間の魂であってもそれが可能になるってだけだ」
「なら考える間でもありません。私に支払える対価であるならば何であろうとも支払います。己を焼き焦がすこの怒りを晴らすことができるなら、何を失っても構わない。だから、記憶の悪魔ビェイズ――私と契約をしてください」
私は迷いなく告げる。
すると、記憶の悪魔ビェイズは空間そのものを揺るがすほどに哄笑した。
「ケハハハハハハハハハッ! 流石は俺様の適性者だ! いいぜ、ならば俺様の魂の一部を、テメェにくれてやるッ!」
ぬるりと、私を私と定義しているものの内側に別の存在が入り込んでくる。
それは冷たく滑り気があるもので、異物感が尋常ではなかった。
魂が別の存在を拒み、身体が引き裂かれそうなほどの激痛に襲われる。
「俺様と契約を結ぶ上で差し出してもらうのはてテメェの記憶――五年分だ。そして、貴様が俺様の力を使用するたびに、その力に応じて記憶を対価として支払ってもらう」
「なん、でも、いいから……さっさと、契約を、終えてください」
「あいよ。それじゃあ、一気に行くぜ」
流れ込んでくる量が一気に膨れ上がる。
魂の許容量を超えた情報量に、私という存在が張り裂けそうになる。
脳裏を私の知らない記憶が過っていく。
街を襲う悪魔の軍勢。凌辱されて虐殺される大勢の人々。悪魔の仲間を屠る聖女。
それは記憶の悪魔ビェイズの記憶であった。悪魔の魂が私の魂と融合する過程で、その魂に刻まれた記憶を目にしているのだ。
ハリィン・マクウィル公爵令嬢という存在が曖昧になり、新たな『私』が形作られていく。
脳が、四肢が、魂が再構成されていく感覚は、恍惚してしまうほどの快楽であった。
多幸感に包まれた私の意識が、ゆっくりと遠のいていく。
「ケハハ、次に目覚めたときは現世だ。そっからはテメェの好きにやりな。ただ一つ――人間どもが理不尽に奪われ不幸な目に合っている世界を見せてくれると嬉しいぜ。今の現世は平和過ぎて何の面白みもねぇからよ」
ケハハハハ、という嗤い声に押され、私の意識は完全に闇へと落ちていった。
――ハリィン・マクウィル公爵令嬢の処刑から一週間後。大罪人として断頭台で首を落とされた彼女の遺体は、王国の外れにある共同墓地のさらに外れに捨てられていた。
処刑と同時に公爵家より籍を外され貴族の位を失った彼女は、貴族専用の墓地に埋葬されることは許されなかったからだ。それでなくとも、聖女を虐げた大罪人を将来自分が入るかもしれない墓地に埋葬してほしいと思うものはいない。
巻き添えを喰らって地獄へ落とされたらたまったものではないからだ。
処刑直後は彼女が埋められた共同墓地にわざわざ暴言を吐きに来た人間もいたのだが、数日後に発表された聖女と第一王子の婚約に人々の関心は移り、処刑から一週間でハリィン・マクウィルに対して興味を抱く人間はほとんどいなくなっていた。
故に、共同墓地の一角、ハリィン・マクウィルの遺体が埋められていた場所にぽっかりと大きな穴が開き、彼女の遺体が消失したことに誰一人として気付かなかった。
もしこの時、王国民の誰か一人でも彼女の遺体が消失していることに気付いていれば、ジュリネリウス王国の未来は多少違うものになっていただろう。
しかし事実として、王国民の誰一人彼女の遺体が無くなったことに気付く者はいなかった。
――それから、五年の歳月が流れた。