2/6
聖女とは、初代聖女であるアジュベールの血縁者ではなくアジュベールと同じ聖属性の魔力を有する人物を指し示す言葉である。
ジュリネリウス王国では魔法を発現できるほどに保有魔力が多いいことが貴族の条件とされているが、そもそも平民や貴族関係なく人間は誰しもが大なり小なり魔力を有している。
魔力には火、水、風、土の四属性があるが、例外として千年前に滅ぼされた悪魔が使用していた闇属性と、初代聖女アジュベールが使用していた聖属性が存在する。
初代聖女が没した後、王国内では百年に一度の周期で聖属性を有した少女が発見されるようになり、それを初代聖女の生まれ変わりであると考えた当時のアジュベール教の教祖が国王と話し合い、『聖女』という特殊な立ち位置の役職を作った。
『聖女』に権力はないが、王国の庇護下に置かれ何不自由ない生活が約束される。また、例え王族であろうとも不当に虐げることは許されておらず、聖女の地位にある者を不当に虐げた者は問答無用で処刑となる。
これらは全て悪魔の軍勢を退け魔王を討伐した聖女の功績を、生まれ変わりであろう聖属性を有する者に少しずつ返していこうという考えから生まれたものであった。
過去に聖女の地位に就いた者は皆清らかで心優しい少女であり、聖属性の魔法を平民も貴族も関係なく人々を幸せにするために使用した。
そういった行いが聖女の神聖性を高めることへと繋がり、今や王国において聖女はこの世に存在する一柱の神様と信仰されている。聖女が戦争を命じれば、喜び勇んで戦争へと赴いてしまうであろうほどにその信仰は強いものであった。
「――私は、その神聖を利用されたということですね」
首都ジュリネールにある王城、グロッキング城。その地下にある名前のない監獄。
高位の貴族が罪を犯した際に収監するために使用されている特殊な監獄に、私はいた。
王国の貴族であれば誰でも、平民ならば噂程度で知っているその監獄は、市民が犯罪を犯した際に収監される監獄とは比較にならないほど清潔であった。
簡素ではあるが汚れ一つないベッド、個室が室内に設置されているためプライベートが確保されている便所、綺麗に洗濯された衣服、灯に乏しいが虫一匹いない空間。
決して居心地がいい空間とはいえないが、一息つくには十分な環境であった。
私は首に巻きつけられた漆黒のチョーカーを撫でる。
罪を犯した貴族に取り付けられる『魔封じの首輪』の冷たい感触が指先から伝わる。
「まだ、私の刑が確定し執行されるまでには時間がありますし、なにか打開策を見出さなくては……」
パーティー会場で騎士に取り押さえられ意識を奪われた私が目をさましたのは、王城内にある取り調べ室であった。何名もの取調官に囲まれ、アメリアに行った虐めに関しての徹底的な取り調べを受けた。ジュリネリウス王国は法治国家であり、犯罪の調査や犯人の確保は全て王国軍の警察部隊にのみ許されている。そのため、第一王子が集めた証拠品がどれだけ決定的なものであったとしても、警備部隊の取調官が証拠品や目撃者の証言内容を改めて確認する必要があった。
とはいえ、これはあくまでも法治国家において必要と定められている手続きだから行われているだけであり、実際に私が受けたのは取り調べではなく自白を強要する拷問といったほうが正しいものであった。
第一王子たちが集めた証拠から警備部隊は私が犯人で間違いないと確信したからこそ、証拠の裏を取るよりも罪を自白させた方が早いと判断したのだろう。
行われた取り調べは手荒く、直接的な暴力は振るわれなかったが、聞くに堪えない暴言を何時間も浴びせられた。
私が暴力を振るわれなかったのは偏に公爵令嬢だからだろう。もし伯爵や男爵の娘であったならば、自白するまで嬲られていたはずだ。
自分よりも図体の大きい男に囲まれ何時間も暴言を浴びせられ、私の精神は相当にすり減っていた。暴力を振るわれていたら、それこそ行ってもいない罪を認めてしまっただろう。
何時間も行われた取り調べは、結局私が何一つ認めなかったことでいったん終了となった。
だが、それはあくまでも猶予が伸びただけに過ぎない。
数時間後には再び取り調べが開始される。いつまでも罪を認めない私に対し業を煮やしや取調官がどのような手段を講じるのか――考えただけでも嫌になる。
「私は聖女様を虐げていない。にも関わらず私が犯人である証拠が次々とでてきたところから、何者かが私を聖女を虐げた大罪人に陥れようとしていることは間違いありません」
私には、聖女を虐げなくてはならない動機が存在しない。
取調官はアレックスと親しくしていたことに嫉妬したためと言っていたが、アレックスと私の結婚は政略結婚であり恋愛感情は存在しない。婚約者が他の女性と仲良くしていようが、嫉妬の感情を抱くことはない。
王妃となるための教育が全て無駄になることは痛いが、アレックスが心からアメリアと結ばれたいとのならば、然るべき手続きを踏んだのちであれば身を引いて構わないとすら考えている。故に、嫉妬から聖女を虐げるなどまずありえない。
また、創立記念パーティーでアレックス達に対して言った通り、私にはアメリアが虐められていたとされる日時において明確なアリバイが存在する。
心理面、物理面、どちらから見ても私に犯行が不可能なのは紛れもない事実であり、誰がどう見ようとも私は『白』であった。
――私のアリバイを立証する証拠が悉く消失していなければ、の話だが。
「アリバイが改竄されている以上、誰かが裏で手を回していることは疑いようがありません。感情か実益かはさておいて、私を貶めることで利益を得る人物……すぐに思いつくだけでも、大勢いますね」
私という存在を鬱陶しく思っている人物は、非常に多い。
無くなった私の母親に対して劣等感を抱いている父親は娘である私を嫌っているし、義理の弟であるロベルトもまた劣等感から私を嫌っている。
アレックス、ベリンガー・ウィンウェン、ベッグ・ローは聖女を虐めた犯人であるという時点で私を憎んでいるだろうし、虐げられたと言っていた聖女アメリアも私に良い感情を抱いていないだろう。
第一王子の婚約者という立場でみれば、他の四大貴族であるジャック公爵家、ミャンネット公爵家、ガヴァイン公爵家の令嬢や婚約者候補として名前が挙がっていた令嬢全てから恨みを抱かれているだろうし、私に不正を暴かれて不利益を被った貴族たちも私をという存在を鬱陶しく思っていることだろう。
……私、流石に方々から恨まれ過ぎではないだろうか。
「記録が改竄されている以上、犯人は公的な記録に触れることができる、もしくは触れることができる人物が協力者にいる人物――しかし、これだと範囲が広すぎますね。公爵家であれば問題なくできますから。だとしたら、絞り込むにはもっと根本的な部分から考えてみるべきでしょうか。なぜ聖女様が虐げられなければならなかったのか――いえ、違いますね」
一連の騒動を振り返り――私は根本的な思い違いをしていることに気付いた。
そうだ。今回の騒動の全ての始まりは、聖女が何者かに虐められていたこと――ではない。
アメリアがアレックス達に『私に虐められている』と助けを求めたことが、全ての始まりだ。
私を陥れた犯人やその動機ばかりに気が向いていて気付かなかったが――なぜアメリアは、私が犯人であろう思ったのだろうか。
そもそも――アメリアは本当に虐めなど受けていたのだろうか。
「……まさか」
もし根本的な部分を勘違いして認識していたとしたら――もし、私が今思いついたことが真実であったとしたならば、事態の様相は一変し私を陥れた犯人は一人の人物に絞られる。
「彼女が犯人であると考えれば全ての問題は解決されます。私のアリバイを改竄した方法も、容易に説明がつく。ですが、彼女が犯人だとしたら動機は――」
不意に、監獄への出入り口が開く音が響き、誰かがこちらへと近づいてくる足音が響いてきた。誰かが私しか収監されていない監獄内に入ってきたのだ。
貴族や騎士のように鮮麗されたものではなく、かなり軽い足音が一つ。
来訪者の姿が、薄暗い灯の元に現れた。
「……聖女様」
監獄に来訪したのは、聖女アメリア。
アレックスに送られたのであろう簡素ながらも煌びやかな衣服に身を包んだ聖女が、取り巻きである男性や護衛の騎士を一人として連れず、鋼鉄の柵の向こう側に立っている。
監獄に収監され、罪人の証である魔封じの首輪を取り付けられた私を目にしたアメリアは――頬が裂けているのではと錯覚するほどに醜悪な笑みを浮かべた。
「ふふ、ふふふふ、ふふふふふふ、あははははははははははははははははははははッ」
アメリアのドロリと濁った眼に、私の背筋に嫌は汗が流れる。
彼女のその嗤い声と表情は聖女とはかけ離れたものであり、決して善人が浮かべることないものであった。
その姿は、雄弁に私の推測が真実であると――彼女こそが黒幕であると語っていた。
「あぁ、清々しいわ。ようやく悪役令嬢をこの牢獄に押し込めることができた。後もう一歩で、逆ハーレムルートに到達できる」
「……やはり、貴女でしたか。私を陥れたのは」
「あら、気付いていたのね。貴族なんてどいつもこいつも聖女を妄信するか自分の利益を守ることしか考えていない馬鹿ばかりかと思っていたけど、流石はハリィン・マクウィルといったところかしら。ま、それでもこうして私の掌の上で転がされてしまうのだけど」
愉悦交じりの声音。本性を露わにした彼女の姿には、聖女らしい清楚さも清らかさもない。
彼女の悪意と邪念には、見覚えがある。貴族社会で己の利益を増やすために犯罪にすら手を染めてしまう、道を踏み外した貴族のそれと同じものであった。
今この場に彼女の取り巻きの一人でもいれば状況が一気に好転するのだが、アメリア自身もそのことを自覚していたからこそ、取り巻きを誰一人として連れてこなかったのだろう。
「それにしても、ほんとこの国って聖女が生きやすいようにできているわよね。私がちょっとお願いすれば記録の改竄だろうが証拠の捏造だろうがなんでもやってくれるんですもの。私がこう証言してねっていえば疑いもなくそうしてくれるし、一生誰にも言わないでねっていえば自殺して自分で自分の口を封じてくれるから証拠の隠滅も楽。最高だわ」
自らの金髪に指を絡め、アメリアが面白可笑しそうに語る。
彼女が一連の騒動の黒幕とすれば全ての謎は簡単に解ける。『聖女』という立場にいる彼女が一声かければなんでも実行する――そんな聖女狂信者が王国内には大勢いる。
アメリアはただ、その人たちにお願いをするだけでいい。
それだけで、簡単に犯行を行うことができる。
彼女が犯人である時点で手口は問題ではなくなった。分からないのは動機だ。
「どうして私を陥れたのですか? 私は貴女とほとんど会話をしていませんし、関わりも持っていないので恨まれる理由が分かりません。強いてあげるならば私が第一王子の婚約者であったから、くらいですが……」
「当たらずとも遠からずってところね。理由なんて簡単よ。逆ハーレムルートの入るためには攻略対象の好感度を全員最高にしつつ、悪役令嬢であるハリィン・マクウィルを断罪する必要があったから。ただそれだけよ」
「……は?」
彼女が何を言っているのか、私には全く分からなかった。
逆ハーレムや悪役令嬢といった単語は、巷で流行っている物語に出てくる単語だ。その意味自体は理解できる。しかしその単語がこの場面で登場してくる意味が、理解できなかった。
そこからアメリアは、まるで当たり前のことを話すかのように、突拍子もないことを語った。
――この世界は乙女ゲーム『LOVE FLOUR』の世界であり、主人公であるアメリアは突如として聖属性の魔力に目覚め聖女として認定され、貴族の通うアジュベール学園へ入学し、攻略対象である四人の男性と出会う。
アレックス・フォン・ジュリネリウス。
ベリンガー・ウィンウェン。
ベッグ・ロー。
ロベルト・マクウィル。
学園に入学したアメリアは四人の男性と交流を深めやがて恋に落ちるのだが、どのルートであっても、平民の身分であることを理由にその恋路を邪魔する悪役令嬢として、ハリィン・マクウィルが登場する。
攻略対象と親密な中になるアメリアに対してゲーム内のハリィン・マクウィルは様々な嫌がらせを行うのだが、最終的には全ての犯罪が明らかになり、王国において神聖な聖女を虐げた罪で処刑され、ハリィンという巨悪を乗り越えたアメリアと攻略対象は無事結ばれる。
これが各ルートにおける大まかな話の流れだが、『LOVE FLOUR』にはもう一つのルートとして攻略対象四名と同時に結ばれる逆ハーレムルートが存在する。
「通常であれば誰かのルートに入るんだけど、全員の好感度を一定数以上で全く同じにしてハリィン・マクウィルを断罪すると逆ハーレムルートにはいれるのよ。第一王子のルートだと王妃になっちゃうんだけど、逆ハーレムルートなら聖女のままで攻略対象と幸せな日々を送ることができるから私はこっちを選んだの。当時は逆ハーレムルートは賛否両論だったけれど、実際にこの世界に転生した身としては最高のルートだわ。最高に自由な聖女っていう立場のまま、攻略対象と好き勝手出来るんだもの」
本性を露わにしたアメリアの喋りは止まらない。
上場企業に勤めていたが部下のパワハラを問題視され会社を首になった前世を憎々し気に話したかと思えば、聖属性の魔力に目覚めると同時に前世の記憶を思い出したため、逆ハーレムルートに到達するためにどれほど奔走したかを自慢げに語り、ゲームの設定を最大限に利用して攻略対象の好感度を最大まで上げ、本来であれば学園の現在最高学年に在籍する生徒が卒業する際に行われる卒業パーティーで発生する断罪イベントを前倒しして創立記念パーティーで発生させたと自慢げに喋る。
「貴方……狂っていますね」
「私はいたって正常よ。ちゃんと聖女に認定されるときに健康診断や精神鑑定を受けたもの。心身ともに何一つとして問題を抱えてはいないわ」
「第一王子や義弟をまるで物語のキャラクターのように認識して、彼らと結ばれるために平然と他者を利用して陥れる。それが狂っていないと言えますか?」
「言えるわね。だって私はこの世界に愛されている主人公だもの。それに、アレックス達を
ただのキャラクターだなんて思っていないわよ。彼らが立派な男性だってことは、ベッドの上で何回も確認したもの。流石は攻略対象、皆とても逞しかったわよ。前世で関係を持った男性たちとは全く比べ物にならないくらいにね」
彼女がベッドの上で何を行ったのか理解できないほど、私は初心ではない。
だが、聖女がすでに清らかな身体ではなく何名もの男性と身体を重ねていることや、婚約者であった第一王子が婚約破棄以前から浮気を行っていたという事実に、言葉が出なかった。
私の知るアレックスは第一王子としての自覚を強く持ち、女性に対して非常に紳士な人物だ。婚約者でない女性と逢瀬し、さらには婚前交渉を行っていたなど信じられなかった。
僅か半年でアレックスをそこまで変化させてしまった聖女に、私は初めて恐怖を抱いた。
まるでアメリアという存在を中心にして王国そのものが捻じ曲がり崩壊する――そんな未来を幻視してしまう。
このまま彼女を野放しにしておくことは危険だと脳で警鐘が鳴る。だが、魔封じの首輪をつけられた牢獄に収監された私にできることは現状、何一つとしてなかった。
「さてと、色々と無駄に話してしまったけれど、そろそろやることをやっておきましょうか」
「……何をなさるつもりですか?」
そうだ。そもそも、アメリアはどうしてここにやってきたのだろう。
私に全ての真実を明かすため――では当然ない。そんなことをしても、アメリアに何一つとして利点がないどころか、真実を知る人間が増えてしまうという不利益が発生するだけだ。
恐らく、こうして私に対して全てを話したのは単なる気まぐれだ。
彼女が言うところの悪役令嬢が牢獄に収監されている姿を目にし、自分の計画が全て上手くいったことに気を良くしたため、思わず喋ってしまったのだろう。
彼女がこの場所に来たのには――私に会いに来たのには、なにか別の理由がある。
探りを入れるように、慎重に言葉を選びつつ口を開いた。
「……貴女はすでに目的を達成しているはずです。私を断罪し、望んだ逆ハーレムルートに入った。ならばもう、貴女がやらなければならないことなど、ないのではありませんか?」
私の問いかけに――アメリアは醜悪な笑みを浮かべた。
顔立ちの整った少女が浮かべるにはあまりのも醜く欲望に満ちた表情に、嫌な予感が走る。
「実は、まだ完全に逆ハーレムルートに入っていないのよ。入るための条件はさっきも言った通り二つ。一つは攻略対象の好感度を一定数以上で全く同じにすること。これはクリアしたわ。問題はもう一つ、悪役令嬢であるハリィン・マクウィルの断罪。この断罪というのはね、ハリィン・マクウィルが犯した罪が暴かれることではなく、その罪による刑罰を受けて初めて条件達成となるの――つまり、貴女が聖女を虐げた罪で処刑されない限り、逆ハーレムルートに入ることができないのよ」
「そうだとしても、貴女がこの場所を訪れる理由にはならないと思いますが。このまま放っておけば、私はいずれ貴女の望む形で処刑されるのですから」
「ふっ、心にもないこと言っちゃって。ハリィン・マクウィルという悪役令嬢について、私はそれなりに理解しているわ。どうせ刑が執行されるまでの猶予でどうにか自分の無罪を証明できないか考えているのでしょう?」
「だとしたら、どうするんですか?」
「別に何も。だってその努力――全てが無駄になるんですもの」
アメリアが檻に近づいてくる。
監獄内に足音が響くたびに、心がざわめく。
「ハリィン・マクウィル。私はこう見えてかなりせっかちなのよ。目的が達成されるまであと一歩なのにそこで足踏みしなければならない状況に耐えられないくらいに」
「……私の処刑が執行されるのに時間がかかっていることが、不満なのですか?」
「ええ。だって、ゲームなら十分ぐらいで処刑が終わって逆ハーレムルートで楽しく気持ちよく生きていけるのに、現実じゃ取り調べだなんだって時間がかかり過ぎなんだもの。だから私がこの場所を訪れた理由はとても単純よ。貴女の処刑がさっさと執行されるように、手を回しに来たのよ」
ちょっと忘れ物をしたから教室に取りに行くと友人に告げるときのように、軽い口調。
声音に込められた悪意さえなければ、ただの日常会話として聞き流してしまいそうだ。
語られている内容は、己の利益のために一人の人間を殺す刑罰の執行を早めたいという、身勝手で正気の沙汰とは思えないものにも関わらず。
「そんなことはできません。私はこれでも公爵家の人間です。上級貴族の刑罰は入念な取り調べと現場の再検証を行ったうえで判断され、執行される決まりですから。いくら貴女が聖女とはいえ、国王に刑罰の執行を早めるよう要請することはできません」
「それはどうかしら。例えば、牢獄に収監された公爵令嬢を改心させようとした聖女に大罪人が悪辣な言葉を吐き捨て、聖女を深く傷つけたとしたら。そして、その場面を聖女に惚れ込んだ第一王子と聖女を信奉している騎士たちが目撃したとしたら――どうなると思う」
「まさか……」
「実は、ここに入る前に一緒にいた第一王子と数名の騎士にこう伝えておいたの――十分経っても私が出てこなかったら、様子を見に来てはくださいませんかって」
私はようやく彼女がこの場に現れた意味を、その目的を理解した。
だが――すでに時は遅かった。
出入り口の扉が荒々しく開き、何名もの足音が豪雨のように鳴り響いた瞬間、アメリアは自分の手で髪を掻き乱しその場に膝をつくと、瞳からボロボロと大粒の涙を零し始めた。
悪辣で非道な悪女から庇護欲を誘う可愛らしい聖女への変身の速さに呆然としていると、数名の騎士を従えたアレックスが姿を現した。
泣き崩れたアメリアに、アレックスが目を見開いた。
「――どうしたんだ、アメリアッ!?」
「アレックス様……」
アレックスがアメリアを抱き起す。慌てふためく姿から、聖女アメリアが作られたものであるということに、全く気付いていないようであった。
「ハリィン様に……どうして私を虐げたのか質問しましたら、平民が聖女であることが気に入らないと……貴族の足元に這い蹲っているのがお似合いな平民が、私の所有物であるアレックス様に近づくのが気に食わないと……そうおっしゃると、檻から手を伸ばして私の髪を掴んで……」
「もういい、アメリア。すまない、君を傷つけるような悪女であっても正式な手続きに乗っ取って罰を受けさせるべきだと――そう考えていた私が間違っていた」
この流れは不味い。
このままでは、自らを虐げた相手であっても優しく寄り添おうとする聖女に暴言を吐き暴力を振るったことが事実として認識されてしまう。
そうなってしまえば――死刑からは逃れることができなくなる。
「アレックス様、私の話を――」
「――黙れ」
状況を変えようと発した私の声を遮ったのは、怒りに震えたアレックスの声であった。
憤怒で歪んだ表情と刃よりも鋭い眼に、思わず怯んでしまう。
アレックスとアメリアを守るように立つ騎士たちも、信奉する聖女が傷つけられたことに対して、今にも腰に帯びた剣を抜き放ちそうなほどに殺気立っていた。
「ハリィン……貴様がこれほどまでに醜悪な悪女だとは思いもしなかった。貴様が私の婚約者であったことは、私の人生における唯一の汚点だ。自らを虐げた相手にも寄り添おうとする心清らかなアメリアに酷い言葉をぶつけ、あまつさえ暴力を振るなど……決して許されることではない」
「ア、アレックス様。お願いします。どうか私の話を――」
「黙れ。貴様の話になどもう耳を貸すことはしない。そしてなにより、アメリアを幾度となく傷つけた貴様が未だに生存していることそれ自体、最早許すことはできない。国王に、今すぐにでも貴女の死刑を執行するよう進言させてもらう」
アレックスは殺意に塗れた声音で吐き捨てると、アメリアと騎士を連れてその場を去った。
何か否定の言葉を口にしなければならない――そう頭では思っているのに、何年もの間パートナーとして共にいたアレックスから向けられた憎悪と殺意に、声を出せずにいた。
離れていく彼らの背に視線を向ける――すると、振り返ったアメリアが愉悦交じりの醜悪な笑みを浮かべた。
それに気づいたのは、私一人だけであった。