思い出した
「おーい、アリエェン! 叔父さんが羊達を小屋に戻したら夕ご飯にしようだってー!」
山脈の連なるカラディア高山の麓の長閑な高原に、少女の声が響いた。
だがその時、羊を追っていた余は唐突に全てを思いだす。
―――余の名はカイザー・ヴァロ厶・ディブロ。
今より数えて120年前。7百万の魔物共の軍勢を従える、史上最強のこの世界の統治者であった。
愚かな人間共の国という国を片っ端から沈め、無抵抗に息を潜めて生きるという者だけは、生き餌として生かしてやっていた。
人間でなくとも余に楯突くものは、天使と言わず魔族と言わず一族郎党血の海に沈め、余に刃向かう者など世界中何処にも存在しなかった。―――っなのに……。
余は記憶をたどる最中、怒りのあまり手にしていた鉄の羊を追う杖を強く握りしめた。
―――あいつのせいだ。
宰相にして使ってやっていたヘロイン。
ヘロインは頭は切れたが、さほどの魔力も持たぬ魔族の男だった。
―――そんな奴を目を掛けてやったというのに、恩を仇で返し、ヘロインは余に毒を盛った。
しかもその上、あろう事か余の城に勇者とか言う人間を手引きし、呼び込んだのだ。
そして毒により魔力の暴走を起こしていた余は、敢え無く勇者に討ち取られた。
―――苦痛と屈辱の苦悶の中で、余は必ずや来世でヘロインと勇者の血筋を根絶やしにしてやると復讐の誓いを立て、その意識を闇へと沈めたのだった。
なのにこれは一体どういうことか?
「ワン!」
「わぁ!?」
余がかつての記憶を辿り、己の現状に唖然としていると、突然フッサフサに毛を生やした白と黒のブチ犬が、余に飛び付いてきた。
余はバランスを崩し草原に倒れ込む。するとその犬は余の顔を恐れもせず舐め始めたのだ。―――何たる屈辱!
だが余はこの駄犬を知っている。
何故なら、かつての余が魔王として君臨した70余年に加え、アリエンという名の人間として生きていた10数年の記憶も、この記憶に焼き付けられているのだから。
「やめろテラ! お座りっ!」
「クゥーン、キュンキュン……」
ベロベロと余の顔を舐めていた駄犬という名のテラは、物惜しそうな声で鼻を鳴らしながらも、余の指示に従ってその場に腰を落として座り込んだ。
「まったく……」
「何が“まったく”よ、アリエン。テラはアリエンの手伝いがしたくて来たのよ? 早く羊を追い込んじゃわないアリエンも悪いんだからね」
アリエンの記憶の中で聞き慣れた声が背後から響き、余はノロノロとそちらに振り返った。
そこに立つのはソーニアという名の人間。
長いハチミツ色の髪を一本のおさげに纏めた、顔立ちはまぁ悪くない若い雌だった。
ソーニアは7歳の頃、家を魔物に襲われ、両親を亡くしていた。
そして幼くして天涯孤独になったソーニアを、アリエンの両親が不憫に思い、後見人を買って出たのだという。
アリエンとソーニアは同い年で、今年で共に14歳を迎えるのだが、長く同じ家で過ごしたせいか、余に対し随分馴れ馴れしい雌だった。
余がソーニアに冷ややかな視線を投げかけるも、ソーニアは気にする気配もなくテラの頭を撫でまくる。
「可哀想にねぇテラぁー」
駄犬に何を言ってるんだ? コレだから人間は気味が悪い。
余がそう思い深い溜息を吐いた時、ふとソーニアが顔を上げて、余に笑いかけてきた。
「私も手伝うよ。だから一緒に帰ろ、アリエン」
「……うん」
いや。“うん”ではないだろう。余は魔王ぞ? クソっ、アリエンの記憶がこの身に染み付いてしまっておる。
余は条件反射で頷いてしまった己に屈辱と苛立ちを感じ、手にした羊の追い込み棒を振り回していると、急に駄犬テラがすっくと立ち上がった。
そしてそのまま一方をじっと見つめていたかと思うと、身を低く構え、低く唸り始めた。
「グウゥゥゥ……」
「テラ? どうしたの?」
ソーニアも不安気にテラに身を寄せる。
と、テラが睨み唸り声を上げていた方から、頭に三角の布を巻いた小太りの人間の雌が、鬼気迫る形相で走ってきた。
アリエンの母親、ケイトだった。
ソーニアが慌ててケイトに駆け寄っていく。
「叔母さん! どうしたんですか!?」
「来ちゃ駄目! い、家にっ……魔物が出たの!」
「えぇ!?」
魔物だと?
「そんな……っ叔父さんは!?」
「まだ家に……家に立て籠もって気を引くから、私が二人に危険を報せてこいって……助けを呼んで来いって……」
「う、うそ……なんでっ」
何が悲しいのか目からボロボロと涙を零すケイトに、恐怖と驚愕で顔を蒼白にするソーニア。
しかし余は、思わず口の端を吊り上げ笑った。
豚頭の魔物と言えば、余の軍勢の中では正直下っ端も良いところの魔物だった。
だが今の魔王軍がどうなっているのかについて、大まかな内情を尋ねる事くらい出来る筈。
仮に何一つ分からないと言われても、群れに案内させれば上位の魔物辺りが何か知ってるだろうと思ったのだ。
―――待っていろよヘロイン、そして勇者よ。余がこうして目覚めたからには、その血の一滴まで遺らず消し去ってくれるからな!
「アリエン! どこに行くの!? 戻ってきなさいアリエン!!!」
「駄目よアリエンっ、行かないで!」
余はケイトやソーニアの制止を振り切り、歓喜に胸を躍らせながら魔物の出たというあばら家に向かって走り出した。
◇
余は丘陵を風のように駆け降る。
少しすると窪地に木々が立ち並び、その間に小さな小屋が見えてきた。―――アリエンの生家である。
余が更に小屋に近づけば、そこには棍棒を手にした三匹の魔物がうろうろと群がっていた。
あんな小屋、手にした棍棒でとっとと叩き壊せばいいものを……。
余ならばそう思うのだが、さして知能の高くない魔物共は、家から立ち昇る“魔物避けの香”の煙を嫌い、攻めきれないでいるようだった。
だが今の余にとってはそんな愚鈍さすらも懐かしく、魔物共の前に躍り出ると意気揚々と声をかけた。
「久しいな、我が同胞。愚鈍なるオーク共よ!」
途端、三匹の魔物共の赤い目が余に向けられる。
「ニンゲ……ン……ココニモ居タ!」
「ク、ク、喰ウゥゥ!!!」
「ブゴオォォォッッッッ」
そう言って一斉に襲い掛かってくる魔物共に、余は鼻を鳴らして呟いた。
「まるで豚のような声を上げおってからに……」
余はやれやれと肩を竦めると、こちらに突進してくる魔物に羊を追う棒を突きつけて魔力を練った。……しかし
「ん?」
余は直ぐに妙な事に気が付いた。
体内の魔力を、うまく練り上げられないのだ。
以前は体内にある核で魔力を練れば、まるでたっぷりと水を吸わせたスポンジを絞る様に、ふんだんに魔力が溢れ出してきた。
だが今の身体は、まるで鋼鉄スポイトの様だ。
渾身の力で鋼鉄の容器を押して絞って、漸く一滴を絞り出せるかどうかと言ったところ。
「……チッ」
余は憎々しげに舌打ちをすると、掲げた羊を追う棒を下ろして地を蹴った。
突進してくる魔物共の進路軌道から外れ、奴らの攻撃を避けたのだ。
「ニンゲン……避ケタ……ヨケタ……」
「ツカマエテ クウ」
「ブギッ、ブギギッ!」
驚いた様に余を見る魔物共に、余は特に構えることもなく向き直り、手にした羊を追う棒で自身の肩をトントンと叩いた。
まぁ、魔法が使えずとも、雑魚は雑魚。恐るるに足りん。
どうせ魔物は力こそが全ての単純な生き物だ。
見せしめに一匹を屠れば、他は多少余の話を聞くようにもなるだろう。
余はこちらを睨み、ダラダラと涎を垂らす三匹の魔物共を値踏みするように眺めた。
「ふん。どれも取るに足らん能無しだな。―――だが、中でも見込みがないのはお前だ」
余はそう呟くと、先程から豚語しか口にしない木偶の坊に狙いを定めた。
―――魔力は練れず、肉体は貧弱。魔物共は縦横共に余の体格の倍はあり、そして武器と呼べる物はただの鉄の羊を追う棒のみ。
直後、再び突進してきた魔物共に、余も地を蹴って走り出した。
奴等は余が逃げるとでも見くびっていたのか、たちまちにその距離感を見失う。
余は余裕を持って愚鈍な魔物共の脇をすり抜けると、目当ての魔物の背後に回り込んでその背に取り付いた。
「ブッ、ブォ?」
困惑しながら、大きく頭を振って余を振り落とそうとする魔物。
余はそんな魔物の肩の上にバランスを取ってしゃがみ込み、これから死にゆく同胞に、優しく声を掛けてやった。
「まったくなっておらんな。雑魚と言えど、己の弱点をこうも晒すとは巫山戯ているのか?」
「ブギイィィ!」
魔物は余を握り潰そうと腕を伸ばしてきたが、己の肉が邪魔してその腕は余に届かない。
「何度も教えた筈だろう豚共が。貴様らはそのたるんだ贅肉のせいで背後を取られれば無力化すると」
余は羊を追う棒を両手に持って構え直し、一点に向けて突き立てた。
「その硬いゴムの様な皮の下。鋼の様な肩甲骨の裏側に、魔物は魔力を溜めた核を持つ。それは心臓より重要な臓器よ」
「ブヒィィ!!」
魔物は悲鳴の様な叫び声を上げたが、実際杖先は肋の隙間に食い込んだだけで、その皮膚すら突き破れていない。
まぁ、脆弱な人間の腕力ならこの程度が限界か。
―――だが、二足歩行の生き物には、腕力よりより強力なパワーを発揮する部位が存在する。
余は背部の肋の隙間に杖を食い込ませ、ガクガクと全身を痙攣させる魔物に脚を高く振り上げた。
「油断して、急所を晒していた己の浅はかさを悔いるがよい」
余はそう言って笑いかけてやると、振り上げた踵を真っ直ぐ羊を追う棒の柄に叩き込んだ。
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