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変な匂いがあたりの森に漂っていた。
それはまるで芋を蒸かした時のような……。いやもっと甘いものを煮詰めたような胸やけを起こしてしまいそうな臭いがあたりに充満し、目覚めたばかりの鼻いっぱいに広がりむせてしまいそうなにおいだった。
指先を動かそうとすれば衣擦れのような音が聞こえてきて、自分が使ったこともない寝具の上で寝かされ、どこかへ運ばれた……のだろうか。
目を開こうにも見知らぬにおいと居心地の悪さからくる不安と恐怖で体が凍り付き、瞼が思ったように動いてくれない。
落ち着こう。そう思い、ゆっくり、ゆっくりと深呼吸をしながら目を開けると、青と黒が混じったような艶のある不思議な光沢があるむき出しの梁に、同じ素材を使ったのだろう天井板がまず目に入った。
天井からは縄のような物で不思議な橙色の物体が下げられ、物体には顔のような形の穴があり、穴の部分から明かりが漏れていた。
照明器具、かなにかだろうか。
思っていたよりもずっと明るい光が薄暗い室内を照らしていた。声を出そうとして、喉が焼け付くほどの痛みを覚える。
もうずいぶん水を飲んでいないかのような喉を鳴らし、「ここは……?」と上げた声は村長のように年を取ったかのようなしわがれ声だった。
「ようやく起きたか、寝坊助野郎」
よもや、返事なんて期待していなかったが、傍らから女性……だろうか。しわがれ声にも幼女のようにも聞こえる声が聞こえてきた。
「だ、れだ?」
声の聞こえた方向――自分が寝ている場所の左側――を見ると、そこには木製の椅子とサイドテーブルが置かれ、奥には蝋燭によって照らされた天井と同じ素材の壁が見えた。
驚いたのはその椅子には不思議な格好をした少女の姿があったのだ。
年のころは二十代前半といったところだろうか。
少女はまるで欠けた月のように先が曲がっている紫色をした鍔広の帽子に、橙色をした布地のワンピースを着ていた。そのワンピースの上から、袖が広がっている紫色をした男物の燕尾服のような上着を羽織っていて、上着とワンピースの隙間からはネグリジェらしき黒い線がのぞかせていた。
帽子と赤茶色の長いぼさぼさの髪の毛の間から生まれつきなのかそばかすと、彼女の性格を思わせるつりあがった翡翠色の瞳が印象的だった。
それが誰かを確信して俺は歓喜に震えそうになった。
間違いない。彼女は俺が聞き、探していた魔女の特徴と見事に合致していた。
「沼地の……魔女?」
「……はあ、せっかく愚図を助けてやったってのに、またそれかい」
どこか幼く見える顔を気分を害したとでも言いたげな歪み、本当にやるんじゃなかったと愚痴りながら立ち上がった。
助けた?
恐ろしい魔女と噂されていたあの"沼地の魔女"が俺を助けた、ってことだろうか。
事態を飲み込もうとしていると、魔女はそのままベッドの角を蹴ってベッドを揺らした。
「ほら起きろ愚図。いったい誰がお前の看病をしてやったと思ってるんだ恩知らず。さっさと起きて動けるようになって村へ帰れ」
揺らされるベッドの角を慌てて両腕でつかみ、ここから引きはがされまいと抵抗する。まるで子供のような抵抗だったが、そうしなければならない理由が、俺にはあったのだ。
「か、帰るわけには、いかない。せっかく、探してた魔女に会えた……! ここで、帰るわけには!」
必死になってベッドの枠にしがみついていると、ベッドの地震がピタリと止み、ベッドから顔を上げると魔女は渋みの残った果物を嚙みしめたかのような顔でこちらを見下ろしていた。
「ちっ、なんだお前は知らずに来た間抜けじゃなくて知ってても来た阿呆か」
彼女は盛大なため息をつくと、すぐそばにある椅子を引っ張ってきてどっかと魔女が椅子に座り直し「それで?」と口を開いた。
「その阿呆は沼地の魔女であるこの俺様に何の用があったって? 村の小せえ水路にすらつまらねえようなみみっちい話なら今すぐこの家から叩き出すぞ」
俺は必死になってここに来た理由を告げた。
村が魔物に襲われたこと。あの人が死んだこと。それから魔女の噂を聞いて彼女を生き返らせるために来たと。
一通り説明し、彼女のことを生き返らせるというと、魔女はまるで不快なものを聞いてしまったとでも言いたげな、俺を見下すような目線で睨んでくる。
「はあ? 恋人を生き返させるために来た?」
そして、自分がここに来た理由を明かすと魔女は一笑に付した。
「それはわざわざご苦労なことだな。お涙頂戴の冒険譚だ。俺様が英雄なら喜んで手を貸しただろうさ、勇者様」
「頼む。彼女を救いたいんだ。だから――」
俺が懇願しようとすると、魔女はつまらないとでも言いたげに腕を組んで天井を見上げた。
「……くっだらねえ事を言ってないで、とっとと村に帰りな。てめえはそれだけの理由でこんな魔物しかいない醜悪な沼に死ぬ覚悟をしてきたって言うのか」
最後の頼みの綱に拒否をされて頭の中が真っ白に染まっていく。
冒険譚と言われ冷やかされようとも、拒否されるのもわかっていたうえで俺はここまで来た。だから、それに関してはどうでもよかった。
ただ……、ただ、なによりも、自分のことを認めてくれていた彼女のこと馬鹿にされたようで、魔女の言い草が、俺の頭に血を登らせるには十分すぎるくらいだった。
気が付いた時には、目の前には部屋の床が広がり、自分の下に魔女を下敷きにしてそのほそっ濃い首に手をかけていた。
柔らかい人間と何も変わらない魔女の肉の感触が手に伝わる。今からこの女を殺すぞと思うと何もかも怖くなくなっていた。目の前には憎悪を向けるべき女の首と力が入りきって白くなってしまっている自分の指。それだけで十分だった。
食いしばった歯が痛みを訴えかけるが、俺の下で魔女の自分を見下すような目を見ると、そんなことどうでもいいとばかりに渾身の力を指先に込めていった。
殺してやる。殺してやるころしてやる殺してやるコロシテヤルころしてやる殺してやる!
目を閉じて、体重もかけてすべてを無くす勢いで彼女に首を思いっきり絞め、細っ濃い首を支えている柔い骨を砕いて今すぐにでもそのいら立つ声を止めてやる!
そうすれば、魔女の空気を欲する喉の音が響いて聞こえるはずだった。
だが、どれほど力を込めても、魔女の口から助けも細い吐息も漏れてこなかった。
万力のように力を込めても、体重をかけて枝のような首筋を折ろうとしても、一向に指先はそれ以上沈み込むことは無く、魔女は「はあ……」と、苦しい息遣いなどではなく、まるでお前の行動はもう飽きたとでも言いたげなため息をついた。
「満足か変態」
「なにを言っているんだ」
そう口にしようとした言葉は自分の口から出ることは無く、代わりにいきなり魔女の顔が遠くなり、自分の背中にたたきつけられたような痛みが激痛が全身走り抜けていく。
立ち上がろうとしても痛みが邪魔をして立ち上がれずにもがいていると床に影が落ちた。
「こんなに可愛い俺様に馬乗りになってこの柔肌の首絞めて置いて何を言ってるだあ? お前の村では感情を表に出して女を襲うのは変態って言わないのか?」
「なっ! がぁ! おぉ!」
何をしやがった。
そう口にしようとしても背中の痛みが邪魔をして悶絶するような漏れ出てくる音しか出てこなかった。
「はっ、男の悶絶する声なんか聴きたくもねえ。おい、その程度で死ぬなよ、変態の愚図野郎」
思い切り髪を持ち上げられて視線を無理やり上にあげさせられる。すぐそこに持ち上げたであろう魔女の顔があって思いっきりにらみ返してやるが、絵面を思うと何もかも情けない姿でしかない。
「なんだよ、その顔。俺様が居なければお前は死んだも同然だったんだぞ?」
「な、に……?」
「嘘だと思うんだったらその付け替えてやった腕を見てむざむざ思い出すんだな、変態。命が助かっただけ儲けもんだと思うのが筋ってもんだ」
言われた通り慌ててシャツの袖をまくって両腕を確認すると、たしかに魔女の言う通り片方の腕が不自然な紫色のような色に染まっていた。まるで、血が通っていない青白い肌のようで、生きている人間の肌とは思えない、そんな色だ。
腕を見た瞬間、魔女のうわさを聞きつけ沼地に足を踏み入れた時のことを思い出して吐息が震える。
そうだ、俺は沼地に入った途端、見たこともない魔物に襲われて腕を――。
すぐ目の前にまで迫っていた死を思い出し、顔から血の気が引いていきそうになるが、それ以外に異常と言える以上は見つからない。
まるで壊死をしてしまったかのように不自然な色をした腕以外は特別変わった様子はなく、その腕も問題なく動くどころか感覚まであった。
「悪運がいい奴だなお前は。相手がまだアリゲーターでよかったなあ。これでスライムに襲われてたらお前は腕だけじゃなくて肉を全部持ってかれてたさ。そうすりゃ今頃骨のバケモンだぜ」
悪い冗談だと思った。
沼地の魔物に襲われたが魔女の気まぐれで生き残り、腕以外は人間のまま済むなんて、自分の今の状態がまるで妻を助けられなかった神様が今更になって俺を助けているようにしか思えない奇跡だった。
混乱したまま黙っていると、魔女のため息のような物が聞こえた。
「ふん、愚図からは感謝も無しか? だから愚図なんだ」
痛いほど持ち上げられていた髪からふいに痛みが消え、顔が自由落下しそうになったことに気が付いて慌てて両手で地面を支えた。
よほど不機嫌だったのか、木製の椅子が壁にたたきつけられるような音がして、何事かと視線を送れば魔女が扉の方へとずかずかと大股で歩いていた。
「まったくイライラさせやがる。いいかよく聞け脳無し! お前を助けたのはこの俺様、沼地の魔女とお前らの村で呼ばれている魔女様だ! お前に感謝こそされど、貴様の怒りの矛先になる理由も、性欲のはけ口になる気もないんだよ! 用が終わったならとっとと出てけ、変態野郎!」
尊大な態度と俺への呼び方を講義しよう立ち上がったが、魔女は止める間もなくドアをけ破るように出ていくと、同じ勢いで部屋のドアを閉じられてしまった。
起き上がるときに使ったベッドの端を掴んでいる自分の腕が、前の腕を使っていた時とそん色ないほど違和感がないことに気が付いて、魔女が治療したという自分の腕をもう一度見た。
太さも大きさも、色までも食いちぎられたと思われる部分からちぐはぐになっていて、質の悪い人形の腕のようになっていたが、いざ動かせば何も変わらない自分の腕で、それがなんの技術も使われていないとは思えない感覚だった。
価値のない俺が魔女に助けられた……。
あの魔女の言い分は確かに腹が立ったし、彼女が死んでしまったのなら生きている意味がないと思っているのも確かだったけれど。
助けられて安心してしまった自分も居て、壁を叩いた。
「……くそ」
自分のふがいなさにも腹を立てながら、俺はその場にうずくまるしかできなかった。