一章 第二十七話「歯車が狂いだすかのように 後編」
これほど懸命に足を動かし、これほど力強く大地を蹴ったことがあっただろうか。
すっかり熱に浮かされたかのような脳を働かせ、トビーはぼんやりと思考する。
頭の方はすこぶる頼りないというのに、足取りの方は随分と達者だ。後ろを疾駆するティモシーと共に、あっという間に件の黒い点の正体が見て取れるほどまで来た。
「あ、魔獣」
言葉を漏らして停止する。
トビーの目線の先には、整然と列を組んで向かってくる犬型魔獣の群れがある。
数にして百近く。
よく見るとその後ろには狼型も混じっており、さらにその奥には魔人の姿すらもあった。
いずれも身体中には血に染められたかのような深紅の痣が蔓延っており、それと同色のコアもまた、その存在を主張するが如く爛々と輝きを放っていた。
その様はある種の統一感を感じさせるが、やはりばらばらの種が連れだって行進する姿は奇怪に見える。
魔物というのは本来同じ種でしか群れないことを、トビーのこれまでの経験上知っていった。リーベだったころの名残か、敵から身を守るために連携力を高めるためか。
どちらにせよ、その常識から外れたこの光景は、控え目に言ってかなりの異常事態だ。
トビーは後ろを振り返り、到着したばかりのティモシーに笑いかける。
「ははっ、見てよティモシー。魔獣も魔人もこんなに。まるで騎士団の隊列のように並んじゃってさ」
トビーはいつものようにティモシーと談笑したかった。こんなに珍しい光景ならきっと盛り上がるだろうなと、そう思っていたのだが。
肝心のティモシーは魔獣の群れを認識すると、急に青ざめた顔になってトビーの方へ駆け寄った。
「……魔獣、だと……? お、おい! 何やってるんだ、トビー! 今すぐそいつらから離れろっ!」
「どうして?」
「どうしてじゃねえ! それは……! それは……それは……?」
まただ。最近のティモシーはどこかおかしい。態度の移ろいが激しかったり、言葉の内容が一貫していなかったり。
行進を続ける魔物の群れがトビーらを横切る。
トビーはそれらを案内するように街の方を指差してから、ティモシーを宥めようにそっと肩に手を置いた。
「魔物は恐れるべき存在じゃない。俺たちの仲間だ。そうだろ?」
「仲間……? 仲間だって……!? それは誰に言われたことだ……!?」
「……? そんなの、頭の中の声だって」
「そうだ! それだよ! 今までずっと聞こえているけどさあ! よく考えてみろ、一体これは何なんだ!? どこから来た!? いつから聞こえるように――」
過熱するティモシーの狂気が、そこで不意に止んだ。
「え……?」
光だった。赤い光線が、突如トビーとティモシーの間に割って入った。
視界まで赤く染め上げるような眩さに、トビーは目を背ける。
時間としては刹那、だが次にトビーが視力を取り戻したときには、今の今まで会話をしていたティモシーの姿が跡形もなく消え失せていた。
「え、え、ティモシー……? ティモシー……!?」
胃の奥からきりきりしたものがせりあがってくるのを感じながら、トビーは大慌てで友の姿を求めて辺りを見回した。
行進する魔獣。魔獣。魔獣。魔獣。魔人。魔人。魔獣。魔獣。門。林。草原。草原にある擦過痕。土煙。露出した土。石。そして――。
「……あ……」
擦過痕の線上、荒れた地面の元。何か湯気のような白煙を立ち上らせる物体が転がっている。
赤や白、茶色いその塊の周りには、円状に延びた赤い液体が。
トビーは意味が分からなかった。
あの横たわる赤は何だ。先ほどの光の残像だろうか。そう思ってトビーは己の両眼を頻りに瞬いてみたが、その赤が視界から消えることはなかった。
では、トビーの足元からあそこまで続くこの擦過痕はどうか。こんなもの一瞬前まではなかった。その一瞬の間に起こったことと言えば、それはあの赤い光線の出現の他になく、当然この痕もその余波で生じたものとしか結論づけることしかできなかった。
もう一度、件の赤を見る。依然として鎮座するそれもまた、一瞬前にはなかったもの。
トビーは眩暈を覚えた。
得体の知れないものばかりポンポンと生えてくる一方で、逆に一瞬前まで確かにそこにあったティモシーの身体は見る影もない。
「え、でも……あれ? もしかして――」
突然の出現と消失。両者の間の符合に、トビーが気付きかけたその時だった。
「あーあ。いっけねえ……やり過ぎちまったぜ」
声が聞こえた。トビーのすぐ近くで。
「え――」
それにつられてトビーは顔を上げた。
人が歩いてきていた。いや、人のようでいるが、確実に人ではなかった。
格式ばった黒服に、露出している肌の各所は赤い痣に彩られている。そして、その服の胸元の部分から漏れ出す紅の微光。
人型のイブリス、魔人。
気が触れそうなほどに禍々しい雰囲気を漂わせているが、その外見はかつて見たどの魔人よりも正確に、人の男性の姿を模倣していた。
「悪いな、あんた。少し加減が聞かなかったみたいでよ」
「な、何を――」
声の震えが止まらないトビーに、その魔人は呆れた笑みを浮かべながらトビーの後方を指さす。
「ほら、その後ろに転がる肉塊。あんたのお友達だろ? 放っておけば余計なことをしそうだったもんで止めようと思ったんだが、あのざまだ」
何を言っているのかこの魔人は。あんな形が曖昧とした塊がティモシーのはずがない。
トビーは後ろを振り返ることなく、呆然と魔人を見つめる。
「あー……そうか。あんたら記憶がぶっ壊れてるんだったな。それで認知までもが歪んじまったってか。ったく、あいつらも酷いことをするもんだぜ」
立ち尽くすトビーの姿に魔人は得心がいったように手を叩き、「まあおかげでちっとは楽できそうだけどな。あんたもご苦労さん」と豪快に笑う。
「記憶……? そんなことは、だって、え……?」
「あらら……こりゃ重症だな。さてはあんた、ヌール組か?」
「――――え」
ぬーる。ヌール。ヌール組。魔人からそれを聞いた瞬間、トビーの頭に雷で撃たれたかのような衝撃が走った。
頭に響いていた声がすっかり無くなり、自分の中に眠っていた何かが弾けたような感覚に襲われる。
「え、え、え、あ、あぁ、あぁあぁあ!!?」
脳の中に幾つも泡が生じ、膨張し、破裂しているような、連続的で鋭い痛みに耐えきれず、トビーはその場に蹲った。
『俺、将来騎士になりたい!』『ははは、きっとトビーなら父さんを超えられるさ』『勉強頑張ってるわねぇ、トビー』『将来が楽しみだな』
『あの、エマ! 俺と付き合ってくれ!』『嬉しい……ずっと待ってたんだから』
『おい、聞いたか? ホワイトさんとこの亭主が事故で……』『……父さんが守ってきたヌール、今度は俺が守るから』『うぅ……ぐすっ、さようなら、あなた』
『そう……そのまま、私の目を見るのです……あなたには、役立ってもらいます。どうぞ心地よい夢をご堪能あれ』
どれもこれも知らない映像。だというのに、それは悉くトビーの精神を抉った。
「ぐあぁぁっ!? 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だっ!! 知らない知らない、こんなこと! あってはならないっ!」
地面に崩れ落ちてトビーは叫ぶ。もはや彼にはそれしか残されていなかった。
「ヌールを守るんだ! あれ、でもそのヌールは確か……? 母さんは? エマは? いたはずだろ、そこに! なんで俺はそこにいない!? でも、エマって誰だ? 母さんって……? よし! 騎士としての務めを果たさなきゃ! 騎士って何だ? 街を守るのか? でも俺はさっき魔獣を……? え、なんでだ? ここはどこだっけ? おいティモシー、教えてくれよ! あれ、ティモシーって誰だ? いつそんな名前を聞いた? え、ちょっと待ってくれ。そんなことより、俺は……? そういえば、あの男の光る眼って、一体何だったんだ……!?」
かつて胸に宿した決意は揺らぎ、絶えず疑問が浮かび、あるはずだったものが欠如している。
自分が何者で、どこから来たのか、どこへ行くのか、一切が分からなくなる。
半ば廃人と化したトビーのその姿に、魔人はけたたましい哄笑を上げた。
「くっははは! こいつはいいな……! 完全に誤魔化しきれないぐらいまで壊れちまってよ……流石に意識を奪って移動させたのが効いたかぁ? これじゃあまともな人生を送れそうにねえが、思い出せたんなら何よりだったんじゃねえか? その愛する人や街も含めて……全部俺たちが滅ぼしちまったかもしれねえけどなぁ! ははははっ!」
魔人の感情に呼応するかのように、彼のコアや魔素質の赤光が明滅する。 嘲りながら悠々と歩いてくる魔人を、トビーは虚ろな目で以て捉えた。
「……ぁ、ぁ、頼む……頼む……」
「ああん?」
「……して……してくれっ」
「はぁ? ちゃんと声出せって」
「……ろして……殺してくれぇ……!」
魔人の裾に縋りついてトビーは懇願する。
トビーが服だと思っていたそれは、どうやら魔素質で構成されており、足本体と同化しているのか冷たく固い感触を伴っていた。
そして、対する魔人の視線もまた冷たい。
「……へえ、そっちの方が好みなのか? 大方、魔物になんざなりたくねえってことか」
「あぁ……あぁ……!」
古びた魔動機械の人形の如く不格好な首肯に、魔人は値踏みするかのような目つきでトビーを睨る。
それから程なくして、満足げに頷くと、爽やかな笑顔を見せた。
「ああ。絶対殺してやらねえ」
「あ、ありが――って、え?」
その人当たりの良さそうな笑みに、トビーは当然自分の願いが成就するものだと思っていたが。
まるで希望が砕かれたかのようなトビーのその眼に、魔人は再度笑う。先ほどとは異なる、凄絶な笑みだった。
「なんで俺がそんなことを聞かなきゃならねえんだ? 死んで楽になりたいっていうあんたの願いのために、わざわざ手を汚すなんざごめんだな」
「……ぁ、そんな……酷い……俺を、俺たちをあんな風にして――」
「ちっ、黙りな」
「がぁっ!?」
捕まれた足の反対で顎を下から蹴られ、トビーの身体は旋回して宙に舞った。
そして背中から地面に叩きつけられた彼の胸元に、魔人の赤黒い右手が添えられる。
「ひぃっ!? やめ、やめて――」
「止めねえよ。この先もせいぜい働いてもらうんだからな」
魔人が右手に力を込めると、その箇所に赤い光が宿る。
その手のままトビーの胸に触れる。瞬間、二つが接している面から赤い火花が散るかのような魔素の奔流が巻き起こった。
「あああぁぁぁぁっ!!!」
「ちっと痛いだろうが……なーに、すぐに済む」
とはいえ、突発的な激痛により白目を剥いてしまっているトビーには、魔人のその言葉も届かなった。
魔素が周囲に溢れ、トビーの肌は見る見るうちに魔人と同じ赤に染まっていく。顔も、腹も、胸も、足も、眼球すらも。
体組織が急速に崩壊し、魔素質で再構成されていく過程であり、リーベが言うところの汚染に相当する現象だった。
「……まったく、いつやっても最高の気分だぜ。奪う側っていうのはよ」
翳した右手を離し、心底愉快そうに魔人は呟く。
その眼の前には、赤黒い痣と深紅のコアをその身に宿した、もう一つの魔人の姿が。
かつてトビーだったその魔人は、黒服の魔人の彼に比べると一回り体積が大きく、目は塗りつぶされたかのような赤単色であった。
まだ人間の姿を模倣できるほどの理性と能力を持っていないことの証左だが、黒服の魔人は得意げに頷いた。
「まあ、所詮は雑兵。この作戦だけ役に立ってくれればいいだろ」
黒服魔人は立ち上がり、自身によって汚染したその新米の手を引いてその場に起こした。
「生まれたばっかで悪いが……そういう訳で、あんたにも街を襲撃してもらうぞ」
「……オ、オォ……」
背中を押されたその新米魔人は、先ほど魔物の群れが行った道を覚束ない足取りで歩き出した。
遠くの方では、既に開かれている門を目指し、件の魔獣たちが行進しているのが見える。
「挟撃……ヌールと同じ手ってのも芸がないが。これだけ面倒な仕掛けをしたんだ、せいぜい良い宴を期待しているぜ、エルキュールの旦那?」
絶望と恐怖で彩られる王都を想像し、その魔人は愉悦の表情を浮かべた。