一章 第二十六話「歯車が狂いだすかのように 前編」
トビー・ホワイトという男はここ最近の間、自身の身体の不調に頭を抱えていた。
もちろん騎士という彼の仕事を鑑みれば、疲れが溜まるのは致し方ないのだろうが。
街の警護、要人の護衛、魔物の掃討。日によって変動するこれら激務を処理するだけでなく、最近ではその身の潔癖さすら求められるようになっており、肩身の狭い思いをしている者も騎士の中にはいる。
だが、トビーを悩ませる不調とは、仕事における疲労や、王都のブラッドフォードの台頭による心労に由来するものではなかった。
自分の脳内で誰かの声が響いているかのような、誰かに思考を上書きされているとでもいうような幻聴や幻覚の類。
あるいは何の前ぶりもなく襲ってくる急な睡魔や倦怠感。
その程度や頻度は辛うじて職務に影響のない範囲に留まっているが、自分の意識に何か良くないものが蔓延っているのをトビーは感じていた。
だがこれだけなら、やはり疲労や心労が溜まっていると誰しもが考えるだろう。当然トビーも最初はそのように考えた。仕事の合間に医者や教会を訪ねてみたりもした。
ところがトビーの期待に反して、思ったような結果は得られることはなかった。いずれにしてもトビーの心身に異常はないと判断されたのだ。
そう。トビーは至って健康で、不調の由来になるようなものはどこにも見られないということだ。
であるはずなのに。依然としてトビーの症状は確かに存在していた。原因など無いと判明したにもかかわらずだ。
その得体の知れなさに不安が掻き立てられ、それに呼応するように不調も強くなり始めた。
そして、トビーが最初に不調を感じてからどれくらいの時が経ったか。ついに彼を蝕む倦怠感が仕事にまで影響し始めた。
身体を動かすのがとにかく億劫で、これでは魔物を討伐することもままならないほどだった。
何年も勉学と魔法・武術の修練に費やし、やっとの思いで就任した騎士職をこんな形で諦めたくなかったトビーは、上官に掛け合って仕事内容を門番の役に変更してもらった。
食い扶持を稼がなくてはならないし、付き合って数年になる恋人との生活のためでもあった。
そうして異動した初日の事、トビーはティモシーという同僚に出会った。彼もトビーと同じ門に配属され、同年代ということもあってすぐに打ち解けた。
「おー、お前トビーって言うのか。僕はティモシーだ、これから相方としてよろしくな」
「あはは、よろしく……ふぅ」
「ん? どうしたんだトビー? ああ、そう言えば、持病があるんだったか、お大事にな。辛かったら僕一人に任せてもいいぜ」
「お気遣いありがとう、ティモシー。けれど大丈夫。俺も騎士としての職務を全うしいからね」
「……おう、そうか」
「ところで、ここってこんなに大きかったかな……? 何だか記憶にあるよりも門が高いし、ずっと広くを見渡せる気がするんだけども」
「って、おいおい本当に大丈夫かよ!?」
トビーとティモシーは仕事の休憩中に言葉を交わし、よく青空の下で笑い合った。
彼のおかげか、トビーを苛む倦怠感は減退した。幻聴などは時折聞こえてくるが、幸い職務には関係がないほどだった。
それからどれくらいの時間が経ったか、少なくとも大した月日ではないはずだが、トビーとティモシーはいつしか友人と呼べる間柄になっていた。
「でさ、ティモシー。最近通信をしてもエマが話を聞いてくれないんだよ」
「んー? エマってお前の恋人の? というかこの前も言っただろ、忙しくても時間を作って直接会いに行けってさ。まさかまた忘れたのか?」
「うぅ……中々物忘れが激しくてね。最近では彼女の家がどこにあるのかすら忘れてしまいそうなほどだよ」
「おいおい……それはまずいだろ。いつの間に年寄りになったんだー?」
門の上の櫓の壁に背中を預けてティモシーが笑う。気恥ずかしさからトビーは頭を手で掻いた。
「そう言えばさぁ、この辺で先日魔人が出たらしいけど、最近はめっきり見ないよなあ」
「確かに。でもあんなものいない方がいいよ」
「そりゃそうだけどさ。何のためにここで立ってるのかよく分からなくなるんだよな。まあ実際現れたら困るけど」
「そうだね。魔物の持つ汚染能力、アレを喰らうと思ったら。俺はそんなことになるくらいなら自殺する方がマシだと思うけどね」
「お、言うね。確かにあんなバケモノになってまで生きるなんて生き恥もいいとこだよな。実は俺も、魔物に出会っちまってもう駄目だってなったら、そうしようと考えていたんだ」
「はは、俺たちは本当に気が合うよね」
「本当にな。こんな気の合う奴が同じ街に所属していたってのに、どうして今まで気付かなったんだか」
やはりティモシーとの心地の良い会話は、トビーの心身にもいい影響をもたらすしているのか。それからというのも、トビーの調子はすくすくと良くなっていった。
全身にのしかかっていた倦怠感も嘘のように無くなり、時には眠れなくなるような幻覚もめっきり見えなくなった。
しかしその代わりとでも言うべきなのか、物忘れの方はどんどん激しくなってきて、しばしばティモシーを困らせることになったが。
「……なんだか最近、町が暗い感じだね」
「そりゃそうだろ。だって――」
「だって……?」
「だって……ほら、あれだ。ヌールがあんな事になっちまったんだからさ。魔物の脅威に怯えもするだろ」
「……? ヌールって、ここのことだよね? あんな事ってどんな事?」
「はあぁ!? 何言っているんだ! ここはヌールじゃねえ、ミクシリアだぞ! ほら、あのアマルティアの件だって!」
「あ、ああ……」
「それにお前、オスマン騎士団長に頼まれてその件を報告したばっかのはずだろ? なんで忘れてるんだよ」
信じられないものを見たとティモシーは肩をすくめているが、それについてはトビーも同じ気持ちだった。彼もまた、その表情を驚愕に染めた。
「……君の言う通り、なんで忘れてたんだろう? 流石にショックが大きすぎたのか……?」
「まあ、気持ちは分かるけどさぁ……でもよりによってヌールとここを間違えるかぁ?」
「それは、だって。それは当たり前だよ、ティモシー。なんてったって俺は……俺は……んん?」
「……はあ。もう休んだらどうだ? そんな調子じゃ、これから先やってけねえぞ」
そろそろ休憩時間が終わる。ティモシーは持ち場である反対の櫓に戻ろうとして、ふと何かを思い出したかのように動きを止めた。
「あと、あいつにも会っておいた方がいいぞ。このご時勢、会えなくなってからじゃ遅いからな」
「あいつって?」
「は……? そりゃあ、ほら、あいつだよあいつ。お前の愛しのあれだよ」
ティモシーの言っている意味が読み取れず、トビーは目を丸くした。当人もまたその言葉の意味を分かっていないのか、露骨に舌打ちをして戻っていった。
これも街の雰囲気が暗くなったせいか。トビーもティモシーもどこか調子が悪くなってしまっていた。
特にトビーは最近までの不調が回復していただけに、落胆の思いも強かった。
しかし一度は良くなったものだ。ここでこうして会話していれば、またいつかその内治るだろうと、トビーは朧気にそう感じていた。
そうして、また日が経って――。
「なあ、ティモシー。俺達っていつから友達だったっけ……?」
「あー……どれくらいだったか……ま、数年はいってたはずだが」
「確かにそれくらい馴染んでいるような感覚だなあ」
「それよりさぁ、ここんとこ何だか他の騎士たちっつうか、団長たちから変なこと聞かれるんだよなー」
「変なことって?」
「『どうしてお前がここにいるんだ』ってさ。酷いもんだよな、僕が何をしたって話だ」
「ああー……それ、俺も似たようなこと言われたっけなあ。ここに来る前なんか、無理やり尋問室に入れられるところだったよ。まるで悪人を咎めるみたいでさ、嫌だよなあ」
トビーの言葉にティモシーは頻りに頷いた。
ここでも悩みを共有することができて、トビーは嬉しい気持ちになった。
本当に、この頃の周囲の反応は意味が分からないものが多い。
ついさっきここの門へ来るときに、既に別の騎士たちがいたときはびっくりした。
彼らは自分たちこそ、この門の本当の門番だと主張してきた。
意味が分からない。最初からここはトビーたちの管轄であるはずなのに。
まるで仕事を奪われるみたいで頭にきたが、なんとか話し合って彼らを引かせることに成功した。
彼らも街を守る騎士であるというのに、トビーらと会話をしている最中、急に目が虚ろになったり態度が希薄になったりして、本当に困ったものだった。
結局そんな頼りないのも一瞬で、彼らは自分たちが勘違いしていたことを謝りながら去っていったが。
「しっかりしろってんだよなあ。ここ最近は特に大変だって言うのに」
「大変って何が……?」
「あ? えー……それは、なんでだっけ。僕に聞くなよ」
「いやいや、君だって騎士だろう? だからここで、俺たちはこうして立ってるんだから」
「へえ、そうだったのか。知らなかった。誰がそんなこと言ってんだ?」
「俺の頭の中の声。最近はずっとそれが教えてくれるんだよ。俺がどうすればいいのか、全部」
「……ああー、僕も今聞こえた。はは、やっぱり僕たちは気が合うな!」
「あははははっ」
顔を見合わせて笑う。今日は随分と気分がいい。
やはり何事もない平和な世の中だからだろうか。
トビーの頭の中でまた声が響く。それに言われた通りに地平の彼方を見ると、黒い点が幾つもこちらに迫って来ているのが見て取れた。
「なんだ、あれ?」
遠く離れているからか、姿がはっきりしない。目を凝らして辛うじてわかるのは、大体が四足歩行をしており、残りの二割ほどが二足歩行をしているということくらいだ。
「ちょっと見に行ってみようぜ」
「えぇ!? 騎士が持ち場を離れちゃ駄目じゃないかな。そうじゃなくて他の騎士に連絡とか――」
「つっても、そんなこと『声』は言ってねえぞ?」
「……ならいい、のか。よし、それじゃあ、ちょっと確認しに行ってみよう!」
謎の高揚感に後押しされ、トビーは急いで櫓を下りた。ティモシーもそれに続く。
そうして二人で堅牢な石門を開けて、だだっ広い草原へと駆けていく。
彼らの眼は、果てしない自由に歓喜する少年のような輝きを湛えていた。