やさしい花の種が咲く
お母さんは、ぼくのことが嫌いなのかな。
夕方、たった一人で公園で、男の子が砂場に文字を書いていました。
男の子がそんなことを考えていたのは、また、遅くまで遊んでしまったからでした。
友達はもうみんな、砂場に山を作った後で帰ってしまったのです。
だけど、男の子だけは、どうしてもその山にトンネルを掘ってしまおうと、夢中になりすぎたのです。
すぐにできると思ったのにな。
トンネルの出来栄えには満足していましたが、夕陽はもう、沈みかけていました。
遊び疲れたいま、一人きりの男の子の頭に浮かんでくるのは、お母さんの怒る顔ばかりです。
「おかあさんはぼくのことがきらい」
目の前に誰かが立っていたことに気がついたのは、砂場にその文字をかいた、ちょうどそのときでした。
「ねえ、きみ。なんでそんなに、暗い顔をしているんだい」
それは、知らないお姉さんでした。高校の制服を着ていました。
夕陽に背を向けていて、影になっているその顔を見上げた後、男の子は首を振りました。
話す気にはなれなかったからです。
けれどお姉さんは、ふふふ、と笑って男の子の前にしゃがみこみました。
「そういえば、今は夏休みだね。きみたちには、夏休みの自由研究ってあるのかい? ……あるんだよね。もう、何にするか決めた? もしまだ決めていないのなら、これをあげよう」
お姉さんは手をポケットに入れてから、男の子の前に伸ばしました。
その手には、小さな紙の袋がつままれていました。
「お花の種さ。やさしい花が咲く」
「やさしい花?」
男の子が、つい、手を出して受け取ると、袋の中から、からから、という音が聞こえてきました。
その小さな袋には、何の文字も書かれていません。
男の子は、何だかわからないその袋を、お姉さんに返そうとしました。
お母さんから、知らない人からものをもらってはいけない、と教えられていたからです。
しかし、次に顔をあげたとき、お姉さんの姿はどこにもありませんでした。
返そうにも、返すことができず、とりあえず、男の子はその袋を家に持って帰ったのです。
「また、こんな時間まで遊んでいたのね。宿題もしないで」
男の子が家に帰ると、お母さんはそう言って、男の子に怖い顔をしました。
最近、お母さんはずっとこういう調子でした。何かというと、男の子を叱るのです。
いつも叱られてばかりの男の子は、悲しいのと悔しいので、お母さんにあの袋のことを言わず、ぷいっと自分の部屋へと歩いて行ってしまったのです。
やっぱり、……お母さんは、ぼくのことが嫌いになっちゃったのかな。
自分の机に座ると、男の子はそんなことを考えました。
机の上には、まだやっていない夏休みの宿題がたくさんあって、だけど、なかなか勉強をはじめようという気にはなれません。
そのとき、ふと、男の子はあの袋のことを思い出しました。
あのお姉さんは、花の種っていってたな。
ポケットからあの小さな袋を取り出し、開けてみると、確かに、ちいさな黒いまるい種が、一粒はいっていたのです。
宿題の自由研究を何にするか、男の子はまだ考えていませんでした。
少し考えた後で、男の子は、あのお姉さんの言ったとおり、この花を育ててみよう、そう決めたのです。
次の日、男の子は、庭にあった植木鉢を見つけると、土を詰め、自分の部屋の窓のそばに置き、土の中にあの花の種を埋めました。
何日か、土が乾いてくると水をやり、ときどき、本当に花の種なんだろうかと考えたりもしながら、植木鉢の世話をしました。
ある日、男の子の部屋の掃除にきたお母さんが、
「どうしたの、こんなのを部屋の中に持ってきて」
そういって、怒ったような目でこちらを見るので、男の子は、自由研究のために花を育てていることを言いました。
「ふうん。それならいいけど。でも、部屋はもっと綺麗にしないとだめよ」
またひとつ、自分を叱って部屋を出て行くおかあさんの背中を、男の子は悲しい気持ちで見送りました。
声が、聞こえてきたのは、そのときでした。
「……あ。……まぁ。……あ。……むぅ」
そんな、言葉にならないような声を聞いて、男の子は首をかしげました。
どこから聞こえてくるのかわからないけれど、たしかに、誰かの声がするのです。
そうして、それはなんだか、窓の方から聞こえてくるようでした。
もしかすると、誰かが窓の外にいて、声をあげているのかもしれない。
そう思い、男の子が窓のそばに近づき、外を覗きこんでも、そこには誰もいませんでした。
しかし、声はまだ聞こえてきました。それも、すぐそばから。
そのとき、ふと植木鉢に目を落とした男の子は、土の中から小さな緑色のものが顔をのぞかせているのに気がつきました。
あの花の種が、ついに芽にまで大きくなったのです。
男の子は嬉しくて、しばらくじっとその花の芽をながめていましたが、やがて、耳をすませて、目をぱちぱちとやると、花の芽にむかって、こう言いました。
「もしかして、この声は、きみの声なの?」
男の子は、そのちいさな花の芽に水をやり、天気のいい日にはたっぷりお日様の光をあびせて、大切に育てました。
花は、すくすく、ぐんぐん大きくなり、そうして、花が大きくなるにつれてあの声は、普通の人が話すような調子で、言葉を発するようになったのです。
それも、はじめのうちは、男の子が花に水をかけるときに、
「もっと、もっとほしいの。ほしい。ああ、うれしい」
と、よろこんで声をあげるぐらいでしたが、花がどんどん大きくなり、小さな葉をつけ、やがてつぼみをつけるほどになると、
「あれはなに? まどの向こうを、すごいはやさでかけているの。ほら、あれ」
「あれはね、車っていうんだ。すごく便利だけど、ひかれたりすると危ないから、気をつけないとだめなんだよ」
そんな風に、まるで男の子の妹みたいに、かわいい声で話すのでした。
「あれは? いま外をあるいているひと。たまに、この部屋にもやってくるひと」
男の子が外を見ると、ちょうどお母さんが、買い物に出かけるところでした。
「あれはね、ぼくのお母さん」
「おかあさん? おかあさんってなに?」
「お母さんっていうのはね……」
男の子は花に、お母さんがいるあいだは、話をしないように教えていました。
花が普通、話をしないものであることは、もちろん男の子も知っていて、だからもしかするとお母さんは、話をする花を気味悪がって、男の子からとりあげてしまうかもしれなかったからです。
もしそうじゃなくても、最近いつも男の子を叱るお母さんに、いま、自分が育てている花が、こんなに不思議な花だとは、教えてあげたくなかったのです。
「……なんだろう。ぼくを育ててくれる人のことかな」
「ふうん。じゃあ、わたしのおかあさんは、あなたなのね。これであってる?」
男の子はすこし考えてしまいました。
ぼくの場合、お母さんなんだろうか。
でも、お父さんというのも何だか違うような気がするから、お母さんであっているのかもしれない。
「そういうことに、なるのかな?」
花のつぼみが開きかけてくると、もう花は、男の子の友達と同じように、なんでも話せるようになりました。
それどころか、ときどきは、男の子よりも賢いことをいうようにもなったのです。
「ねえ、お母さん。自由研究のことなんだけど、わたしが話をすることは、書かない方がいいと思うの」
「やっぱりそう思う? でもさ、みんなに自慢したいなっていう気持ちも、少しあるんだけど……」
「だめよ、信じてくれないもの。そのかわり、わたしの大きくなった姿を、みんなに教えてあげるといいわ。きっと、きれいに咲いてみせるから」
「そりゃあ、もちろん。だけど、きみと話をすれば、みんなだって信じると思うんだけど」
「……だめ。信じてくれたって、何にもならないわ」
そのときの花の悲しそうな声に、男の子は、そんなに嫌なんだろうかと思い、しぶしぶ花に約束をしました。
「わかったよ。じゃあそのかわり、しっかり大きな花をつけてね」
「忘れずわたしに水をくれるならね、お母さん」
そんな風に花は、男の子のことをお母さんと呼び、男の子も、花がそんなに立派になったことを喜びながら、楽しく毎日を過ごしたのです。
そんなある日のことでした。
ここ最近いつもそうしているように、男の子が部屋でまんがを読みながら、花と話をしていると、お母さんが掃除にやってきました。
男の子と花は、話すのをやめ、お母さんが掃除をしているのを横目でながめていましたが、やがてお母さんが、怖い顔になり、男の子の方へ目をむけました。
「ねえ、この宿題はどうしたの? まだ半分も終わってないじゃない」
男の子はぎくりとしました。夏休みはもう、半分を過ぎていました。
だけど、宿題のほうは、ときどきやっては、すぐ休憩したり、花と話をしたり、遊びに行ってしまったりで、あんまり進んでいなかったのです。
でも、男の子は、また叱られたのが悔しくて、
「ぼくの宿題、勝手に見ないでよ。ちゃんとやればいいんでしょ、やれば」
「あなたはいつもそういって、やらないでしょう? お母さん、何度も言ったはずよ。ゆっくりでいいから、毎日、少しづつやりなさいって。そうすれば大変な思いをしないんだから、って」
「でも、自由研究はやってるじゃないか」
「ちゃんと進んでいるのは、自由研究だけじゃないの。もし、今度見たとき、宿題が進んでいなかったら、お母さんは今度こそ怒りますからね」
そういって、お母さんは怖い顔のまま部屋を出ていきました。
「……もう、怒ってるじゃないか」
男の子も、はじめはそうやって、お母さんに腹を立てていましたが、そのうちだんだん、いつも叱られていることが悲しくなってきました。
少し前から、ずっと、そうなんだ。
ぼくはお母さんのことが好きなのに、お母さんはぼくに嫌なことを言う。
何度も何度も、ぼくがだめなんだって言う。
そんなことを考えていると、涙が出てくるのが感じられて、男の子はうつむいてしまいました。
「おかあさんは、ぼくが嫌いなんだ。だから、あんなことばかりいうんだ」
「そんなことないわ。ねえ、違うのよ、わたしのお母さん」
そう、花のやさしい声がして、男の子は目をあげました。
「どうして。だってお母さんは、前は宿題ができてなくても、一緒にやろうっていっておしえてくれた。部屋が散らかってたって、そんなにうるさく言わなかった。それなのに、最近はぼくのことを怒ってばっかりなんだよ。嫌いだから、嫌いになっちゃったから、そうなんだよ」
「それは違うわ、わたしのお母さん。そうじゃなくて、あなたのお母さんは、あなたのことが好きだから、そういうことを言うのよ」
男の子は、その花のことばをじっと聞き、考えてみましたが、とてもそういう風には思えません。
「ぼくのことが好きなら、おかあさんは、ぼくに優しくしてくれるんじゃないか」
「あなたのことが好きだから、あなたのお母さんは、あなたに大きくなって欲しいのよ」
男の子が戸惑いながらその言葉を聞いたとき、ちょうど、花のつぼみが静かにほどけていきました。
「……ねえ、わたしのお母さん。もしも、わたしが、今みたいに大きくなっていなかったら、お母さんは、どうしてた?」
「ぼくは……どうしたかはわからないけど、なんとかしっかり育ててあげようと、がんばったと思う」
「そうでしょう。お母さんはみんな、そうなのよ」
つぼみは、どんどんと開いていきました。
そして、その真っ白な花が、誰かの優しい指先にそっと広げられるように、ふわりと大きく開きました。
「あなたのお母さんも、いま、がんばっているのよ。あなたに大きくなって欲しいから。……そうして、もうひとつ、わたしのお母さんに聞くわ。あなたはいま、大きくなっているの?」
「ぼく? ぼくは……。」
男の子は、そのとき、気がつきました。
自分は、まだやっていない宿題をたくさん残しているのです。
部屋も、散らかしたまま、片付けていないのです。
「……ぼくは、まだ、種のままなのかもしれない」
どうしてか、大きく開いた花が、にっこりと笑ったように、男の子には思えました。
「わたしをこんなに大きくしてくれてありがとう。だから、わたしのお母さん。あなたも……、ねえお母さん、わたしの言いたいこと、もうわかるでしょう?」
それから、一週間が経ちました。
その日の夕方、男の子が、食事を作っていたお母さんに、出来上がった夏休みの宿題を持っていくと、お母さんは、目を丸くして驚きました。
「すごいじゃない。一体、どうしたの? まだまだ、夏休みは残っているのに」
「お母さんが早くやりなさいって言ったんじゃないか」
口では不満そうにしていましたが、男の子はにこにこと笑っていました。
「そうね、そうだったよね。……ねえ、今日は何が食べたい? 実は、まだ決めてないの。何でも、好きなものでいいのよ」
そのとき、男の子には、食べたいものがたくさんありました。
けれど、それをお母さんにお願いする前に、男の子にはひとつだけ、言っておきたいことがあったのです。
「うん。お母さん、いつもありがとう。ぼくを、こんなに大きくしてくれてありがとう」
そういうと、お母さんは、男の子のことをじっと見つめていましたが、やがて男の子の頭に手をやり、頬の方へと優しくなでていきました。
「……あなた、今日はどうしちゃったのかしら。何か悪いことでもしたの?」
お母さんは、どうしてだか、泣いているような声でそう聞きました。
少し照れくさかったので、男の子は、こう言いました。
「お母さん、ねえ、今日はエビフライがいいな」
あの日から、花は少しづつしおれ、花の声も、だんだんと元気を失っていくのが、男の子にもわかりました。
男の子は、元気がなくなりつつある花のことを心配しましたが、花は、
「大丈夫。わたしたちは、何度でも咲くことができるのだから」
やさしい声でそういうのでした。
あの綺麗な白い花もすっかり水分を失ってしまい、話しかけてもあまり答えが返ってこなくなってしまったある日、花が突然、ちいさな声で言いました。
「わたしが、この花がおちても、もうすこしの間、わたしに水をあげて。花のあとに、ちいさな実がつくから。その実の中には、あなたがはじめにもらったような、種が入っているわ。それが、やっぱり、わたしなのよ」
男の子は何度も、うなずきながらその話を聞きました。
「その種を、誰かにわたしてあげて。わたしのおかあさんにはもう、わたしはひつようじゃないもの。わかるでしょう?」
男の子の涙は、こらえようとしても、どうしても流れてきてしまうのです。
「泣かないで、わたしのおかあさん。ありがとう、わたしのおかあさん。ほんとうに、ありがとう」
花が静かに散る瞬間、最後の声が聞こえてきました。
「さようなら、わたしのおかあさん」
その花の種を、はじめにお姉さんからもらった小さな袋にいれて、男の子はずっと持っていました。
最初は、別れるのがさびしかったからですが、そのうちに、こう思うようになりました。
もしいつか、あの頃の自分のような子を見つけたら、この小さな袋を渡してあげよう。
そうして、長い時間が流れたある日、男の子は、公園で泣いていた、あの頃の自分と同じぐらいの女の子と出会いました。
「その子にわたしを渡してあげて。きっと大切にしてくれるから」
あの花の、そんな声がどこかから聞こえてきた気がして、男の子は、女の子に声をかけたのです。
どうしたいんだい、と聞いてみると、その女の子はその日、お母さんに叱られたらしく、
「おかあさんは、わたしのことが嫌いなんだわ」
男の子は、その子のことをなぐさめたあと、プレゼントとして、いつも持っていた、小さな袋を渡しました。
「これ、なに?」
女の子がそう聞くので、男の子はこう答えるのです。
「お花の種さ。やさしい花が咲くんだよ」