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――トクン、トクン。
セラヴィンさんの腕にすっぽりと抱かれ、その胸から響く鼓動を聞く。
刻むリズムが、温かな腕が、柔らかに私を見下ろす眼差しが、全てが苦しいくらいに愛しかった……。私は耳で、肌で、目で、全身でセラヴィンさんを感じながら、再会の奇跡に震えていた。
「セラヴィン、ぼちぼち出発するぞ」
突然掛けられた声に、ビクリと肩が跳ねた。セラヴィンさんの胸の中から声の方へと目線を向ければ、大柄な男性が呆れたように腕組みして、こちらを見ていた。
男性はセラヴィンさんに負けず劣らずの鍛え上げられた長身と、粗削りながら整った容貌が目を引いた。
その体格と鋭い容貌も相まって、男性が与える印象は少し怖い。
ところが、私と視線が合った瞬間、男性は白い歯を見せてニカッと笑ってみせた。
えっ!? 突然見せられた男性の笑みに、たじろぐ。
「ほう、こりゃあセラヴィンが虜になるのも納得だ」
男性はカツカツと大股で歩み寄ると、いまだセラヴィンさんの腕に抱かれたままの私を覗き込み、感嘆したように言った。
え? な、なに?
私はますます、こんがらがった。
「改めましてリリア嬢、俺はニルベルグ王国将軍のルーカスだ。あんたの事はセラヴィンから耳にタコができるほど聞かされていたからか、初めて会った気がしない。だが、実際にこうして会ってみると、誇張でもなんでもなく、リリア嬢、あんたは魅力的だ。もしセラヴィンに愛想が尽きたら言ってくれ」
目の前にズイッと差し出された、節のある分厚い右手。
え、ええっと……。
「は、はじめましてルーカスさん。あの、私がセラヴィンさんに愛想を尽かす事はありませんが、もし私がセラヴィンさんに愛想を尽かされてしまったら、その時は相談させてもらうようにします」
「はっ! ははははっ!」
ルーカスさんの手にそっと自分の右手を重ねながら答えれば、何故かルーカスさんは、肩を揺らして笑い出す。
「は、ははっ! いや、なるほど! あんたはやはり、セラヴィンが惚れ込んだだけの事はある」
クツクツと肩を揺らし続けるルーカスさんを、私はなにがなんだかよく分からないまま、ポカンとして見つめていた。ちなみにルーカスさんが肩を揺らせば、取られたままの私の右手も共に、ガクガクと揺れた。
……人って、見た目によらないのね。
第一印象で怖い人かと思ったけれど、むしろ逆で、ルーカスさんはまさかの笑い上戸だ。
「おいルーカス、いい加減にしないか。リリアが困っている」
これまで私たちのやり取りを静観していたセラヴィンさんが、ルーカスさんの手首をむんずと掴む。
すると、ルーカスさんの手が緩み、私の右手が解放された。セラヴィンさんはそれを見て、掴んでいたルーカスさんの手をぞんざいに放った。
おもむろに見たルーカスさんの手首は、ちょこっと赤くなっていた。
「すまんすまん……っと、そうそう。リリア嬢、マクレガン侯爵とは穏便な話し合いの末、全て無事に決着した。違法な婚姻の事実を公表しない代わりに、マクレガン侯爵もまた全てに口を噤むそうだ」
……え?
もちろん、大々的にこの事実を公表されてしまうのは、マクレガン侯爵にとって痛手だろう。だが、それを加味しても、果たしてこの決着は本当に穏便な話し合いで決定したものなのだろうか……?
「ちなみに支払い済みの支度金に関しても、スチュワード辺境伯家への返還等は求めないそうだ」
「っ、そんな事がっ!?」
ところが、ルーカスさんが物のついでみたいに続けた台詞が、私に先の疑問など吹き飛ばすほどの大きな衝撃をもたらした。胸がドクンと大きく跳ね、その後もバクバクと鳴っていた。
「一応念書ももらってるから確かだぜ」
ルーカスさんは晴れやかに言い切った。
……これまで、お母様への呵責がずっと胸で疼いていた。その呵責を鎮め、明光をもたらすかのように、聞かされた内容が胸で反響していた。
「……本当に、婚姻の事実がなくとも支度金がそのままお母様の手元に残る」
知らされたこの事実は、私にとって大きい。それは、私の未来を左右するほどに……。
カタカタと震える指先をギュッと握り込む。
「リリア、もう十分だ。君はもう、十分過ぎるほどに頑張ってきた。これ以上、デルデ公国に心を残す事はない」
握った拳に、セラヴィンさんの手のひらがトンッと重なる。
そうしてセラヴィンさんは、まるで私の心を読んだみたいに、柔らかな声音で囁いた。
「セラヴィンさん……」
……セラヴィンさんはあえて、「デルデ公国に心を残す事はない」とそう言った。だけどこの「デルデ公国」というのは、本当は「お母様」という言葉に置き変わるのだろうと思った。
……私が選ぶ未来が赦されていくような、そんな心地がした。
「リリア、俺とニルベルグ王国に来い」
セラヴィンさんに力強く言い切られれば、清廉な光が胸を照らし、暗雲のように木霊していた憂いが霧散する。
「はい、セラヴィンさん」
支度金はお母様に対しての贖罪だった。だけど同時に、お母様の金銭的な助けとなれる事は、私にとっても一縷の救い。そうして私は、そんな救いに縋ってでも、セラヴィンさんの手を取りたい。……いいや、私はセラヴィンさんの手を取って、セラヴィンさんと共に行く――!
私は今、初めて自らの意思で、セラヴィンさんと共に過ごす幸福な未来を望んでいた。
「私はセラヴィンさんとニルベルグ王国に行きます。セラヴィンさん、よろしくお願いします!」
「もちろんだ」
セラヴィンさんのブルーグリーンの瞳に告げれば、セラヴィンさんは柔らかに目を細くして微笑んだ。
「計画通り、引き続きマクレガン侯爵との交渉に、サイモンの部隊をデルデ公国に残す。それでいいな」
「そうしてくれ。サイモンに任せておけば間違いない」
ルーカスさんは私から、隣のセラヴィンさんに目線を移して報告を付け加えた。
セラヴィンさんはそれに坦々と頷いて答えた。
そんな二人の様子を横目に見て、一見では少々強引にも思えるこの決着こそ、あらかじめ用意されていた筋書きなのだと察する。私にとって都合よく事が進むよう、全てにおいて周到に事前調整と根回しを進めてくれている。
……セラヴィンさんはこの一年、私のためにどんなにか奔走してくれていたのだろう?
溢れる歓喜に胸が詰まり、嬉しいのに苦しかった。嬉しくても胸は苦しくなるのだと、この新しい発見に、私は幸福を噛みしめた。
「それから、マルゴーの部隊を先達としてスコット子爵邸に向かわせてる。俺たちもあまり間を空けず、ここを発とう」
「スコット子爵!?」
ルーカスさんの口から飛び出したスコット子爵の名前に、私は目を丸くした。
「リリア、国を跨いで君を奪還するにあたって、デルデ公国内での協力者となってくれたのがスコット子爵夫人だ」
私の疑問には、隣のセラヴィンさんから答えが返った。
「……スコット子爵夫人が、協力を?」
「彼女とは、君の情報を求めて周辺を探っている時に偶然出会った。彼女は、君の事をとても案じていた。君の力になりたいと、自ら協力者を買って出てくれたんだ。俺は彼女と定期的に繋ぎを取り、君の情報を逐一教えてもらうようになった。今回のマクレガン侯爵との結婚も、情報元は彼女だ」
驚きはしかし、僅かな間を置けば、深い感謝に置き換わる。眦に、ジンと熱い物が滲んだ。
スコット子爵夫人は積極的にお母様と交流を持ち、折に触れて我が家を訪れてくれていた。お母様は家格の劣るスコット子爵夫人に対し、居丈高で失礼な態度を取る事も多かったのだが、夫人はそれら全てを笑顔で躱し、決してお母様との交流を断とうとはしなかった。そうして我が家を訪れるたびに、私の元に顔を出し、何かと気遣ってくれたのだ。
「そうだったんですね。私はこれまで、スコット子爵夫人に感謝してもしきれないほど助けていただいていて……。その上まさか、スコット子爵夫人がセラヴィンさんとの橋渡しまでしてくれていたなんて」
瞼をギュッと瞑れば、眦からホロリと涙が頬を伝った。瞼の裏側には、コロコロとしたスコット子爵夫人の笑顔が浮かぶ。
その微笑みに、私は言葉では言い尽くせぬ感謝を告げる。だけど溢れるほどの感謝は、どんなに伝えても、全てを伝えきれそうになかった。
……あぁ。せめて最後に直接顔を合わせて、私の口からお礼を伝えたかった。
スコット子爵夫人の笑顔の残像が消えると、私は叶わぬ願いを振り払い、ゆっくり瞼を開いた。
「リリア、スコット子爵領とスチュワード辺境伯領は隣接している。ニルベルグ王国と広く国境を接しているのはスチュワード辺境伯領だが、スコット子爵領も一部国境に接している。ニルベルグ王国の王都に向かうには、どちらの領からでも距離的にはさほど変わらん。これがスコット子爵夫人との一旦の別れにもなる、スコット子爵領を経由するルートで帰国しよう」
セラヴィンさんが口にしたのは、まるで私の心の内側を読んだみたいな台詞だった。
……だけど、セラヴィンさんの言葉は嘘ではないが、必ずしも正しくない。距離的にはそう変わらずとも、スチュワード辺境伯領から直接国境を越えた方が、道のりは平坦だ。
だからこれは、私への心遣いで取られたルート……。
胸が詰まってしまい、私は声にならない声で頷いてみせるのが精一杯だった。セラヴィンさんは朗らかな笑みでトンッと肩を抱くと、玄関の外へと私を促した。
「では出発しよう。あぁ、それからリリア、余剰に馬を連れてきていたのだが、行きに隊で負傷馬が出てしまったんだ。途中で調達するつもりだが、すまんがそれまでは俺と相乗りで我慢してくれ」
「いえ、セラヴィンさん。……実は、私は乗馬が出来ないので馬の調達は不用です」
セラヴィンさんから何気なく告げられた言葉に、私は気恥ずかしさもあって、少し早口に答えた。それというのも、貴族子女が乗馬を嗜んでいないというのは、とても珍しい事だった。
乗馬にダンス、ピアノやヴァイオリンといった何某かの楽器演奏、これらは貴族子女の花嫁教育として、幼少時から家庭教師を付けて学ぶのが一般的だ。けれど私は、幼少時を一般市民として暮らし、その後のお母様の実家では世間体を気にした祖父母によって、存在を隠されるようにして過ごしていた。だから当然、外部から家庭教師が招かれる事もなかった。それでも、淑女として最低限の所作や口調は、お母様の実家で暮らした二年間に、祖母に教え込まれた。
それからスチュワード辺境伯家に移った後も、私に家庭教師が付けられる事はなく、私は一般的な貴族子女が当たり前として身に付けているそれらを、なにひとつ身に付けてはいない。
「そうか」
私の答えに、セラヴィンさんは特段気にしたふうもなく、あっさりと頷いてみせた。
玄関の外には既に、セラヴィンさんとルーカスさんの愛馬と思しき二頭が待機していた。
「すみません、乗馬経験のない私とずっと相乗りは、負担だと思いますが――」
「リリアとの相乗りが負担なわけがあるか」
私が謝罪を口にのせれば、セラヴィンさんは私の言葉を遮って断言し、そのままヒョイッと私のウエストを掴み上げた。
「きゃっ!?」
セラヴィンさんは腕力だけで私を抱き上げると、待機していた馬上に悠々と乗せる。そうして自身も軽々と私の後ろに乗り上がった。
「俺は嬉しい。馬上でリリアを腕に抱き、共に過ごせる事が嬉しい」
「っ!」
息が詰まったのは、乗馬に驚いたからじゃない。セラヴィンさんが耳元で囁いた台詞が、熱く胸を詰まらせた。
「……私も嬉しいです」
逆上せたようになりながら、私がやっとの事で返せば、頭上でセラヴィンさんが、フッと笑んだ気配がした。
「ゆっくり走らせる」
セラヴィンさんは宣言通り、ゆっくりと馬を走り出させた。
はじめての馬上は、想像以上に視界が高い。しかし僅かな恐怖心は、後ろからしっかりと回された腕の感触と温もりが払い去った。
ルーカスさんが後続の兵士らに向かい何事か指示を出せば、兵士らは列を成してセラヴィンさんの後ろに続く。
馬首を西南に定め、一路スコット子爵領を目指した。
「リリア、道中ずっとそれでは途中で疲れてしまう。遠慮せず俺に体重を預け、寄り掛かってくれ」
「は、はいっ」
私が気恥ずかしさと遠慮から、力を抜ききれずにいれば、頭上からセラヴィンさんの声がかかる。
同時にウエストに回る腕に力が篭り、深く抱き寄せられた。それにより私の背中がトンッとセラヴィンさんの胸に沈む。
セラヴィンさんは、そのまま腕の力を緩めなかった。結局根負けしたのは私で、私は体から力を抜くと、逞しいセラヴィンさんの胸に体重を預けた。