7
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リリアとの約束の日が、ついに明日に迫っていた。浮き立つ心を抑えつつ、この日も俺は政務机に向かい、朝から終わりの見えない政務に励んでいた。
長窓から影を落としていた西日が地平線に沈み、夜の帳が下りる。
――カタン。
ランプに油を注ぎ足し、侍従が王の間を退室した。その物音で、俺の集中の糸が途切れた。
「……もうこんな時間か」
朝から碌に休憩も取らず、既に数時間同じ体勢を維持したまま決裁書類を読み耽っていた。意識すれば、バキバキに凝り固まった体が痛んだ。軋む肩首を回しながら、朝から温め続けた玉座の上でグッとひとつ伸びをした。
おもむろに長窓へと目線を移せば、眼下にニルベルグ王国の王都が一望できた。
「……リリア、長く待たせてしまったな。だが、やっと約束通り君を迎えに行ける」
リリアと再会を果たした一年前のあの時、俺は叔父上の放った追手から毒矢を受け、気力体力共に限界が近かった。国境を侵した自覚はありつつも、それ以上の移動は不可能で、俺は目の前の小屋に飛び込んだ。
そこに、記憶の中のリリアが成長した姿になって現れたのだ。俺はまず、俺の募り過ぎた妄念が、弱ったところに幻を見せたのだろうと思った。
けれど目の前のリリアは、女神のように清らかで美しく、そして相変わらず猪突猛進で、肝が据わっていた。
その姿に、あぁこれはリリアだと、そう確信した。この再びの巡り合わせが、抜け殻のようだった俺に、本当の意味で王位奪還を決意させた。
俺は約束通り、一年という期間の中で叔父上から王位を奪還した。リリアを呼び寄せたいその一心で、俺はこの場所まで駆け上がった。
……リリアを迎え入れる環境は整った!
見上げた夜空に、記憶の中の六歳と十四歳のリリア、ふたつの微笑みが浮かび上がった。
――コン、コンッ。
「俺だ、入るぜ」
振り返れば、幼少時からの側近で、今はニルベルグ王国軍の将軍を務めるルーカスが、俺の返事を待たずに扉から顔を覗かせた。
「セラヴィン、いよいよ明日だろ。今晩は祝い酒といこうじゃねぇか」
ルーカスは俺に向かい、気安い様子で手にした酒瓶と二脚のグラスを掲げてみせた。
「なかなかいい酒じゃないか」
政務机を立ち、ルーカスと共に奥の応接ソファに腰を下ろす。
「だろう? 俺の秘蔵の一本だが、今日ばかりは特別だ」
ルーカスは言葉通り、持参したグラスに一級品のワインをなみなみと注いでいった。
「ルーカス、アントニオの具合はどうだ?」
叔父ルドモントの起こした謀反により、国王だった父が討たれたのは、俺が九歳の時だ。当時、父は病床に臥せって久しく、父の側近らによって三歳年長の兄への譲位の準備が進められていた。ルドモントの強行は、兄への譲位が後数日と迫った時だった。
王太子である兄は謀反の第一報と同時に王宮を離れ、側近らと共に八歳の俺が静養した西岸の湖沼地帯に身を潜めた。潜伏の情報を得たルドモントは、湖沼地帯の三つの街村に火を放つ暴挙に及んだ。それにより兄は死に、リリアとの思い出の地は焼け野原に変わった。
俺は父の最側近であったルーカスの父、アントニオの手引きでなんとか王宮を脱したのだが、そこからは地獄のような逃亡生活が始まった。
「おかげさんで、もうすっかり元通りだ。今朝なんかはお前に向かって、風邪くらいで登城禁止をくらわせるとは何事か、年寄り扱いするなとくさってたぜ」
「そうか」
ルーカスの答えに苦笑が浮かぶ。忌憚なく俺に物を言うところは、まさに父親のアントニオ譲りで、俺はこの父子のこういったところをとても好ましく感じていた。
とはいえ、そのアントニオも長年の逃亡生活と、その後の政権の立て直しで無理が祟ったのか、ここのところは体調を崩す事が多くなっていた。
「ルーカス、アントニオにはまだ伝えていないが、来月に控える俺の政権復帰一周年を一区切りとし、アントニオには復興大臣の任をおりてもらおうかと思うのだ。父の代からここまで、アントニオはずっとニルベルグ王国の為に走り抜けてきた。アントニオには言葉では言い尽くせぬほど世話になった。だからこそ、ここいらで引退し、休んでもらおうとずっと考えていた」
「はははっ。親父が聞いたら憤慨するぜ。あの人は、死んだお前の親父さんと竹馬の友で、お前の事も、我が子以上に可愛くて仕方ないんだ。亡き親父さんの意思を継ぎ、お前の為に体張って奔走するのが生き甲斐のようなもんだ。いきなり大臣職を奪われて休みなんて言い渡されてみろ、あっという間に耄碌しちまう」
予想だにしない返答に、俺は唖然としてルーカスを見返した。
……俺が可愛い、だと?
「おいルーカス、冗談も休み休み言え。俺は奴に何度殺されかけたか数えきれんぞ」
鍛錬と称し、真剣で悪鬼のような漲る気迫で切りかかられた時は、本気で死を覚悟した。事実、当時の刀傷は全身の至る所に残っている。
「なにより毒を体に慣らす訓練では、アントニオの指示で増量のペースが速められ、生死の間を彷徨ったのだからな」
俺は物心ついた時には、王太子である兄と二人兄弟だった。しかし元々は兄の上に、更に二人の兄がいたらしい。二人の兄は対外的には病死となっているが、実際は、物証こそないものの叔父に盛られた毒で死んだというのが、側近らの共通認識だった。
それらの教訓を受け、兄と俺には幼い頃から毒に体を慣らす訓練が施されていたのだ。
「ははっ! そう言えば、そんな事もあったな」
「……とはいえ、そのおかげでリリアと出会えたのだがな」
毒で生死を彷徨った俺は、ひと夏王宮を離れ、湖沼地帯で養生する事になった。成長期を迎える前の俺は、華奢で小さく、母譲りの淡い金髪と色の薄い瞳と相まって、少女のような見てくれをしていた。
それを逆手に取り、俺はセーラという女名を名乗り、身分を隠して養生生活を送った。そうして毒の影響も粗方抜けた夏の終わりに、俺はリリアと出会ったのだ。八歳の夏の事だった。
「ほう、怪我の功名とはまさにその事じゃねーか」
……偶然によい結果をもたらしたという比喩に異存はない。しかし、ここで言う「怪我」に相当する過失は、俺ではなくアントニオがやらかしているのだが……?
「まぁとにかく、お前が無駄な気ぃ回してんなら、それは親父の為にならん。何に生き甲斐を見出すかは人それぞれだ。だから遠慮なく、死ぬまでこき使ってやればいい、そういう事だ」
ところが俺が口を開くよりも前、ルーカスが殊の外真面目な顔をして言った。
実父に対するルーカスのざっくばらんな物言いに、俺は返す言葉を失った。
「そんじゃ、親父の件はこれで終わりだ。俺の方から、体調が戻ったら適当に復帰しろと伝えておく。まぁ、十中八九明日から登城してくるだろうけどな」
ルーカスはヒョイと肩を竦めて言うと、なみなみとワインが満たされたグラスの一脚を、俺の前に置いた。
「では、お前からの祝い酒をありがたくいただくとしよう」
「ああ、今宵は男二人で乾杯といこうじゃねーか」
不思議な事に、あれだけ考え抜いて出した俺の結論よりも、ルーカスの言葉の方がよほど的確にアントニオの本質を衝いているように思えた。
俺達が握ったグラスを高らかに掲げ、クイッとあおったのは同時だった。
「それにしたって、まさか本当にこの短期間で王位奪還を成し遂げちまうとはなぁ。俺は最初にお前から計画を聞かされた時、正直言葉を失ったぜ。それがあれから一年、無謀以外の何物でもないと思った計画は現実のものになって、こうして順調にリリア嬢奪還の日を迎えてる。これはやはり、お前が元から王の器だったって事なんだろう」
グラスの二杯目を空けたところで、感慨深げにルーカスが言った。
「いいや。お前やアントニオをはじめ、父の時代からの側近や地方領主他、支援者の尽力があってこそだ」
「……親父さんの時代に、深い協力関係にあったデルデ公国がてんであてにならなかったのには、逆に驚いたけどな」
続くルーカスの言葉に、幼少のみぎりに顔を合わせた事もあるデルデ国王の姿が過ぎった。
王宮を追われてまず、アントニオはこれまで友好関係を築いていたデルデ公国に助けを求めた。しかし亡命を望む書簡にも返答すらなく、デルデ公国は俺に一切の援助を与えてはくれなかった。
一国の判断にはあらゆる思惑が絡んでくる。だから、思うところは多くあれど、俺にデルデ国王を恨みに思う気持ちはなかった。そう、なかったのだが……。
「俺は援助が得られなかった事以上に、先だって寄越された使節団に驚いたがな」
「言えてら。お前が王位に返り咲いた途端だもんな。それまで隣国の混乱の一切を知らぬ存ぜぬで貫き通してきたくせに、まったく面の皮が厚いこった」
ルーカスが呆れたように言った。
俺とて本音を言えば、手のひらを返したようなデルデ公国の態度に、思うところは多くある。
「だが、国の為を思えば交渉もやむを得ない。デルデ公国との国交回復が叶えば、両国の国民に恩恵は多いからな」
そうして現在、外交担当大臣らの下で、デルデ公国との国交正常化交渉が進められていた。
「それに異存はないな。なにより、そのお陰でリリア嬢奪還がこうもスムーズに運べるわけだ」
交渉開始から両国間には一気に融和ムードが漂い、デルデ公国は早々に国境から、配置していた国境警備員を撤退させている。
関所の開放こそ条約の締結を待っているが、両国間の行き来は事実上の黙認状態となっていた。
「ああ、これまでの国交断絶状態とは段違いに、安全にリリアを連れて帰れる。そう言った意味では、デルデ公国からの申し入れはまさに渡りに船だ」
ルーカスが俺の空いた杯に気付き、酒瓶を寄せて傾ける。瓶の口から深い朱色の液体がグラスに移る様を見るともなしに見ながら、俺は思いを新たにしていた。
幼い俺は病床の父も、王太子だった兄も、救う事が出来なかった。
どころか、最初の出会いから九年の歳月を経て再会した初恋の少女もまた、救う事が出来なかった。リリアの言外から、苦境は十分過ぎるくらい感じ取れていたのに、成人を迎えて尚、俺は変わらずに無力だった。身を切る思いでリリアに一年後の再会を約束した。情けないがそれが、一年前の俺が取れる精一杯だった。
そうして、あれから一年。今度こそ、俺は違えない……! リリアと再び見えたこの後は、俺は命を賭してリリアを守り抜く!!
「俺は、使える手は全て使う。だが、端からそれらをあてにしようとは思わん。俺の国と、俺の愛する者は、己の手で守る」
グラスを持つのと反対の手をグッと握り、決意を込めて告げた。ワインを注ぎ終えたルーカスが、チラリと俺に視線を向ける。
その目が、切なさを孕んで陰る。
「なんだ?」
「いやな、俺はお前よりは長く人生経験を積んでいるわけで。兄貴分としちゃ、お前のその達観ぶりが、ちょいとばかり切ないわけだ」
「人生経験とはまた、随分と大仰だな。二つしか違わんだろう?」
「その二つは、存外に大きいと思うがな。とはいえ、俺を差し置いて、先に嫁を娶って身を固めようというくらいだ。甘やかに一夜の情を分け合う女は欲しいが、一人の女に四六時中束縛されるなど、俺はごめんだ。そう言った意味では、責任を当たり前に果たすお前の方が、精神的には余程に大人なのかもしれん」
ルーカスの言葉は必ずしも正しくない。
少なくとも俺は、ルーカスの言うところの責任でリリアを生涯の伴侶に望むわけではない。
「大人も子供もない。これが運命と思える女に出会ってしまえば、一生涯を賭す事に寸分の躊躇もない」
「……俺にはお前の言葉がよく分からん。俺はきっと、お前の言うところの『運命と思える女』というのに出会っていないのだろう」
ルーカスは俺をジッと見つめた後、グラスを傾けて、クッと一口ワインを含んだ。
「これまでは所帯持ちの男を羨んだ事なんざ一度もなかったが、運命などとこっぱずかしい台詞をてらいもなく言ってのけるお前を見ると、少しだけ心が波立つような気もするな」
含んだワインを味わうようにゆっくりと飲み下し、ルーカスは静かな声音で付け加えた。
ルーカスはこれっきり口を閉ざし、場は静寂に満たされる。俺もまた、静かにグラスを傾けた。
これ以降、杯を重ねる俺たちに言葉はなかった。しかし、言葉はなくとも、この瞬間に思うところはきっと同じだ。
寒空に震え、追手に怯えて逃げ惑った七年間。その逃亡生活中には想像も出来なかった穏やかな夜を、俺たちは美酒と共に堪能した。
こうしてリリア奪還の前夜は粛々と更けていった――。