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 セラヴィンさんとした再会の約束が、私の心を支えた。辛い時も苦しい時も、瞼を閉じればいつだって、セラヴィンさんの熱い眼差しが私を励ましてくれた。

「もう一年? ……早いなぁ」

 今日があの日から一年目、セラヴィンさんとの”約束の日”だった。

 私にとってこの一年は、スチュワード辺境伯家で暮らした六年間の中で、もっとも心穏やかに過ごしたといってよかった。

 ……だけど今日で、セラヴィンさんとの再会を指折りに数えて過ごす日々は終わり。

「セラヴィンさん、幸せな夢をありがとうございました……」

 一年の時を経て、私はかつての約束を本気には捉えていなかった。

 そもそも、セラヴィンさんという人物は本当に存在するのだろうか……?

「だって、たとえ水とガーゼを与えてもらったからって、あんなに素敵な人が初対面の私に対して告げるには、あまりにも無理がある。私に、都合がよすぎるもの……」

 だからそう、私はきっと現実逃避で白昼夢を見たに違いない。そうしてセラヴィンさんという、とびきり素敵な夢は、一年間私の心を支えてくれた。

「セラヴィンさん、私、今日を区切りとしてあなたとお別れするわ」

 優しい夢は、たしかに希望を与えてくれた。だけど夢が優しければ優しいほど、直面する現実が胸に一層の苦しさを生む。

「……もっとも、人妻となる私には、あなたの迎えを待つ資格はもうありませんね」

 自嘲気味に微笑んで、そっと瞼を閉じる。

 瞼の裏に、夕暮れの優しい光景が当時の温もりと共に浮かび上がった。

「リリア」

 階下から掛けられたお母様の呼び声に、ビクリと肩が跳ねた。

「マクレガン侯爵家の迎えの馬車がいらしたわ。はやくいらっしゃい」

 回想から、一瞬で意識が今へと舞い戻る。

 ……マクレガン侯爵というのは、私の結婚相手。二回りも年齢の離れた老侯爵は、これが三回目の結婚だそうだ。私は今日、そのマクレガン侯爵家に上がる。

 ちなみにこの結婚に際し、お母様は先方から多額の支度金を受け取っている。

「は、はい! 今行きます!」

 私は用意していた手提げ鞄を握り締めると、六年間寝起きした部屋を飛び出した。あらかじめ、支度は全て整えている。部屋の片づけも同様に済ませている。

 今更、感慨にふけるつもりなど更々なかった。それよりも、長く待たせれば、お母様を怒らせてしまうのは目に見えていた。今日くらいは穏便にと、そんな思いがあった。

 私は階段を駆け下りた。

 そうして玄関ホールを視界に捉える直前で歩みの速度を落とし、私はゆったりと優雅な所作でお母様とマクレガン侯爵家の使者の前に降り立った。

「お待たせいたしました」

「スチュワード辺境伯夫人、リリア様、私は馬車で待たせていただきます。積もる話もおありでしょう。母子最後の別れが済みましたら、馬車の方にお越しください」

 使者の老爺はこんなふうに言い残し、一人玄関ホールを後にした。

 これは、使者の気遣いだ。

 私は今日、屋敷を出て先方のお屋敷に嫁ぐ。だから今日が、お母様との別れの日……。

 使者が去り、玄関ホールには私とお母様の二人が残った。

 重苦しい沈黙が、この場を支配していた。

「……お母様、お世話になりました」

 一向に口を開こうとしないお母様に代わり、私から口火を切った。

 お母様は答えずに、いつも通り顔の下半分を扇で隠したまま、私を見つめていた。その顔はいつもと同じ無表情で、その瞳にも温度はない。

 諦めはとっくについているつもりだったけれど、別れの今日は、どうしてか胸がツキリと痛んだ。

「今まで、ありがとうございました」

 それでも最後の別れに際し、私は腰を折って「ありがとう」の言葉を選んで告げた。思うところは多くあれど、今までの十五年に対して告げる言葉はやはり、”お母さん”への感謝が相応しいと思った。

 これにも、お母様から返事はなかった。折っていた腰を起こすと、私は物言わぬお母様を玄関ホールに残し、一人使者が待つ馬車に向かった。

 その途中で足を止め、私はおもむろに晴天の空を仰いだ。

 ……お父さん。私の支度金は、お母様の助けになるよね?

 私の問いかけに、しかし空は答えない。天国の父もまた、私に答えてはくれない。

 私は物言わぬ青空からそっと視線を逸らした。





 馬車の揺れに身を委ね、車窓から移ろう景色を眺める。

 馬車が走り出してから、私はずっと車窓の外に視線を貼り付けていたが、それは単に景色が見たいというのが理由ではない。

「リリア様、屋敷では主が首を長くして、今か今かとリリア様の到着を待っていることでしょう」

「……そうですか」

 煩わしい使者との会話を避ける為に、私はわざとそうしていた……。

「いやはや、それにしても我が主は果報者だ。いえね、私は主とは乳兄弟で、同年なんです。しかし、その女房に関してはえらい違いでございます」

 悪い人ではないのだろうが、使者の老爺は聞きたくもない内容をペラペラと語る。

「私はと言えば、古女房が家政をしきって尻に敷かれっぱなし。本当に参ってしまいますよ」

 馬車に乗り込んで早々に、私はその多弁に辟易したのだが、使者は構わずに道中ずっとしゃべり通しだ。

「それが片や、一回りも二回りも年若い奥方をとっかえひっかえ、まったく羨ましい話で……っと、こりゃ失礼。今のはどうか、ここだけの話に。あ、そうそう! そういえばリリア様、我が領では――」

 カタカタという馬車の走行音を後ろに聞きながら、使者の声は意識の外へと切り離す。

 お母様に倣ったわけではないが、私は途中から使者に対し、返事や相槌の一切を放棄した。

 そうして見るともなしに外の景色に視線を向けていれば、ふと、車窓に私自身が映り込んでいる事に気付く。

 そこには、お母様の容貌によく似た、淑女の姿があった。

 スラリと細めではあるが、車窓に映る女性の頬はこけていない。肌艶もよく、結い上げられた髪も艶やかだった。

 十五歳になって、私を取り巻く状況は少し、変わっていた。

 事の本質はなにひとつ変わっていないのだが、お義父様が病に伏せった事で、スチュワード辺境伯家の実権をお義父様の弟が握るようになった。

 義父との間に子の無いお母様は、基本的にはお義父様の死後に資産を相続できない。お母様は、身ひとつでスチュワード辺境伯家を追い出される事を恐れ、病床に付きっきりでお義父様の看病にあたるようになった。同時にお母様は、私の結婚支度金をあてこみ、私の婿捜しにも奔走した。

 意図せぬ流れではあるが、これにより私は三度の食事と、身体の保証を得る事になったのだ。

 ……身体の保証、か。

 とはいえ、それが老侯爵に下げ渡す為の準備となれば、あまり喜ばしいとも思えなかったが。

「……だけど、私にはお似合いね」

 フッと自嘲気味な笑みがこぼれた。

 ……私に幸せは、似合わない。いや、事は似合う、似合わないのそれ以前。そもそも私には、幸せになる権利が無い。お父さんを死に追いやった私が、どうしてお母様を置き去りにして、一人幸せを掴めるというのか。

 だからそう、この使者が仕える老侯爵が、私の伴侶には似合いなのだ。なによりこれが、お母様のためにもなる……。

「似合い、ですか? ……いやいや! 若く美しいリリア様は、主には勿体ないほどです! いやはや、瑞々しくハリのある肌といい、艶やかな髪といい、まったく羨ましい限りで――」

 呟きを聞き付けた使者が、私に向かって身を乗り出すようにして、頓珍漢な物言いを続けた。

「……すみませんが、少し休ませていただきますね」

「おやおや! 昨晩はなかなかお休みになれなかったのでしょうか? いや、嫁入りを前に緊張するなという方が難しい話でしたな。私とした事が、気が回りませんで――」

 朗々と語る使者が私の視界に割り込んでくるのがどうしようもなく煩わしくて、私はギュッと瞼を閉じると、狸寝入りを決め込んだ。



 煩わしい使者の声は、狸寝入りを決め込んでしばらく経ったところで止んだ。

 けれど私の肩から力が抜ける事はなかった。刻一刻と近づくマクレガン侯爵との対面に、否が応にも緊張が高まった。温かな陽気に反し、私の指先は血の気が引いて冷え切っていた。

 ……駄目だな。もうとっくに諦めはついていると思ったんだけど。

 自嘲気味に微笑んで、少しでも気を抜けば震えそうになる指先を使者にバレぬようにキュッと握り込む。そうして緊張を逃がすように、ホゥッと小さくひと息吐いた。

 私の吐息も内心の葛藤も、全てをカタカタという走行音に巻き込んで、馬車は順調にマクレガン侯爵家に向かって進んだ。

「リリア様、まもなく到着でございます」

「はい」

 到着を報せる使者の声が、まるでこの世の終わりでも告げられたように感じた。カラカラに渇いた喉でなんとか返事をして、降りる準備を整えた。

 馬車はマクレガン侯爵邸の敷地内を進み、屋敷玄関に横づけする形で止められた。侯爵家の玄関に出迎えの姿はなかった。

「出迎えがないとは何事だ? ……いや、随分と屋敷内が騒々しいな」

 使者も出迎えがない事を訝しみ、御者が用意した踏み台に足を掛けながら首を捻っていた。

「リリア様、なにやら屋敷内がばたついているようで。出迎えもなく恐縮でございますが、なにとぞお気を悪くなさいませんよう」

 使者は恐縮しきりの様子で私に向かって頭を下げた。

「いえ、それは全然構いませんので……」

 私も使者の後に続き、馬車を降りる。使者の言うように、屋敷内からはザワザワと人が行き交う気配と、扉越しにも言い合うような男性の声が漏れ聞こえていた。

 ……なんだろう? 来客対応に関し、これまで作法などとんと気にした事のない私にも、花嫁を迎えるにしては、随分と異常な状況だと内心で首を傾げていた。





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