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 貯蔵小屋に、静寂が満ちる。

 壁に背中を預けて座る男性は、たまに唇を薄く開き、苦し気に呼気を吐き出した。私は握る手の力だけは緩めぬまま、間近にある男性を眺めていた。

 今はピタリと閉ざされた、男性の瞼。その瞼には、淡い金色の長い睫毛が影を落とす。ならば、汚れと血を吸ってぼそつく髪も、その本来の色は睫毛と同じ淡い金色なのだろう。

 そうして閉ざされた瞼の後ろ、男性の瞳は宝石のように輝くブルーグリーンだった。

 その瞳が、私をここに残らせた。ブルーグリーンに魅せられて、私はここを去る選択肢が取れなかったのだ。

 懐かしいような、どこか郷愁を誘うような、そんな不思議な瞳だ……。


 それからどれくらい時間が経っただろう。毒に侵されて紙のように白かった男性の顔に少しずつ血色が戻り、傷を押さえたガーゼにも、新たな血の滲みがなくなった。

 ……良かった。私は一人、ホッと胸を撫で下ろした。

 するとその時、男性の瞼がピクリと小さく震えた。次の瞬間、長い睫毛を割り、鮮やかなブルーグリーンが現れた。

 その瞳のあまりの美しさに、ドクンと胸が跳ねた。

「ずっと押さえていて大変だっただろう。もう、大丈夫だ……」

 男性の形のいい唇が開かれて、最初に耳にしたそれよりも、しっかりとハリのある声を聞く。

 私はしばし、男性に見惚れていた。

 すると男性が、怪我を負ったのと逆の手で、ガーゼを押さえたままの私の手をそっと取り上げた。

「俺はセラヴィンだ。今回は君の勇気に助けられた。……だが、見ず知らずの男に、誰彼構わず安易に手を差し伸べるのは危険だ。優しさを見て、それを付け入る隙と捉える輩もいる。不用意に優しい態度を取るのは諸刃の剣だ」

 男性は、……いや、セラヴィンさんは取った私の手を握り、真摯に告げる。

 私は澄んだブルーグリーンを見つめながら、セラヴィンさんが口にした「誰彼構わず」という言葉に内心で首を傾げていた。

 ……だって私は、決して誰彼構わずに手を差し伸べるわけじゃない。

 同じ状況にあっても、相手がセラヴィンさんでなかったら、私の取った行動もまた違っていた。……私は、目の前で苦しんでいたのがセラヴィンさんだから、とどまって水を差し出したのだ。

「……次から気をつける事にします」

 けれど、そんな私の心の内を言葉で表す事は難しくて、私は結局曖昧に微笑んで頷いた。

「それからセラヴィンさん、私はリリアです」

 ……え? 私が名乗った瞬間、セラヴィンさんのブルーグリーンの双眸がやわらかな光を帯びて煌く。

「そうか、……リリアか」

 セラヴィンさんが一言一句、噛みしめるみたいに、ゆっくりと反復する。

 結ばれた音は、耳に慣れ親しんだ、私の名前だ。だけどセラヴィンさんが紡ぐ私の名前は、まるで別物みたいに優しい響きだった。

 なんだかとても、ドキドキした。胸は忙しなくトクントクンと打ち付けて、全身の体温が上がったような気がした。


「生命すら脅かす毒に慣らすって、体は辛くなかったですか?」

 私とセラヴィンさんは、並んで腰掛けたまま、取り留めもなく色々な事を話した。

「かなりの苦痛を強いられたのは間違いないな。それにより、一時生死の境を彷徨い、その後に長い静養期間を要した」

 セラヴィンさんは、寝入る前とは一転して生気の宿った目をしていた。口調もしっかりしており、セラヴィンさん自身が語った通り、毒が体から抜けてきているらしかった。

「……だが、おかげで出会えたわけだがな」

「え?」

 続くセラヴィンさんの呟きは小さくて、よく聞こえなかった。

「いや、なんでもない」

 セラヴィンさんと過ごす時間は、初対面とは思えないくらい肩の力が抜けて、私にとって自然なものだった。

 会話は、私の身の上についても及んだ。私は言葉を濁し、「ほんの少し居心地が悪い」と一言だけ告げた。けれどセラヴィンさんは、私の置かれた環境と、この貯蔵小屋の現状から、言外の意味までを汲み取ったようだった。

「セラヴィンさん、そんなに思い悩んでもらう必要はありません。ものっていうのは考えようで、実を言うと私は、この気ままな日常を楽しんでもいるんですから。事実、憩いとしているここが、自分好みにちょっとずつ整っていく様子には心が浮き立ちますし」

 すっかり考え込んだ様子で、黙り込んでしまったセラヴィンさんに、私は努めて明るく言った。私の言葉でセラヴィンさんを悩ませてしまった事が申し訳なかった。

 先の言葉は、単に現状を語ったにすぎず、別段同情や慰めが欲しかったわけではないのだ。

「リリア、本来ならば、このまま君を連れて行くべきなのだろう」

 ……え? 少しの間を置いて、重く語られた言葉の意味は、すぐには理解が追いつかなかった。

 私の困惑を余所に、セラヴィンさんは真剣そのものの目で真っ直ぐに私を見つめ、言葉を続けた。

「だが、今の俺が君を伴っても、君の安全が保障できない。……一年、どうか一年凌いでくれ! 必ず一年後、君を迎えに来る!」

 セラヴィンさんは力強く言い切ると、私の右手を取り上げて、両手で固く握り締めた。

 間近に見つめ合うブルーグリーンの瞳が、真摯な光を帯びて輝く。透き通るその美しい瞳に、吸い込まれてしまいそうだと思った。

 私は呼吸も忘れ、精悍なセラヴィンさんの美貌を見つめた。

「リリア、その時、君は俺のものだ。俺は君を妻として連れて行く」

 私が、セラヴィンさんの妻……?

 私はふわふわとした思いで、セラヴィンさんの言葉を聞いていた。ゆっくりと理解が下りてくれば、告げられた一言一句が胸を高鳴らせ、心を浮き立たせた。

 その一方で、どこか現実味を伴わず、一枚紗幕を隔てた向こう側の事のように実感が薄いのは、きっと私にとってあまりにも都合がよすぎる夢のような内容だから。

 これまで私は、目の前の一日一日を無事に過ごしきる事が全てで、未来への夢や希望といったものは持った事が無かった。

 セラヴィンさんが語る、夢のような一年後の未来……。その未来を指折りに数えながら過ごす一年は、どんなにか輝きに満ちた日々となるだろう。

「……待っています。セラヴィンさんが迎えにきてくれるその日を。そしてその時は、私をセラヴィンさんの奥様にしてください」

 私はセラヴィンさんの瞳に向かって、微笑んで答えた。セラヴィンさんは僅かに目を見張り、次いでクシャリと苦し気に顔を歪めた。

「苦しい今を救ってやれず、先の約束しかかなわない俺の言葉を、君が本気で捉えられないのも無理はないな……」

 セラヴィンさんはジッと私を見つめ、寂しそうに何事か小さく呟く。

「だがリリア、この約束は必ず一年後に果たされる。君は俺の求婚を受け入れた、その時になって反故は許さん。俺の妻は君だ」

 私が聞き取れなかった呟きの意味を問おうと口を開くよりも前、セラヴィンさんはグッと私の手を握り、断言した。

 手のひらから伝わる温もりと力強さに、息をのんだ。胸は忙しなく早鐘を刻み、全身の体温が上がる。

 見つめ合う視線に温度などないはずなのに、セラヴィンさんの熱い眼差しは、私を焼いてしまうのではないかと錯覚した。

 ……え?

 すると突然、セラヴィンさんが弾かれたように私から視線を外した。セラヴィンさんの纏う空気は一転し、鋭く張り詰めた物へと変わっていた。

 な、なに?

 セラヴィンさんは動揺する私に向かい、「大丈夫だ」と鼓舞するように力強く頷いて、握っていた手をそっと解く。その手で腰から短剣を引き抜くと、一歩前に進み出て、戸口に向かって構えた。

 私は何が起こったのかまるで分からないまま、庇うように前に立つセラヴィンさんの背中を見つめていた。


 ――カサッ。


 っ! 耳が草を踏む小さな音を捉え、私はやっと、小屋に近づく第三者の存在に気付く。

 ……もしかして、毒矢を射た人物がセラヴィンさんを追いかけてきたのだろうか!?

 だとしたら、見つかれば無事では済まない!

 命が脅かされる状況に瀕し、心臓がバクバクと断末魔のように鳴り響く。全身に脂汗が滲み、緊張で喉がカラカラになって張り付いた。


 ――カサ、カサッ。


「……リリア、もう心配ない。不安にさせてすまなかった」

 極度の緊張状態の中で、告げられた言葉は、なかなか意味を結ばない。

 ただ、セラヴィンさんが全身に張り巡らせていた緊張を解いた事は、なんとなく察した。

 セラヴィンさんは構えていた剣を流れるように腰の鞘に戻すと、私を振り返った。

「仲間が俺を捜しあて、やって来たようだ」

「……え? ……仲間?」

 ポカンとして見上げる私に、セラヴィンさんは寂しげに微笑んで頷いた。

「名残惜しいが、今は一旦のお別れだ」

 セラヴィンさんが大きく一歩を踏み出して、二人の距離が埋まる。

 大きな手が顎にあてられて、ドキリと鼓動が跳ねた。その手に僅かな力が篭り、促されるまま上を向けば、視界にセラヴィンさんの美貌が迫る。

 鼻先が触れそうな距離にまでセラヴィンさんが近づいたところで、私は反射的に瞼を瞑った。

 直後にふんわりと落ちた、優しいタッチ……。

 実際に、私とセラヴィンさんが触れ合ったのは、鼻先じゃなかった。優しい温もりがそっと触れたのは、……唇。

 ほんの表層だけをふんわりと掠めるように触れて、温もりはすぐに遠ざかった。同時に、顎に添えられていた手の温もりも消える。

「リリア、一年後、必ず迎えに来る。その時、俺は君をもう二度と離さない」

 耳元で、吐息と共に熱い囁きを聞いたのが最後。セラヴィンさんの気配は、煙に巻かれたように、一瞬で消えた。

 慌てて瞼を開いたけれど、既に室内にセラヴィンさんの姿はなかった。

 それだけでなく、血で汚れたガーゼや切り取ったシャツの袖、セラヴィンさんが存在していた痕跡が、何も残っていなかった。

 唯一残るのは、私の胸にある記憶だけ……。室内で一人ポツンと立ち竦んでいれば、セラヴィンさんという存在自体がまぼろしだったのではないかと、ともすればそんな不安も湧き起こる。

 不安に突き動かされ、指先を口元に押し当てた。そうすれば、ほんの数分前に受けた口付けが、温もりと実感を伴って色鮮やかに脳裏に蘇る。

 胸に居つく確かな記憶が、私の心を勇気づける。

「……セラヴィンさん、一年後を楽しみに待っています」

 私の囁きは聞く者なく、夕暮れの空気に溶けた――。




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