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――ガタンッ!!
「あなた、帰っていらしたなら、一言おっしゃってくださいな。それからリリアは赤ん坊ではありませんから、入浴くらい一人でできましてよ? ですからさぁ、こちらで一緒に食前酒からいただきましょう」
扉が乱暴に開かれたと思った。直後、お母様のおっとりとした声が浴室内に反響する。優し気なお母様の声には、しかし隠し切れない険が滲む。
だけど今、私にとってお母様の声は、天からの救いの声にも等しかった。意思とは無関係に、目頭がジンと熱を持った。
「いやなに、儂が脱衣所の前を通りかかったら扉が開きっぱなしになっておったのだ。清掃中に戸も締めぬ使用人の無作法を諫めようとしたら、まさかリリアが入浴中だった。あげくリリアが浴室から儂に向かって、背中を流して欲しいと甘えてみせるものだからついな」
お義父様はスラスラと流れるように事実と異なる内容を語り、お母様はそれに微笑んで頷いた。
「まぁ、そうでしたの。本当にリリアはいつまでも甘えたがりで困ったものね。さぁあなた、ここはもう出て食堂に行きましょう。……リリア、あなたは自室に戻り、己の甘えた態度を反省なさい」
お母様は私に向かって吐き捨てるように言い、お義父様の背中をそっと促した。
――カタンッ。
お母様とお義父様が、扉の向こう側に消える。
その瞬間、私は湯船の壁をズルズルと滑り落ちるようにして、力なく頭頂までお湯に沈んだ。
目からあふれる大量の涙が、潤沢に張られたお湯に混じる。声にならない声が、呼気と共に口から漏れ出て、あぶくになって水面にのぼる。
……悲しかった。
この状況でお母様が見せた、私への態度……。そして出て行く瞬間に、お母様が私に向けた侮蔑の篭った眼差し……。それらが残像となって、こびりついて離れない。
……だけど私に、悲しむ資格はないでしょう?
この時、私の脳裏には、かつてお母様が囁いた台詞が反響していた。
『どうしてあの人がお前を助けて死ななければならかったの? 私の大切なあの人を返してよ、この人殺し』
父と祖父母を亡くし、身を寄せたお母様の実家の伯爵家で、お母様は私に向かってこう言った。
焼け崩れる工房で父は私を助け、犠牲になった。私はお母様から最愛の人を奪い、その上で命を繋いでいる。
だから私は、お母様の態度に悲しむ資格なんてない……。
――バチャンッ!
やがて息が続かなくなって、私は水面に顔を出す。
「……ねぇ、お父さん? 私には、お父さんの最期の言葉はとても難しいよ……」
父は最期に、私が『お母さんの助け』になる事を望んだ。
「でもね、お父さん、本当は私もね……っ」
……私も、助けてって思っているよ? この状況から、誰かが助け出してはくれないかって、ずっとずっと思っているんだよ……。
「ぅううっ。ぅ、うっ……」
涙はしばらく、止まりそうになかった――。
三年の月日が流れた。私は十四歳になっていた。
あの浴室の一件以降、私はお義父様に対し、これまで以上に自衛を徹底した。寝室や浴室の内鍵はもちろん、使用人の配置を意識して、不用意に一人きりになる事を避けた。
お母様からは相変わらず、食事等の厳しい支配が続いていた。
だけど私も少しずつ作戦を練り、井戸の水をこっそり汲み上げては保管し、散策を装って庭に出ては足を伸ばして木の実を集めた。
そんな散策の折、私は領内にお義父様やお母様、使用人らの目が届かない安息の場所を見つけていた。
それは屋敷の裏手に広がる山林にひっそりと佇む貯蔵小屋だ。庭の散策の折、偶然その存在に気付き、何気なく戸口を引き開けたのが最初。何代も前に打ち捨てられ、放置された小屋の中は、とてもではないが人が過ごせる状況ではなかった。
しかし、だからこそ密かに物品を置いたり、時間を過ごすのには、うってつけだと思った。私はその日から、人目を忍んで貯蔵小屋の掃除に取り掛かった。そうして私は幾日もかけ、積もる埃に張り巡らされた蜘蛛の巣、それら全てを取り払い、自分だけの安息地を手に入れたのだ。
そうして今日も、私は使用人の目を盗んで手に入れた新しいガーゼを持って、貯蔵小屋の戸口を開けた。
実は、この三年の間で私にも月の障りが訪れるようになっていた。けれど私は、お母様はもちろん、使用人にも告げる事をしていない。
だから、脱脂綿やガーゼといった手当てに必要な物は、全て使用人らの目を盗んで手に入れていた。これらは入手できる時に多く貯めておかなければ、あっという間になくなってしまう。
いつも通り戸を閉めて、目張りとして下げた古布に手を掛ける。
――カタッ。
えっ!?
古布の向こう側から上がった小さな物音に、ビクンと肩が跳ねる。私は布の端を掴んだ体勢のまま、硬直して動けなくなった。
全身から汗が噴き出して、ドクドクと鼓動が騒ぐ。極度の緊張で、目の前が白黒した。けれど、頭だけは休まずに、この場の最善を模索していた。
……布の向こうに、何かがいる! ネズミや猫、ハクビシンといった小動物であればいい。
けれどここは、私が自分自身の手で掃除をし、破損個所は木材で補修もしているのだ。ならば侵入経路はこの戸口となるが、私が訪れた時、戸はきちんと閉まっていた。
これらを加味すれば、自ずと知れる。中の侵入者は、自らの手で侵入後に戸を閉める事の出来る、人間だ……!
ゴクリとひとつ、喉を鳴らす。
同時に私は、覚悟を決めた。
……謝ろう。
家人の誰であるかは分からないが、こんな場所にお義父様やお母様がいるとは思えないから、きっと使用人の誰かだ。戸の向こうの人物が誰であれ、ここの存在が見つかってしまったからには、確実にお母様に報告が上がる。
ならばここは、下手な言い訳はせず謝った方がいい。集めた品々が取り上げられてしまおうとも、数日間食事にありつけなくなろうとも、折檻を受けるよりはいい。
……実は、三年前の出来事には続きがあった。
あの日、お母様は宵の口に一人、私の寝室を訪れた。お母様は私に向かい、『お義父様を誘惑するな』と言い放った。あまりにも事実とかけ離れた追及に驚き、私は思わずお母様に向かって浴室での真相を訴えていた。すると私の反論に、お母様は見る間に激昂した。
お母様は私の頬を張り、虚言癖の悪い娘と罵って、硬い芯金の入った扇で酷く打ち付けた。
私の背中には今も、その時の裂傷が引き攣れた傷跡となって残っている。たとえ事の真相がそこにあろうとも、お母様に反論する事は論外なのだと、私は我が身をもって知る事となった。そうして古傷は、今でもたまに疼いて、私の心に暴力の恐怖を思い出させる。
……だからそう、言い訳も反論もしては駄目。
願わくば、この布の向こうの人物が、少しでも穏便な形でお母様に伝えてくれる人だといい……。私は祈るような思いで、ついに握っていた布を引き開けた。
――パサッ。
「ヒッ!!」
ところが、布の向こう側に広がっていたのは、私の想像を遥かに越えた光景だった。
奥の壁に背を凭れかけるようにして、こちらに鋭い目を向けているのは想像した通り、人だった。
しかしその人の外套は、おびただしい量の血で赤く汚れていた。
「あ、あなた大丈夫!?」
その出血量に圧倒されたが、一瞬の後、私は男性に駆け寄って震える手を差し伸ばした。
しかし男性に触れる直前で、私の手は男性自身によって弾かれた。
「……構うな。これは、俺の血ではない。返り血だ」
男性が荒い呼吸の合間に、切れ切れに告げる。
「っ、でも……!」
「俺に構うなと言っている」
男性は更に吐き捨てるように言ったけれど、その言葉は私には到底納得出来るものではなかった。
……ならば何故、男性は脂汗を滲ませながら荒い呼吸を繰り返すのか。それは他ならない男性自身が、傷を負っているからではないのだろうか?
「毒矢が掠ったのだ。しかし俺は、幼少期より体を毒に馴らし、耐性をつけている。しばらくすれば、毒は抜ける。お前は行け。そうしてここで俺を見た事は忘れろ。そうすれば、お前の不利益となる事もない」
男性は私の内心の疑問に答えるかのように口早に告げ、最後は力なく肩で息をした。
……大きな体、伸びた髭。そして男性は外套を含めた全身はもちろん、ざんばら髪も血と汗で汚れていた。目の前の血濡れの男性は、見れば見るほどに怪しかった。
なにより、男性が許可なしに領内に踏み入った侵入者である事は間違いなく、男性の言葉通りだとすれば、毒の抜けた男性の手で私自身が害される可能性もある。
ならば私は、男性を残してここを去るべきだ……。
踵を返し、戸口に向かった。
「……これを飲んで」
だけど私は、気付いた時には戸口の近くに保管していた水袋を掴み上げ、男性の元に戻っていた。
「どんな毒かは私には到底分らない。でも、水分摂取は毒を薄めて、体外への排出をはやめるでしょう?」
男性は怪訝な物でも見るように私を見上げ、スッと双眸を細くした。
「あ! もちろん毒なんて入ってないから安心して、……ほらね?」
私は男性の憂慮に思い至り、手にした水袋を傾けて、自らの口に含んでみせた。男性はそんな私の様子を、目を細くしたまま見つめていた。
私は床に投げ出された男性の右手に、少し強引に水袋を握らせた。男性は渡された水袋をきちんと自分で握り締めた。
「それから、矢が掠った場所はどこ? 水と清潔なガーゼがあるから、清めるくらいは出来るから」
え? 突然、男性が私の視線を避けるように俯いたかと思えば、何事か小さく呟く。
けれど男性の呟きはとても小さくて、私の耳には意味ある言葉として結ばれない。
「どうしたの? どこが痛むの? ……ええっと、ちょっと失礼するわね」
私は心配になって、一言断りを入れ、男性の外套の留め具に手を掛けた。
「お、おい!」
少し焦ったような男性の声を聞く。しかし、毒に蝕まれた男性の動きは緩慢で、私が留め具を外す方が早かった。
留め具が外れ、男性の肩に掛かる外套がハラリと滑り落ちた。
「っ、酷い怪我じゃない!」
男性の負傷箇所は一目瞭然だった。筋骨隆々の逞しい左腕が、矢じりを受けて抉れ、今も止まらぬ血が流れていた。
「待っていて!」
私は一旦立ち上がると、新しい水袋とガーゼ、ナイフを手に男性の元に戻る。戻った時、男性は私が渡した水を飲んでいた。
「シャツは切らせてもらうわ」
一応、男性に断りを入れた。
「……勝手にしろ」
男性はその風貌とは不釣り合いな、仕立ての良いシャツを着ていた。とはいえ、そのシャツとてこの有様になってしまっては、今更仕立てもなにもあったものではないのだが。
私は男性が水を飲み終わるのを待って、既に襤褸切れとなってぶら下がるだけのシャツの左袖を肩下で切り落とした。
そうして傷に触らぬよう、男性の左腕をそっと取る。
「そ、それじゃ、いくわよ!? 水を掛けるわよ!? し、沁みたらごめんなさい!?」
しかしいざ、見るからに痛そうな傷口を前にすれば、私は及び腰になった。
……ぅううっ、ただでさえ痛そうなのに、水とか掛けちゃったら、もっと痛むに決まってる。だけど、毒矢を受けたままには……。
「俺がやる」
「えっ?」
声と同時、私の手から水袋が奪われた。ポカンとして見上げる私を尻目に、男性は躊躇なく自分の左腕に水を掛けた。
浴びせられた透明な水は、男性の血と混じり、薄い朱色になって男性の指先に伝う。息を呑む私とは対照的に、男性は唇を真一文字に引き結び、呻き声ひとつ漏らさない。
「ガーゼをくれ」
「は、はいっ!」
求められ、慌ててガーゼを差し出せば、男性はガーゼを傷口に押し当てた。そのまま男性は自分の右手で、ガーゼの上から負傷箇所を握った。
「……あ! 私が押さえています!」
血を止める意図で男性が押さえつけている事に気付き、私はすぐに男性に代わり、両手で男性の左腕を握った。
男性は気丈に振舞ってはいるものの、その消耗は相当のようで、続きを静かに私の手に委ねた。
「……すまん。少し、休む」
男性は絞り出すように告げると、荒く一息吐いて、そのまま瞼を閉じた。