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「あの、お母様、これは私がいただいてもよろしいのでしょうか?」

 帰りの馬車の車内、私はタイミングを見計らってお母様に尋ねた。

「勝手になさい。素人の手で作られた菓子など、私は口にしたくもない」

 車窓から移ろう景色を眺めていたお母様は、私を振り返りもせずに、吐き捨てるように答えた。私はお母様の許しを得て、正式に私のものとなったバスケットをキュッと懐に抱き締めた。

「はい」

 ……素人の手と、お母様はスコット子爵夫人の手作りの品に侮蔑を込めた。だけど、私はかつてお母様の手で作られた料理を口にした事もある。そして当時は、お母様自身、父を始め、家族に料理を供すために、その手を水や土で汚す事を厭ってはいなかった――。

 現在スチュワード辺境伯夫人であるお母様は、元はデルデ公国の伯爵家の生まれだ。しかし、婚約を直前に控えた十七歳の時、ガラス窓の入れ替えでやってきたガラス職人のお父さんと出会った。大恋愛の末に駆け落ちし、お母様はお父さんの実家のあるニルベルグ王国で、ガラス工房の女房になった。

 そして私はニルベルグ王国で産声をあげ、父母と、同居する父方の祖父母に愛されて育った。だけど七歳の時、政変による内戦に巻き込まれ、私は父と祖父母、大切な三人の家族を失った。

 実際に、内戦が殺したのは三人。だけど私は思っている。内戦は、優しかった”お母さん”の心も一緒に殺してしまったのではないかと……。

 ガラス製作というのは高温の中での厳しい作業で、父も祖父も大汗を流しながら働いていた。だけど、滴る汗を拭いながら、父も祖父もいつだって笑っていた。

 工房に併設の売店では、祖母に代わってお母様が店先に立つ事もあった。そうしてお母様もまた、確かに笑っていたのだ。

 父が生きている時、私はお母様を「お母さん」と呼んでいた。お母さんはいつだって私に優しかった。だけど父が亡くなって、実家の伯爵家に戻って、私の知る”お母さん”はいなくなった。代わって現れたお母様が、私を厳しくしつけるようになった。

 そうして二年前、義父との再婚から、お母様は更に変わった。厳しいしつけは、しつけの範疇を越え、今では厳しい支配へと代わっている。

 私の胸には、優しかった”お母さん”と過ごした七年間の記憶がある。だけど私はもう四年”お母さん”には会っていない……。

 横並びに座るお母様を、チラリと仰ぎ見る。膝の上で重ねられたその手は、今は長い爪が美しく整えられて、指の幾つかには輝石が煌く。それはまさに、水仕事とは最も遠いところにある貴婦人の手だ。

 そしてその横顔は文句なく、十人中十人が美しいと評する麗しさだ。手入れの行き届いた肌と豊かな髪、華やかな装いも相まって、お母様は三十歳という実年齢とはかけ離れた若々しさだった。

 その若さと美貌はむしろ、質素に暮らしていた七年前よりも、磨きがかかっているようですらあった。

 ……だけど果たして、お母様は幸せなのだろうか?

 カタカタと進む馬車の中、私は答えの出ない堂々巡りを続けていた。

 ――ガタンッ!

 途中、石ころを踏んだようで、馬車が大きく跳ねた。

「っ、危ないでしょう!? 気を付けなさい!」

 お母様が、外の従者に向かって声を張る。

「奥方様、申し訳ございません!!」

 長く見つめている事がお母様にバレて、私まで不興をかってはたまらない。私はそっとお母様から目線を外すと、さり気なく横の窓へと視線を向けた。

 再び馬車は、カタカタと進みだす。

 私は満腹とまではいかないが、久しぶりに満たされたお腹と、スコット子爵夫人の優しさに触れて綻んだ心、膝にのるバスケットの重みを感じながら、心地よい馬車の揺れに身を委ねた。




 帰宅後、自室に戻った私は真っ先にバスケットを開けた。可愛らしいクロスを取れば、バスケットの一番上にはスコット子爵夫人お手製のマフィンが入っていた。

 けれど、マフィンだけではバスケットは埋まらない。下にも、別の何かが入っているようだった。

「……うそ」

 マフィンを取り出して、私は目を丸くした。

 バスケットいっぱいに、ギュウギュウに詰められていたのは、堅パンに、干し肉、乾燥ナッツといった、保存の効く食べ物ばかりだった。

 ……あぁ、やはりスコット子爵夫人は気付いていた――!

 目の前の品々に、スコット子爵夫人が私の窮状を察し、身を案じてくれている事を悟る。

 スコット子爵夫人の心遣いに、胸が熱く震えた。目頭が熱を持ち、目に映る景色がじんわりと滲む。

 私の事を気に掛けて、心を砕いてくれる誰かがいる。その事実が、私の心を否応なしに熱くする。

 故郷と大切な家族を亡くしてから、これまで幾度となく涙で頬を濡らしてきた。だけど今、私は初めて嬉しさから出る涙で頬を濡らしていた。

「スコット子爵夫人、ありがとうございます。それから今すぐには難しいけれど、夫人にいつかこの恩がお返しできるように頑張ります……!」

 小さく決意表明を呟いて、滲む涙をグイッと拭った。

 私は取り出した食べ物を、お母様や使用人らの目につかぬよう、文机の引き出しとクローゼットの中の櫃に分けて隠した。

 そうしてバスケットの中にマフィンだけを残し、わざと一番目に付きやすいナイトテーブルの上に置いた。これを見れば、お母様も貰ったのがマフィンだけだと信じて疑わないだろうと思った。


 ――コンッ、コンッ。

 私が外出用のドレスを脱ぎ、アクセサリーを外し終えたところで、扉が叩かれた。

「リリアお嬢様、夕食の前にお湯に浸かってしまうようにと、奥様が仰せでございます」

 外から掛かる侍女の声で、無事に今日の湯あみと夕食が確保された事を知る。

 お母様の気が変わってしまう前に湯あみを終えて、食堂に行かなくちゃ……!

「はい、すぐに行きます」

 私は侍女に返事をするとすぐに、湯あみの支度を整えて部屋を後にした。

 脱衣所で衣服を脱ぎ捨てると、逸る心のまま浴室に飛び込んだ。湯けむりの漂う洗い場で、丁寧に体を洗う。

 その時に偶然、手のひらが乳房に触れた。

 見下ろせば、以前はまっ平だったそこが、ほんの僅かに膨らみ始めているのが分かる。私の目に、膨らみ始めた乳房がとても忌まわしい物として映る。

 少なくとも今回、これがお母様の逆鱗に触れる切欠となった事は確かで、これのせいで私が三日間食事を許されなかったと思えば、忌々しい以外の何物でもなかった。

 だけど一方で、どうしてお母様がこんなに激昂したのか、私には分からなかった。

 私が侍女頭に望んだのは、先のお茶会で同席した同年の子女が、母から与えられたと語った、肌着の胸当て。私もそれの必要性を感じ、侍女頭に伝えた。

 僅かに膨らみ始めた乳房は、直にドレスを着用すると、擦れて違和感を生む。それの解消に、彼女が語った胸当ては有効に感じた。

 けれど私が胸当てを望んだ事が、侍女頭からお母様の耳に入り、お母様は激昂した。これまでも私の言動によってお母様の不興をかってしまった事は幾度もあったけれど、今回のお母様の怒りは大きかった。

 スコット子爵夫人からお茶会に招かれた事で、絶食は三日間で終わりを見た。だけどもしこのお茶会がなかったら、私はいったいいつ、食べ物を口にする事が出来ただろう。

「……もう、胸当てなんていらない。お母様がこんなに怒るって分かっていたら、欲しがったりしなかったのに」

 小さく呟きながら、ここでふと、気付く。

 そういえば、お母様の再婚でこの屋敷に来たばかりの頃にも、お母様が物凄く怒った事があったっけ。

 あの頃はまだ、私はお母様とお義父様、三人で食事をしていた。その食事中、お義父様がお母様に何か囁いた。その後、お母様は人が変わったように怒った。

 ……あの時、お義父様はなんて囁いたんだっけ?

「駄目だ……、思い出せないや。まぁ、思い出したところで、いまさらどうなるものでもないか」

 私は少し乱暴に胸の辺りを洗い終えると、足先まで全身を隈なく洗い、洗髪まで全て済ませて、湯船へと飛び込んだ。

 潤沢なお湯に浸かれば、ふんわりと心と体が解れる。

 私は湯船の壁に背中を預け、ホゥッと宙を仰いだ。


 ――カタンッ。


 ……え? 誰か、入ってきた!?

「あ、あの! 入っています!! 私が入浴しています、すぐに出ますから!」

 浴室の扉が開かれる音を聞き、反射的に扉に向かって声を張った。

 侍女の誰かが備品の補充か何かで来たのだろうか? どちらにせよ、入浴を急ぐあまり鍵を掛け忘れてしまったのは、私の落ち度だ。

 体はまだ芯まで温まっていなかったけれど、私はタオルを手元に引き寄せて、湯船を出る準備をした。

 ……え、なんで?

 私の思考は混乱していた。入浴中と告げ、入室者はすぐに出て行くものと思っていた。なのに入室者は湯けむりの中、一歩、また一歩と私の入る湯船に近付いてきていた……!!

 どうして!?

 バクバクと心臓が胸を突き破りそうな勢いで鳴っていた。私はタオルを握り締め、湯船の奥で身を縮めた。

 入室者の姿は湯けむりに霞み、いまだ定かでなかった。

「リリア、私だ。背中を流してあげよう」

「お義父様!?」

 聞こえてきたお義父様の猫なで声に、心臓が大きく跳ねる。頭の奥で、キーンという金属音が反響していた。

 私はかつて猫なで声で自室を訪ねて来た義父に扉を開き、体を撫で回された事がある。たまたまやって来た侍女を見て、お義父様はそそくさと部屋を出ていったが、その時のおぞましい感触を思い出すだけで肌が粟立った。

「私はもう、お風呂は一人で入れます! 体も洗い終わっていますし、もう出るところですから」

 胸が鷲掴みにされてしまったみたいに苦しくて、満足に呼吸ができない。それでもなんとか、私は声を絞り出して答えた。

 これ以上ないくらい湯船の壁にピッタリと背中を寄せて、カタカタと震える体を守るみたいに抱き締めた。

「なに、私達は親子なんだから、遠慮する事など無い」

 湯けむりを割り、お義父様が現れる。お義父様は厭らしい笑みを浮かべながら、私に向かって手を伸ばす。

「っ!?」

 握っていたタオルが掴まれて、強引に引かれる。タオルは私の手を離れ、お義父様に奪われた。

 お義父様は好色な目で、私を舐め回すように見下ろしていた。

「さぁ、上がるんだ。私が、リリアの体を綺麗に洗ってあげよう」

 ガタガタと体は震え、歯と歯がぶつかってカチカチと音を立てた。

 お義父様はタオルを浴室の床に放ると、再び私に手を伸ばす。

 その手がついに、私の肌に触れる――。



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