22
セラヴィンさんは微笑みを崩さぬまま、私の枕辺に歩み寄ると、大きな手で私の頭を撫でた。
「だが、休息は一番の特効薬だ。そして俺はリリアが大事だ。だから御殿医の見立て通り、明日いっぱいは安静にしていてくれ。これを譲る気はないからな」
何度も私の髪を梳きながら、セラヴィンさんは柔和に続けた。だけど優しい口調と表情に反し、真っ直ぐに私を見つめるセラヴィンさんの目は怖いくらい真剣だった。
その目から、セラヴィンさんがどんなに私を心配してくれていたのかが、痛いほどに伝わる。
「……はい。今日明日はゆっくりさせてもらいます」
その心を知ってしまえば、私に静かに頷く以外の選択肢はなかった。
セラヴィンさんは私の答えにスッと目を細くして、髪を梳いていた手を止める。そうして指先で髪をひと房取り上げると、そっと唇を寄せた。
神経など通らないはずの髪への口付けはしかし、確かに私の胸を熱くする。ドキドキと胸が騒ぎ、そわそわと落ち着かない心地がした。
「ところでセラヴィンさん、そのレース編みはどうしたんですか?」
私は内心の落ち着かなさを誤魔化すように、セラヴィンさんが腕に抱えるレースに話題を向けた。
セラヴィンさんが部屋に入って来た時から、ずっと気になっていた物でもある。
だけど、私が振ったこの話題に、セラヴィンさんは何故か表情を曇らせた。
「セラヴィンさん?」
「リリア、体調が本調子でない今の君に告げるべきか随分と迷った」
セラヴィンさんはこんなふうに切り出した。
「だが、体調いかんに関わらず、告げるべきだと思った。……君が祖母と慕うスコット子爵夫人の事だ」
先ほどまでの高揚とは、別のところから胸が騒いだ。
私は煩く打ち付ける心臓を右手で抑え、静かにセラヴィンさんの続く言葉に耳を傾けた。
「昨日の深夜、スコット子爵夫人が息を引き取った。このレースは、一報の早馬が報告と共に携えてきた。スコット子爵からの言付けで、これは生前の夫人がずっと編み続けていた物で、君への結婚祝いだそうだ」
やり場のない悲しみが熱い雫になって結ばれて、眦からホロリ、ホロリと頬を伝った。
だけど私に、驚きはなかった。
乱れた文字……。訊ねたのに書かれなかった体調……。前倒しで告げられた婚姻の祝福……。
そして私は、このレースの存在にも、心当たりがあった。
ひとつひとつは、どれも小さな違和感。だけど全てが合わされば、違和感は大きな疑念となって私に警鐘を鳴らしていた。
「リリア、夫人はスコット子爵より五つ上の姉さん女房だった。今回、風邪から肺炎に発展したのが死因にはなったが、俺達と最後に顔を合わせた頃を境に、急激に体力が衰えていたそうだ。最期も夫人自身の口で、自分は大往生だったと語ったらしい。スコット子爵はじめ、家族と君の幸福を願いながら穏やかに逝ったそうだ」
決して、見て見ぬ振りを選んだ訳ではなかった。
ただ、私はその可能性を信じたくなかったのだ……。
「……セラヴィンさん、実を言うと、私には心の片隅で予感がありました」
私は手を伸ばし、ナイトテーブルから手紙を取り上げると、セラヴィンさんに差し出した。
「これは……!」
手紙を受け取ったセラヴィンさんは、スコット子爵夫人の名前を見つけると、目を見開いて私を見た。
「スコット子爵夫人からの最期の言葉です。セラヴィンさん、よかったら……」
セラヴィンさんは重く頷くと、丁寧に封筒から便箋を取り出して素早く目線を走らせた。
読み終えたセラヴィンさんは、あらゆる感情が入り混じる目をしていた。
「この手紙が届いたのは、昨日の夕方だそうです。病床のスコット子爵夫人が、綴ってくれました。これが本当に、最期の贈り物です」
「素晴らしい宝物をもらったな」
セラヴィンさんはそう言って、私の手にそっと宝物を握らせた。
「はい、本当に……」
これまで私は、幾度となくスコット子爵夫人から心尽くしの贈り物を貰ってきた。それらはいつも、その時々の私がもっとも必要としている物だった。
そして最期の最期に、夫人はこんなに素敵な宝物を私に遺して逝ってしまった……。
「……もう、私は何をもらわなくたっていいんです。もう一度、スコット子爵夫人に会いたい。一目会って、お礼が言いたいです」
叶わぬ事と知りつつも、心に巣食う思いを言わずはいられなかった。
「すみません……、馬鹿な事を言って」
「いいや、なにが馬鹿な事などと、俺はそうは思わん」
セラヴィンさんは私の言葉を、優しく否定してみせた。
そうしてセラヴィンさんは、ゆっくりと続ける。
「なぁリリア、命あるものにはいつか終わりが訪れる。だが、その終わりは決して悲しむばかりではない。思う心がある限り、リリアの心の中にはいつまでもスコット子爵夫人が鮮やかな存在感で生きている」
語られる一言一句が、じんわりと心の中に沁み渡る。
私は以前にも、思った。
……きっと、セラヴィンさんは魔法使い。そして私は、セラヴィンさんが掛ける優しさの魔法に包まれる。
「スコット子爵夫人を思う心がある限り、リリアはいつだってまた彼女に会える」
セラヴィンさんの声に誘われるように、そっと瞼を閉じてみる。そうすれば、スコット子爵夫人の微笑みが鮮やかに浮かび上がった。
私はスコット子爵夫人に心からの感謝を告げた……。
ふんわりと、私の頭上にレースが掛けられた感触がした。実際にレースを掛けてくれたのは、セラヴィンさんの手だ……。
だけど私は瞑った瞼の裏側で、眩い微笑みを浮かべたスコット子爵夫人の手で、レースを掛けてもらっていた。
「セラヴィンさん、嫁ぐ花嫁の風習をご存知ですか?」
ゆっくりと瞼を開き、レース越しに問いかけた。
「祖母の手で編まれたレースのベールを付けて花嫁が嫁ぐ。子孫繁栄の願いを込めた風習だな」
今ではもう、実際に行われる事も稀な古い風習だ。だけど幼い日に、同居する祖母に聞かされて私は心を躍らせた。祖母の手で編んでもらうレースに、心を馳せた。
「はい……。祖母は死に、私にレースを編んでくれる人はいなくなりました。だけど、こうして新しい縁が結ばれて、スコット子爵夫人を祖母と慕い、心を通わせる事が出来ました。幼い日に心を躍らせたベールの夢まで叶えてもらって……。なにより私は、夫人から溢れるほどの優しさをもらいました。私は本当に、果報者です」
「ならばリリア、今度は君がそれを次代に繋いでいけばいい。そこには必ずしも血縁は必要ではない。なによりリリア、君は俺と婚姻を結べば一国の母となる。君がこれまでに叶えた夢、得た優しさ、今度は君がそれらを授ける側になればいい。君ならば出来る」
私は今、セラヴィンさんの言葉をまるで負担とは感じなかった。
「……またひとつ、未来に新しい目標ができました。だけどセラヴィンさん、私がそれをするにはセラヴィンさんの支えは必須ですよ?」
わざと悪戯めかして告げれば、セラヴィンさんは鷹揚に頷いた。
「言ったろう? いつだって俺が隣で支えると。だからリリア、なにも心配せず、君は君の思うままあればいい」
慈愛の篭るブルーグリーンの瞳が私を見つめていた。その瞳が、私に力を与えてくれる。
……私には恐れる事などなにも無い。そして恐れる者もない。
ただ唯一、私は私の心に正直にあればいい――。
「セラヴィンさん、王宮の地下にお母様が拘束されていますよね?」
一息の間を置いて問いかける。
「何故それを!?」
セラヴィンさんはとても驚いた様子だった。
「さっき、言ったじゃありませんか。私はもうすっかり元気だって」
だけど、それも当然の事だ。だって私は昨日、意識のない振りをしていたのだから……。
「私、昨日も医務室に運ばれて小一時間もすれば目覚めて、意識もはっきりしていたんです」
いや、正確には、私は室内の喧騒で目覚めた。だけど私は、意識のない振りをするしか出来なかった。
お母様の狂気に圧倒され、体が硬直した。意識はあるのに瞼も指先も、僅かにだって動かなかったのだ。
「ならば、知っているんだな?」
お母様が服毒自殺を図った事。直前で阻止したけれど、ごく微量が経口摂取されて、一時錯乱状態に陥った事。
そして運び込まれた医務室で、お母様が錯乱状態で叫んだ一言一句……。
「はい、全て知っています」
セラヴィンさんは苦痛に顔を歪めた。そして痛ましい物を見るような、気づかわし気な目で私を見つめた。
……あの時、お母様は正気でなかった。でも、だからこそあれは偽らざるお母様の声だ。
細くボロボロになって、だけどギリギリの均衡でなんとか繋がっていると思ったお母様との親子の絆。私はそれが幻想で、お母様との絆などとうに断たれていた事を悟った。
「セラヴィンさん、ありがとうございました」
唐突に告げた礼に、セラヴィンさんは困惑を前面にした。
「それは、なんに対しての礼だ?」
「お母様に言ってくれましたよね。『貴方がリリアをいらないと言うのなら、俺が貰う。貴方がリリアの命を奪おうとするならば、俺が守ってみせる。貴方がリリアの不幸を願うなら、なんとしたって俺が幸せにしてみせる』……私、嬉しかったなぁ」
お母様は聞く耳など持たず、さながら阿修羅のような様相でセラヴィンさんを口汚く罵っていた。だけど、お母様の罵詈雑言が響き渡る医務室で、青褪める面々を余所に、私は一人幸福に震えていたのだ。
「君の意識があると知っていたら、俺はなんとしたってあのままマルグリットを医務室に置いてはおかなかった。浅慮だったあの時の自分を悔やんでも悔やみきれん……」
セラヴィンさんが腰をかがめて私に覆い被さったかと思ったら、頭上から、ポタリ、ポタリと水滴が降って来た。頬に落ちる濡れた感触がなんなのか、一瞬、理解が追いつかなかった。だけどすぐに、透明な雫の正体が知れる。
それはセラヴィンさんが私を思い、私のために流してくれた涙……。
それに触れた部分から、まるで自分という存在が清らかに塗り替えられていくかのような錯覚がした。
「セラヴィンさん、以前と状況は変わりましたが、保留にしていたお母様への処遇が、私の中で固まりました。私はお母様に対し、ニルベルグ王国の法に則った適正な処罰を望みます」
「それでいいんだな」
もう、迷いはなかった。
「はい。本当は、マクレガン侯爵家に嫁ぐために家を出た時にもう、お母様との別れは済ませていたんです。この上、私の人生とお母様の人生が交わる事はありません」
「……そうか。リリア、君の決断に心から敬意を表する」
負の感情の威力というのは大きく、真っ黒な渦となって私が落ちてくるのを手ぐすね引いて待っている。
心が弱った時は、立ち向かうよりも呑まれる方が簡単で、僅かにでも気を緩めれば容易に呑み込まれてしまう。
だけど私は両足を踏ん張って前を向く。
……私は、お母様と同じ側には落ちるまい。
私は政変の痛手から今まさに復興途中のニルベルグ王国に暮らし、すぐ間近で寝る間も惜しんで復興の指揮を執るセラヴィンさんを見てきた。
セラヴィンさんが私をこの場所にとどめ置く。
「敬意だなんて、買い被りです。私には、いつだってセラヴィンさんが指標であり、そして目標なんですから」
セラヴィンさんは辛い過去をバネにはしても、恨みに捉われる事はない。いつだって前を向き、ニルベルグ王国のより良い未来に思いを馳せる。
怒りや憤りに囚われては、道を見誤る。それらの感情はなにも生み出さない。
これは、セラヴィンさんの背中が私に教えてくれた。
「馬鹿な事を……。リリア、いつだって君という存在が俺を正しい道へと誘う道しるべだ。そして君と歩むその道は、いつだって祝福に満ちている」
「セラヴィンさん……」
今はまだ、その背中を目印に進む。だけど私はいつか、その隣に追い付いて並ぶのだ――。




