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***



 昨日の園芸小屋の一件から、私はすっかり寝台上の住人になっていた。

「あの、先生? 私、もうすっかり大丈夫なんです。寝台から起きて過ごしては駄目ですか?」

 一夜が明け、朝食後に傷の消毒にやって来た御殿医に、さりげなく水を向けてみる。

「いけません! 大事を取って、せめて明日いっぱいは我慢してくださいませ!」

「は、はい」

 御殿医のあまりの勢いに、私は圧され気味に頷いた。

「……免疫力が落ちているのは事実。ここで万が一、リリア様が感染症にでも罹ろうものなら私が陛下に……」

 傷の消毒を終えた御殿医が、私に背中を向けて道具を片付けながら呟く。しかしその声は、もごもごとくぐもって良く聞こえない。

「先生、なんですか?」

「いえいえ! なんでもございません! とにかく、リリア様には明日いっぱいは安静にお過ごしいただきますのであしからず!」

 私が聞き返せば、御殿医は慌てた様子で先ほどと同じ台詞を繰り返し、鞄を手に逃げるように寝室を後にした。

 あしからずって……。

 御殿医の背中からすでに見飽きた天井に目線を移し、小さく溜息を吐いた。

 少し喉がイガイガする程度で、自分ではもうすっかり元気なつもりでいるのだけれど、周囲がそれを許してくれない。

 だけどそれもそのはず、最高権力者のセラヴィンさんが頑として絶対安静のスタンスを崩さなければ、周囲は同調するしかない。

「……本当に、セラヴィンさんってば私に対して過保護すぎる」

「まぁ、ふふふ。だけどそれも、リリア様可愛さゆえね」

 独り言に返事があった事に驚いて見れば、扉の前でゴードン伯爵夫人が柔らかな笑みを浮かべて立っていた。

「ゴードン伯爵夫人!」

 だけどゴードン伯爵夫人は、私の腕に巻かれた包帯を見るや、表情を曇らせた。

「リリア様、お怪我は痛む?」

 寝台に歩み寄ると、ゴードン伯爵夫人は私の怪我に触れぬよう、そおっと肩を抱き締めた。

 その目には、薄く涙の膜が浮かんでいた。

「いえ、ちっとも。怪我はほんの擦り傷程度で、私はもうすっかりいいんです。さっきも言ったように、セラヴィンさんたちが過保護すぎるんです」

「リリア様、私は本当に不甲斐ないわ……。昨日の用事だって、今思えば決して急ぎではなかったの。なのに私は判断を誤って、結果として肝心な時に貴方を守れなかった」

 苦し気なゴードン伯爵夫人の呟きを聞き、私は弾かれたように夫人の肩に手を置いて、首を横に振っていた。

「そんな事ありません! タイミング的にそうなっただけの話で、ゴードン伯爵夫人が不甲斐ないだなんて、決してそんな事はありません。それよりも、私はゴードン伯爵夫人にどんなに励まされたか……! だからどうか、今回の一件でご自分を責めたりはなさらないでください」

「リリア様……」

 語気を強くして言う私を、ゴードン伯爵夫人は目を見開いて見つめていた。私は尚も、言葉を続けた。

「毒物混入後に私に付いていただいたのはもちろん心強かったですが、それだけはありません。王宮にきたばかりの頃、私は右も左も分からなくて、随分と愚かな姿も見せてしまいました。だけどゴードン伯爵夫人は呆れる事も無く、一から丁寧に教えてくださって、私はどんなに救われた事か」

「リリア様……、なにが愚かなものですか」

 私がかつてを思い出しながらしみじみと語れば、ゴードン伯爵夫人は眩しい物でも見るように、目を細くして、緩く首を振った。

「リリア様は愚かの意味を間違えているわ。……リリア様、これを見て」

「ゴードン伯爵夫人?」

 ゴードン伯爵夫人はそおっと私の手を解くと、寝台を離れ、長窓の前に移動する。そうして長窓の前で立ち止まると、朱色のベルベット地に、裾に沿って金糸で豪奢な刺繍が施された重厚なカーテンを引く。

 次いで現れた繊細なレースのカーテンも引かれれば、この五カ月ですっかり馴染んだ景色が寝台に伏す私の目にも飛び込んでくる。

「ここからは、先の政変などまるで感じさせない豊かな街の姿が見てとれるでしょう?」

 ゴードン伯爵夫人の言葉通り、睥睨する王都に先の政変の痕跡はまるでなく、いっそ不可解なくらい整っていた。

「はい、とても豊かで……。私の目には、なんだか逆に豊かすぎるようにも映ります」

 一際存在感を放つ教会の尖塔は、びっしりと施された金細工が、遠いこの場所からでも分かった。王都の中心を南北に走る中央通りは、一級品のスレート材を敷き詰めて舗装がなされ、豪華絢爛の一言に尽きる。風雅に整う中央公園の庭園造りは、わざわざ東国の技術者を呼び寄せて、大枚をはたいて造らせた物だと学んだ。

「えぇ、これらは七年間の前王統治時代の負の遺産よ。一所に財を集中させれば、それ以外の場所にしわ寄せがいくのは道理。そして彼の王の失態は、地方からの搾取にとどまらない……」

 ゴードン伯爵夫人の視線の先を辿り、王都の先、地平線の彼方に視線を移す。

「自らが治める大地を自らの手で焼き払うなど、とても正気の沙汰じゃない。それでも民は、歯を食いしばって生きるしかない。……民にとって、無能が王位に就くほど悲惨な事はないわ」

 先の王によって焼け野原に変わり、今まさに復興途中にある故郷を思えば、自ずと目に熱が溜まった。

「本当に、その通りですね……。私利私欲に汚れ切った先の王は、王家に生まれながら、もっとも王の座に相応しくない人物だったんだと思います」

「ええ。リリア様、これこそが本当の愚か者よ」

 ゴードン伯爵夫人はしっかりと前を見据え、強い目をして言い切る。

「そうですね、ゴードン伯爵夫人」

 そんな人物が、七年間も王位を戴いた……。

 多くの民が苦しんだ。もちろんセラヴィンさんだって苦しんだ。

 そうして今も、セラヴィンさんは思い悩み、苦しんでいる。

 王位は奪還して終わりじゃない。その後の立て直しに、セラヴィンさんは日々、心を砕いている。

「……ゴードン伯爵夫人、いまだ地方では前王統治による傷跡が深く残っています。けれどセラヴィンさんは、絶対にこのままではおきません。当然、広大な国を一度に潤す事は難しい。だけど疲弊したニルベルグ王国は、セラヴィンさんの統治の下で必ず元の……いえ、一層豊かに変わるはずです。未熟ですが、私もセラヴィンさんの隣でニルベルグ王国の復興に精一杯尽くしていきます」

 過ぎた過去は変えられない。だけど未来は、そうじゃない。

 一ヵ月後には、私も国政の中心に近い場所に身を置くことになる。私にできる事、私がするべき事、しっかりと考えよう。そうして正しく見定めて、ニルベルグ王国のために尽くそう。

「本当に、セラヴィン様はよいお妃様を選んだわ」

 私に向かい、ゴードン伯爵夫人が感慨深げに呟く。

「……リリア様、私、何か温かい飲み物でも入れてきますね」

 ゴードン伯爵夫人は優し気に微笑むとレースのカーテンだけ引いて、お茶の用意に消えた。

 ……セラヴィンさんに望まれて、天にも昇るくらい嬉しかった。だけど直後、セラヴィンさんの身分を知り、セラヴィンさんの想いを受け入れる重みに震えた。

 それでも、私にセラヴィンさんを諦める選択肢はなかった。私はセラヴィンさんの手を取りながら、固く誓った。

「良き妻、良き王妃となれるよう、私はそのためのあらゆる努力を厭わない」

 かつての誓いを改めて口にする。

 そこへの一歩を踏み出す為、私には越えなければならない壁がある。

 今こそ、私は母という大きな壁に向き合わなければならない。決断の時は近い――。






「飲み物をこちらに置くわね。それでねリリア様、これが昨夕届いていたようなの。王宮中が落ち着かない状況で、どうやら到着の報告が滞ってしまったみたい」

 お盆を手に部屋に戻ったゴードン伯爵夫人は、吸い口に入ったお茶をナイトテーブルに置いた後、お盆の上からさらに何かを取り上げた。

 差し出されたのは、一通の封筒だった。

「手紙ですか? どなたから……、えっ!? これ、スコット子爵夫人からです!」

 受け取って、後ろに書かれた送り主の名前を見た私は驚きの声を上げた。

 これまでにないくらい、返事の戻りが早かった。

 これが届いたのが昨日の夕方……。往復の配達時間を差し引けば、スコット子爵夫人は手紙を受け取ったその日の内に返事を認めて、すぐに送ってくれたに違いなかった。

「リリア様、開封するわね」

「お願いします」

 ゴードン伯爵夫人が私に代わり、ペーパーナイフで封を切る。

「私は奥にいるわね」

 ゴードン伯爵夫人は開封した封筒を再び私に手渡すと、私が止めるよりも先に、奥へと場所を移ってしまった。申し訳なく感じつつも、その心遣いが有難かった。

 私は逸る心を抑え、封筒から便箋を取り出した。

 ――カサッ。

 折りたたまれた便箋を広げ、びっしりと綴られた文字を追う。

 この日の文字は筆圧が弱く、いつもより少し乱れていた。きっと、急いで認めてくれたからだろうと思った。

 時節の挨拶のすぐ後には、私が先の手紙で相談した内容に対する返事が書かれていた。

『――よく、話してくださいましたね。リリア様のお気持ちが、痛いくらいに伝わりました。なにより、これまでのリリア様がどんなに頑張ってこられたかも……。遺言というのはとても重い。それがお父さまの口から聞かされた最期の言葉なら尚の事と思います。だけどリリア様、私はリリア様よりも年長で、天に召される時も近いからなんとなく分かる事もある。語られたその一片だけが、お父さまの想いの全てではないのですよ。だって心の内を言葉で語るには、想いというのはあまりにも膨大だわ。だから、死に瀕したお父さまから伝えられた遺言もまた、お父さまの心のほんの一部分にすぎません』

 ……そうなのだろうか。お母様の助けになる事、それがお父さん最期にして唯一の望みだと、私はずっとそう思っていた。

 だけどそれは、お父さんの心の一部分だった……? 逸る心のまま、手紙の続きに目線を走らせた。

『リリア様がずっと頑張ってきた事、お父さまはきっと天国から見ていますよ。そして、これまでありがとうって、これからは自分の幸福のために生きなさいって、そう言ってリリア様の背中を押してくれるはずです。だってお父さまは、リリア様の幸福を確かに願っていたじゃありませんか。リリア様、何に縛られる事もありません。心のまま、自らの幸福のために生きれば良いのですよ。お母様との関係に正解はないけれど、そうすると自ずと、答えも出るのではないでしょうか……』

 スコット子爵夫人からお母様に対して明確な答えはなかったけれど、夫人の一言一句は胸にじんわりと沁みていく。

 幾度となく繰り返された夢の中で、いつもお父さんは苦し気に歪んだ顔をしていた。至らない私に対し、苦渋を感じているのだろうと、目覚めはいつも申し訳ない思いになった。

 だけど今、そっと瞑った瞼の裏に思い浮かぶのは、優しいお父さんの微笑みだった。

 お父さんの微笑みが、私の選んだ道を肯定し、応援してくれているような気がした。

 ……長年の胸のしこりが溶けていく。心の中の暗雲が、スーッと晴れていくようだった。

 私はとても満たされた思いで、一行分の空白を置いて始まる手紙の続きを追った。

『リリア様、最後になってしまったけれど、十六歳のお誕生日おめでとう。この手紙が届く頃、リリア様はニルベルグ王国での成人を迎えているんじゃないかしら。私の想いもまたいっぱいありすぎて、この手紙だけで上手く伝えきれる気がしないのだけど、これだけは言っておかなくちゃ。いつまでも、貴方の幸福を見守っています。来月の婚姻式を先取る形にはなるけれど、セラヴィン様と末永くお幸せに――』

 全て読み終えた後も、私はしばらく手紙から視線を外す事が出来なかった。

 なんとなく、手紙の結びがいつもとは違っていた。まるで、今伝えておかなければならないとでも言うような、そんな雰囲気だ。だけど今回は、私が相談した内容が内容だけに、夫人の結びの文面も付随して重くなっているのだろう。

 そうして幾度目かに文面を辿っていた時、ふと、その後の体調について何も書かれていない事に気付いた。

 なにも記されていないという事は、もうすっかりいいのかな?

 ……大事にならなくてよかった。

 私はそう解釈し、長く握っていた便箋を畳んで丁寧に封筒にしまい、寝台脇のナイトテーブルに置いた。

 ――コンッ、コンッ。

 部屋の扉が叩かれたのは、まさにそんなタイミング。

「リリア、具合はどうだ?」

 扉から顔を覗かせたのはセラヴィンさんで、何故かセラヴィンさんの腕には見慣れない総レースの布地が掛かっていた。

「もう、すっかりいいんです。元気なのに、私が寝台から起き上がろとすると、皆さん目くじらを立てるんです。これって絶対、セラヴィンさんが皆さんに過剰な注意喚起をしているからだと思うんですよね」

 私はわざと唇を尖らせて、セラヴィンさんへの不満を口にした。

「はははっ! なるほど、リリアは俺に食って掛かれるくらい回復したとみえる」

 セラヴィンさんは白い歯を見せて破顔した。

 私は先の一件で、セーラとセラヴィンさんが同一人物だという衝撃的な事実を知った。もちろん理解はしたけれど、心は混乱して、いまだにこの事実をうまく消化できていなかった。

 だけど今、私は間近に見るセラヴィンさんの笑顔から、確かにセーラを感じていた。

 私は目を細め、眩しい思いでセラヴィンさんと、そしてセラヴィンさん越しに浮かぶセーラの微笑みを見つめていた。



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