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 ――カラン、……カラン。


 舌の上で転がせば、歯にぶつかって、カランと澄んだ音が上がる。

 けれど幾度転がしてみても、口内のそれは舌に味を伝えない。


 ――カラン。


 私は最後にもう一度転がして、唾液に濡れたそれを口の中から摘まみ出した。指先に摘まんだまま日に翳せば、日を弾きキラキラと光る。

 淡い色味の小さなトンボ玉は、見た目には、まるで飴玉のようだ。

「ふふふ。……だけどやっぱり、トンボ玉じゃ甘くはないね」

 それでも、私は空腹を誤魔化す為に、しゃぶらずにはいられなかった。

 空腹に胃腑がキリキリと痛み、食道から喉の奥にかけて不快に張り付くような感じがした。

「今日こそ朝食に呼ばれたりしないかな」

 ポツリと呟いて、けれど次の瞬間には、それは難しいだろうと思い直す。

 お母様のあの感じだと、今回もまだ無理だろう。

 昨夜のお母様を思い浮かべながら、私はベッドヘッドを支えにして立ちあがると、重い足を引きずって文机に向かう。

 私は引き出しにトンボ玉をしまうと、力なく寝台に戻る。その時に、ふと部屋に設えられた姿見に目がいった。

 そこには、レースをふんだんに用いた洒落たネグリジェに身を包む少女が映っている。少女は小柄で痩せていて、こけた頬をしていた。しかしその豪奢な装いなどを鑑みれば、多少痩せて細かろうが、誰も少女が食うに困っているとは思わない。

 事実、私と顔を合わせるお客様は、誰もかれもが微笑みと共に「リリア様、好き嫌いせずなんでも食べませんと大きくなれませんよ」と、こんなふうに告げる。

 私はそれに、いつもはにかみながら頷く。そんな私を、横からお母様が貼り付けた笑顔で見つめている。笑顔の奥で、お母様は娘の私を鋭い目で睨んでいる。けれど扇子で口元を隠し、目を細くして微笑むお母様の狂気に、気付く者は誰もいない。

「……ふふふ、私に好き嫌いなんてないよ。だけどそうだなぁ」

 姿見の中の少女はこけた頬に笑みをのせた。だけどその笑みに覇気はない。

 それもそのはず、私はもう三日、まともに食べていないのだから……。

「セーラに貰った甘い飴玉が、また食べたいなぁ」

 日に透ける淡い金髪と、故郷の湖沼地帯を彷彿とさせるブルーグリーンの瞳が懐かしく思い出された。

「セーラ、元気かなぁ……」

 私はセーラとの綺麗な思い出に浸りながら、そっと寝台に体を沈めた。




 私はリリア・スチュワード、先月十一歳になった。

 母の再婚で義父となったのがスチュワード辺境伯で、義父の治める辺境伯領はデルデ公国の西側に位置し、先ごろまで政変で混乱していたニルベルグ王国と隣接している。

 ニルベルグ王国が政変の混乱時、義父は国境沿いに私兵を配備し、デルデ公国側に蟻の子一匹通さない強固な態勢を取った。デルデ公国に火種の一切を寄せ付けなかった義父は、国王からの覚えもめでたい。もっとも水面下では、難民支援を端から放棄する義父の強固な姿勢に批判的な意見も多く上がっているのだが、義父はそれを歯牙にもかけていけない。


 ――カツン、カツン。

 響く靴音に、ビクンッと肩が跳ねる。物思いは一瞬で霧散して、意識は寝室の扉、その一点に集中した。

 ――ガチッ、ガチッ!

 誰かが私の寝室の扉を押し開けようと、ドアハンドルを回していた。

 部屋の内鍵に阻まれて、金属が鈍くぶつかる音が響く。

 バクバクと鼓動が胸を突き破りそうなくらい、鳴っていた。

「リリア、話があるわ。ここを開けなさい」

 扉の向こう側から掛けられた、お母様の凍てつくような声に、キュウッと心臓が縮む。

 ……もしかして、私はまたお母様の逆鱗に触れるような事をしてしまったのだろうか!?

 怯えから体が硬直した。

「リリア、聞こえていないの!?」

「は、はい! お母様、今開けます!」

 続くお母様の鋭い一声で、私は弾かれたように寝台から起き上がる。滲んだ涙を袖で乱暴に拭うと、よろめく足で扉に向かって駆けた。


 ――カチャン! ギィイイ――。


 慌てて内鍵を開け、扉を開ける。

「なにをしていたの。すぐに開けなさい」

 お母様は居丈高に私を見下ろして、ぞんざいに言い放つ。

「お母様、すぐに開けなくてごめんなさい!」

 キュッと身を縮め、背中を丸めて謝罪する。

 お母様はまるで汚い物でも見るみたいに私を一瞥し、すぐにパサッと広げた扇で顔の下半分を隠した。

「今日の午後、スコット子爵夫人からお茶会に母子でと、お招きいただいているわ。侍女を一名寄越すから、一時の出発までに身支度を整えておきなさい」

 ……お茶会のお誘い!?

「は、はい!」

 お母様は用件だけ告げれば、ドレスの裾を翻して行ってしまった。

 私はお母様の背中が廊下の角に消えるとすぐに扉を閉じた。そうして扉に背を預け、ズルズルと床にしゃがみ込んだ。

 お母様の逆鱗に触れた訳ではなかったと知り、安堵から目尻に涙が滲む。いまだ忙しなくドクンドクンと響く鼓動は、鼓膜で反響していた。

 しかも今回、私はお母様の怒りを買わなかったばかりじゃない。幸運な事に、私はこの後クッキーの数枚、……ううん、うまくすればサンドイッチが食べられるかもしれない!

 私は空腹で痛む胃腑のあたりを撫でながら、湧き出る涙を堪えるように、ギュッと目を瞑った。

 だけど間違っても、浅ましく貪ってはいけない……。お母様の逆鱗に触れてしまえば、また数日、なにも口に出来なくなってしまう。

「今日のお茶会は、なんとしても完璧な令嬢でいよう……。お母様が自慢できる、娘でいよう」

 私は決意と共に、両手をギュッと握り締めた。



「スチュワード辺境伯夫人は、こんなに素晴らしいお嬢さまと、立派なご主人をお持ちで羨ましいわ。まるで理想を体現したかのようなご一家で、本当に素敵の一言に尽きますわ」

 お茶会を終え、屋敷玄関の前でスコット子爵夫人から見送りを受ける。

 スコット子爵夫人の言葉で、私が無事に「完璧な令嬢」を演じきれた事を確信し、ホッと胸を撫で下ろす。

「まぁ、そんな」

 スコット子爵夫人からの賛辞に、お母様も満更でもなさそうだった。

「ねぇスコット子爵夫人、今度はぜひ当家にもいらしてくださいな。もうじき当家のバラ園が見頃を迎えますの。そうしたらガーデンパーティーを開催しますから、その時はぜひご主人といらして」

「バラを眺めながらのガーデンパーティー、なんて素敵なんでしょう。その時は必ず、主人と伺わせてただきますわ」

 お母様が機嫌よく語るのを横目に見て、胸に安堵が広がる。

「ええ、ではスコット子爵夫人、ごきげんよう」

「ごきげんようスチュワード辺境伯夫人」

 お母様が丁寧に腰を折り、馬車に向かう。私もすかさず淑女の礼を取り、お母様の後に続く。

「……あ、そうだわ! ねぇリリア様、よかったらこれをお持ちになって?」

 するとスコット子爵夫人が思い出したように、玄関先に置いてあったバスケットを取り上げて、私に向かって差し出した。

「実を言うと、お茶会でお出ししたマフィンだけ私の手作りだったの。けれどパティシエの繊細な菓子が多く並ぶ中で、一番形が崩れたこれが私の手製だとは、なかなか言い出せないでいたのよ。お茶の時、リリア様が美味しそうに食べてくれて、本当に嬉しかったわ」

 私が答えるより先に、優しい笑みを浮かべたスコット子爵夫人が、私の手に少し強引にバスケットを握らせた。

 ズッシリと重たいバスケットに目を丸くする私に、スコット子爵夫人は笑みを深くした。

 想定外のこの状況に際し、私は取るべき行動に迷った。ここで対応を間違えたら、また数日食事を抜かれてしまう。

「まぁまぁ、スコット子爵夫人、どうか気を遣わないで?」

 馬車に向かおうとしていたお母様が戻ってきて、私が持つバスケットに向かって手を伸ばす。

 っ! 私はお母様がバスケットに手を掛けるよりも前、反射的にスコット子爵夫人にバスケットを差し出した。

「スコット子爵夫人、お気持ちは嬉しいのですが、これは――」

「いいえ、スチュワード辺境伯夫人、気を遣ってるのとは全然違うのよ。こんなお婆ちゃんの手作りじゃ、ご迷惑かとも思ったんだけど、私がリリア様に持って帰って欲しくて居ても立ってもいられなかったのよ。だから、リリア様に貰っていただけたら嬉しいわ」

 ところが、私がみなまで言う前に、スコット子爵夫人が言葉の途中を遮った。淑女の取る行動としては少々マナー違反だが、にこにことした人の良いスコット子爵夫人がしたこの行動は、不思議と失礼とは感じなかった。

 しかもスコット子爵夫人は、茶目っ気たっぷりに微笑むと、わざと空いた両手を後ろに隠してしまう。

 もしかして、スコット子爵夫人は私の異変に気付いている……? スコット子爵夫人の微笑みに、そんな思いが過ぎった。

「まぁ、そうですか? それでは、お言葉に甘えてありがたくちょうだいいたしますわ」

 お母様の言葉を受けて、私も慌ててスコット子爵夫人に礼を告げる。

「スコット子爵夫人、ありがとうございます。それからスコット子爵夫人、今の言葉はまるっきりの謙遜です。だって夫人のマフィンは、パティシエのお菓子にまるで引けをとっていませんでした。その見た目も、もちろん味も。こんなに美味しいマフィンをお土産にまでいただけて、嬉しい限りです」

 お母様の手前、私はいつも、ある程度言葉を選んでいる。だけど今は、言葉を飾らずに、思いのままを伝えた。

「受け取っていただけてよかったわ。それじゃあね、リリア様。またいらして」

 スコット子爵夫人はそっと私を抱き寄せると、温かな手でポンポンッと腕を撫でた。その温もりと優しさに、亡くなったお祖母ちゃんを思い出した。







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