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 カッと見開いた視界に、今まさに私がしたためていた便箋が目に飛び込む。手元には、びっしりと文字で埋まった三枚の便箋があった。

 そこでふと、気付いた。

 二枚目と三枚目の便箋に、ところどころ水滴が滲んでいた。不思議に思って、ペンを持つのと逆の手で、そっと頬に触れてみる。

 ……あ、涙。私は濡れた感触ではじめて、自分が泣いていた事を知る。どうやら私は、泣きながら文章をしたためていたらしい。

 私は涙が残る目元を乱暴に袖で拭いながら、卓上の懐紙を手に取って、便箋の滲む箇所にそっと押し当てた。

 懐紙を外して見れば、僅かに輪郭のぼやけた文字はあるが、よく見なければ分からない。

 ……これならば大丈夫そうだ。

 本来ならば新しく書き直すべきだけれど、もう一度同じ文面をしたためる事がどうしても難しかった。

 私は再び湧き出そうになる涙をグッと堪え、近況についてさらに少しだけ綴った。そうして手紙の最後を『私と母の未来のために何が最善か考えています。だけどいまだ、その答えは出ていません』こう結んだ。

 私は便箋を折りたたんで封筒に入れると、ゴードン伯爵夫人に送付について尋ねた。

「これをスコット子爵家に送りたいのですが、やはり今は時期的に難しいでしょうか?」

「いいえ、大丈夫よ。ルーカスに託せば、軍部を経由するルートもある。私が責任を持ってお預かりするわ」

「ありがとうございます。お願いします」

「ええ、出来るだけ早く届くように手配するわね」

 私の姿に何か感じるところがあったのだろう。ゴードン伯爵夫人はそう言って、丁寧に手紙を受け取った。




 毒物混入のあったあの日から、三日が経った。

 セラヴィンさんの指揮の下、混入経路と犯人の特定が進められているが、いまだその特定には至っていないようだった。

 事件から四日目にもなれば、上を下へとひっくり返したみたいな騒ぎは一応落ち着いて、王宮内は少なくとも表面上は平静を取り戻していた。だけどあれ以降、私の警護は徹底され、部屋で過ごす時でも必ず誰かが同室に控えるようになっていた。食事にしても、これまでは厨房内で済ませていた毒見が、今は食堂で私が口にする直前に行われるようになった。

 当然の事ながら心はいつも休まらないし、食欲も湧かなかった。

「うーん、気が滅入る……」

「リリア様、どうかされましたか?」

 今も同室に控える侍女に独り言を聞き返されて、私は内心で小さく溜息を吐いた。

「いえ、なんでもありません」

 ゴードン伯爵夫人は今日も、朝食後すぐに私の部屋を訪れてくれた。そのままお昼近くまで共に過ごした後、ゴードン伯爵夫人は所用があると居室に戻っていった。それからはずっと、この侍女が私に付いてくれていた。

「リリア様、よかったら少し新鮮な空気でも吸いに行きませんか? きっと気分が入れ替わりますわ」

 すると、まるで私の心の内を読んだみたいに、侍女がこんな提案をしてきた。

「私が出歩くのは、ご迷惑になりませんか? その、警護上の都合などもあるでしょうし」

 嬉しい反面、私には心苦しさもあった。

 止められている訳ではないのだが、私は追従する女官達の手を煩わせぬよう、ここまで不必要に歩き回る事を避けていた。

「まぁ! 何を仰いますか。事件はじきに決着を迎えますし、リリア様が行動の制限をされる必要など、まるでありません」

 侍女の言葉は初耳だった。

「え? 事件が決着って、もしかして毒物混入の犯人が捕まったんですか?」

「あら、私ってばつい余計な事を……。私が懇意にしている筋からだったのですが、リリア様、どうか今のはここだけの話でお願いいたします」

 侍女は訳知り顔で微笑んだ。

 私はその口振りから、おそらく侍女は近衛兵の指揮官レベルの男性と懇意で、そこからなにか聞いたのだろうと察した。

「……あの、それじゃあお言葉に甘えて、少しだけ中庭で外の空気を吸ってきます」

 私はあえてそれ以上追及はせず、散歩の同行をお願いした。

 ここで侍女から無理に聞き出さずとも、捜査で進展があったなら、その情報は今晩にもセラヴィンさんの口から直接聞ける。

 三日も籠の鳥で過ごしていると、さすがに少し息が詰まってきていたし、正直なところ、侍女からの提案は有難かった。

「はい、ご一緒させていただきます! ……あ、私、外の近衛に一声かけてまいりますね」

 侍女はそう言って、扉の外にひらりと身を滑らせた。

「リリア様、お待たせいたしました! まいりましょう」

 私は侍女と共に中庭に向かった。




 体いっぱいに太陽の光を浴びて、グッと大きく伸びをする。そうすれば、これまで沈みがちだった気分が前向きなエネルギーで充填されていくような心地がした。

 私はもう一度、肺いっぱいに大きく息を吸い込んだ。

「……あれ? ねぇ、なんだか焦げ臭くない?」

 ほんの僅かだが、焦げたような臭いが漂ってくるのに気付く。

「焦げ臭い、でございますか?」

 侍女は私の言葉に首を傾げ、スンスンと小さく鼻をひくつかせた。

「……あ、左様でございますね。どうやらあの園芸小屋からのようですね」

 私と侍女は、中庭の端に建つ園芸小屋に向かった。

 園芸小屋に近付くと、薄く開いたままの扉の隙間から、薄く煙が流れ出ているのが分かった。焦げ臭いにおいの正体はこれだった。

「この程度でしたら私でも消せるかもしれません! リリア様、危なくない範囲でお手伝いをお願いできませんか?」

 先に小屋に駆け寄った侍女が扉を開け、中の状況を確認して声を張る。侍女の背中越しに小屋内を覗けば、積み上げられた園芸用の敷き藁から煙が燻っているのが見えた。

 幸いな事に火の手はまだ小さく、これならば侍女の言うように、十分消火は可能に思えた。

「もちろんです!」

 私は小屋内に踏み出した。

「あぁっ!?」

 その次の瞬間、突然ドンッと背中を押された。

 ――バタンッ。

 衝撃で私が小屋内に倒れ込むと、背後で扉の閉まる音がした。……え?

「や、やだっ!? 開けて!!」

 慌ててドアハンドルを握り、押したり引いたりしてみるが、扉は一向に開く気配がない。

「ここから出して!!」

 私はしばらく扉を叩きながら叫んでいたけれど、外からの返事はなかった。

 ――ジ、ジジッ、ジジッ。

 なに? 私が不自然な音に気付いたのは、諦めて扉を叩くのをやめてからだった。

 音のする方に慌てて目線を向ければ、敷き藁から上がっていた炎が一気にその勢いを増していた。

「……うそ。なんで?」

 それは、明らかに不自然な火の回り方だった。

 扉が閉ざされた事ばかりに気が取られ、状況把握が疎かになっていた。だけどよくよく見ると、乾いた藁の一部は色を濃く変えている。そしてその色の濃い部分を中心に、炎は燃え盛る。

 ……たぶん、油だ。

 私はここにきて初めて、自分が明確な意図を持って焼き殺されそうになっている事に気付く。

「っ! と、とにかく消さなきゃ!」

 そうこうしている内にも、藁は瞬く間に燃え上がる。

 小屋内を見回すが、水はなかった。私は園芸用品の中から水分を多く含む腐葉土の入ったバケツを持って燃え上がる藁に寄り、炎に向かってかける。

「……どうしよう、全然だめ」

 しかし、燃え盛る藁に歯が立たない。

 藁から上がった火は、小屋内の備品を巻き込んで、段々と火の勢いを増していく。火は、容赦なく木製の小屋それ自体をも焼いていく。

 私は消火を諦めて、火の手から対角の隅でしゃがみ込んだ。背中を小さく丸め、ドレスのポケットから手巾を取り出して口元を覆った。

 小屋内の温度はみるみる上昇し、皮膚がピリピリと焼け付くようだった。しかし狭い小屋内は、予想以上に煙の充満が脅威となった。

「っ!!」

 迫る炎よりも、呼吸の苦しさに死の足音が近づいているのを感じた。

 密閉された小屋内には、煙の逃げ場が一切なかった。空気の逃げ口を作らないと……!

 慌てて周囲を見回す。

 ……なにか、なにか棒のような物はない!?

 私が背中を預けていた壁の高い位置に明り取りのガラスが嵌まっているのは知っていたのだが、園芸道具も含めて小屋内のほとんどが炎に巻かれてしまった今となっては、それを破る手段がなかった。

 ここまでなのか……。諦めかけたその時、私の胸に一筋の明光が差した。

 ……あるじゃない。

 棒はないけれど、銀細工ならここにある! 遠心力をつけて放り投げれば、硬い銀細工は更に重さと威力を増し、ガラス窓を打ち破ってくれるだろう!

 セラヴィンさんから貰った大切なお守りを放る事に躊躇はなかった。これは、セラヴィンさんが私の守りになるようにと願って渡してくれたお守りだ。

 だからセラヴィンさんは、私がこのお守りを懐に抱いたまま焼け死ぬ事など望まない――!

 私は首からペンダントを外すと、最後の力を振り絞ってガラス窓に向かって放った。

 ――ガッシャーンッッ!!

 頭上でガラスの割れる音が響く。目論み通り、銀細工はガラスを破り、小屋の外へ飛び出した。

 黒々とした煙が、破れた窓から外に流れていく。手巾越しにも、ほんの少し呼吸がしやすくなったのを感じた。

 ……よかった。これで少し、希望が繋がった。

 けれど空気の逃げ口が作れた一方で、私の消耗も激しかった。私はズルズルと壁伝いに、床へと倒れ込んだ。

 朦朧とする意識の中で、私は今の自分の状況がよく分からなくなっていた。

 ……ここはどこ? 私は一体、どうしたんだっけ?

『もういいかーい』

 ふと、脳裏に懐かしいお父さんの声が響いた。

 ……あぁ、そうか。私はお父さんのガラス工房を訪ねて、一緒にかくれんぼをしてたんだ。

 お父さん、早く私を見つけてよ? 私はここにいるよ。

 すると願いが通じたのか、私の前にスッと手が差し伸ばされる。

 私は嬉々としてその手を掴む。

 ……え? だけど掴んだ手は、想像した大きくて温かな父の手ではなく、氷のように冷たかった。

 咄嗟に引こうとしたけれど、私の手が離される事はない。

『お前は本来、あの時に死ぬべきだったの』

 驚いて見上げる私に、死神が囁く。

『今度こそ、お前の番よ』

 死神が私に向かい艶然と微笑む。私は縫い止められたみたいに死神を見つめていた。

 ……死神は、お母様の姿をしていた。

 ――ドォォオオーンッ!

 大きな爆発音を聞いたのが最後。私の意識は完全に沈んだ――。




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