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***



 毒物混入の発覚直後から、王宮は外部との人や物、情報といった全てのやり取りを中止し、事実上の封鎖状態になった。それは妃教育を担う教師も例外ではなく、状況が落ち着くまでの数日間、私の授業も中止が決まった。

「リリア様、授業の中止はいい機会よ。リリア様はここまで連日休みなしで励んで来たから、少し羽を伸ばしてゆっくりしろと、きっと天からの啓示だわね」

 朝から同室に控えてくれているゴードン伯爵夫人が、柔らかな笑みを浮かべて言った。

「決して休みなしという訳ではありませんでしたが……。だけどそうですね、日中にこんなふうに自由な時間を過ごすのは、確かに久しぶりです」

 ゴードン伯爵夫人は毒物混入が発覚した当時、王宮内の居室にいた。その為、事件以降もそのまま王宮内にとどまっていた。

 護身術にも明るいゴードン伯爵夫人は、まるで私を守ろうとでもいうように、多くの時間を私の側で過ごしてくれていた。授業以外でも親しく交流させてもらい、気の置けない関係のゴードン伯爵夫人が侍女に代わって同室に控えてくれる事は、私にとってもとてもありがたい事だった。

「よかったら人気の物語本など持ってきましょうか?」

「……いえ、せっかくですが物語はまたの機会にします」

 僅かな逡巡の後、私はゴードン伯爵夫人の申し出に首を横に振った。

「それじゃあリリア様、私は奥で刺繍を刺しているわね。もし何か入用の物などあれば、遠慮なく言ってちょうだいね」

「はい、ありがとうございます」

 ゴードン伯爵夫人が刺繍道具一式の入ったバスケットを手に奥のソファに向かうと、私はおもむろに文机に足を向けた。

 そうして文机の椅子に腰掛けると、引き出しから便箋を取り出して、ペンを取った。

 手紙の相手はスコット子爵夫人だ。

 デルデ公国を出る時に約束した通り、スコット子爵夫人とは定期的に手紙のやり取りを続けている。したためる内容は日々の暮らしに関する事がほとんどで、たまにはお妃教育に対して泣き言を漏らしてみる事もあった。

 今日の手紙は時節の挨拶から書き始め、一番にスコット子爵夫人のその後の体調を問う。二週間前にもらった手紙の中で、スコット子爵夫人は少しだけ風邪気味だと書いてあった。二週間が経って、良くなっているといいのだけれど……。

 そうして、いつも通り終盤に差し掛かってきたお妃教育の事など、近況を書き綴れば、便箋一枚があっという間に文字で埋まる。

 特別に伝えたい事、相談したい事がなければ、普段はこれで手紙を締めくくる事が多かった。

 けれど今日は、迷わずに便箋の二枚目を取り出す。私は、スコット子爵夫人に聞いてもらいたかったのだ……。

 再び右手にペンを握る。

 しかし、いざ書き出そうとするとペンを持つ手が止まった。私は一旦ペンを置くと、そっと目を閉じてホゥっと大きく一息ついた。

 そうして瞼を開くとペンを取り、私はゆっくりと綴り始めた。心の奥底に重く堆積していた、七歳の夏の記憶を――。


◇◇◇


 うららかな昼下がり。

「ごちそうさまでした! 私、ちょっと工房に行ってくるねー!」

 母と昼食を食べ終えると早々に、私はピョンっと席を立った。

「リリア! お父さん達のお仕事の邪魔をしては駄目よ!」

 駆け出そうとする私の背中に、母が声を張った。

「しないよ! お昼の休憩が終わったら、ちゃんと帰って来るよ!」

 私は振り返って答えると、今度こそ屋敷を飛び出した。

 私が向かうのは、屋敷から通り一本挟んだ場所にあるお祖父ちゃんのガラス工房だ。

 工房では、お祖父ちゃんとお父さんがガラス窓やガラス戸といった大口のガラス製品の作製を請け負う。工房に併設している売店では、お祖母ちゃんが受注業務の傍ら、トンボ玉のアクセサリーを始め、細々としたガラス小物を販売していた。

 三人はいつも、昼食はランチボックスを持参して工房で食べる。そうして昼食後は、小一時間ほど休憩を取ってから、午後の作業を始めるのが習慣となっていた。

「お父さーん!」

 私が狙うのは、そのお父さんの休憩時間だ。

「お、リリアか! 今日も来たのか?」

 私が工房の入口から顔を出せば、三人はちょうど昼食を食べ終えて、空のランチボックスを纏めているところだった。

 私に気付いたお父さんは満面の笑みで歩み寄り、大きな手で私の頭をワシャワシャと撫でた。

「うんっ! ねぇお父さん、かくれんぼをしよう!?」

 私は優しいお父さんと、お父さんから貰うこの”ワシャワシャ”が大好きだった。

「よし、それじゃあ最初はお父さんが鬼だ」

「うんっ!」

 お父さんは私を見つけた時、最初に大きな手でトンッと頭を撫でてくれる。だからかくれんぼは、私の気に入りの遊びだった。

「もういいかーい?」

 お父さんとのかくれんぼは、あらかじめ隠れる範囲が工房と売店の家屋、そうして敷地内の小さな雑木林の中と決まっている。

「まーだだよ!」

 幾度か問答を繰り返しながら、私は今日は工房二階の資材置き場に身を隠す事にした。雑多と物が置かれた工房の二階は、小さな私が身を隠すには打って付けだ。私は数日前に隠れた時よりも更に奥、壁と資材の隙間に背中を丸めて身を潜めた。

 ……ふふふ、これならなかなか見つからないはず!

 案の定、なかなかお父さんは現れなかった。

 ……あれ、なんだろう? 窓の外が少し、騒がしい?

 湖沼地帯のこの街は、いつも穏やかな時間が流れ、喧騒とは対極にあった。窓越しに、遠く聞こえてくる喧騒に、私は首を捻った。

 ――ガッシャーンッッ! ガシャンッ!!

「っ!?」

 階下から盛大な破壊音が響き、直後に、階下から私のいる二階へと熱風が吹きあがる。

「……っ! ……ゥ、グッ!」

 吸い込んだ空気の熱さと煙さに、一瞬で呼吸苦に陥るが、私には何が起こっているのか、何故自分が苦しいのかまるで分らなかった。

 苦しさからギュッと瞼を瞑り、背中を丸めて咳き込んだ。

「ケホッ! ……ッ、ゴホッ」

 涙を滲ませながら薄く瞼を開いた時、周囲は完全に煙に包まれてしまっていた。

 ……逃げなきゃ!

 来た道へと一歩を踏み出しかけて、足を止める。

 ……ううん。下から熱風が来たから階段は駄目……、窓だっ!!

 私は視界のままならない中で、壁伝いに窓を目指した。

 ――ガラン、ガラーン。

 その時、街の集会所に設えられた緊急事態を報せる鐘がけたたましく鳴り響く。その存在は知っていても、私が実際に鐘の音を聞いたのは初めてだった。

「緊急避難! 緊急避難!! 全街民に告げる、王弟殿下率いる軍が我が街に炎を放ち、街は戦火に巻かれている! 全街民、緊急避難せよ!」

 鐘の音に続き、集会所に設置されている大型拡声器で、緊急避難を促す街長の声が切れ切れに聞こえてきた。

「街長お早く! この集会所もまもなく炎がっ……、ぅ、うぁああああっっ――」

 街長の言葉の後に割って入った副街長の声は不穏に途切れた。その後、拡声器から二人の声は流れなかった。同様に鐘が鳴り響く事もない。

 嫌でも理解せざるを得なかった。

 なにより実際には見なくとも、脳裏には街長と副街長の最期がありありと浮かぶ。脳裏に映し出された光景に、苦しさとは別の涙が溢れ、頬を伝っていくのを感じた。

 けれど、その最期は決して他人ごとでは済まされない。涙で滲む私の視界は、煙の灰色と、階下から燃え上がる炎の赤の二色で塗りつぶされていた。梱包用資材など可燃性の物が多く保管されていたのが災いした。階段から上ってきた真っ赤な炎は、瞬く間に燃え広がって奥の私へと迫る。

「きゃああっ!」

 炎はあらゆる物を巻き込んで、赤く大きく燃え盛る。高く燃え上がる炎は、天井にも燃え広がって這うように進む。

 その時、私の手がついに窓枠を捉える。

 ――ギシッッ!

 直後、頭上から不穏な物音が響く。

 反射的に見上げれば、燃え滾った天井の梁が、頭上に崩れ落ちてくるのを、スローモーションに見た。

「っ!!」

 私は死を覚悟して、目を閉じた。

 ――ガッシャーンッ。

 梁の落下音が響き、大きな衝撃が体を襲った。強く何かに叩きつけられて、体が弾む。

「ゔっ!!」

 不思議な事に、痛みはなかった。

 私は本気で、死んだ事で痛覚を手放したのだろうと思った。だけど瞼越しに眩しさを感じ、ほんの少し力を入れた。そうすれば二度と開かないと思っていた瞼は、予想に反して開く。

「っ、お父さんっ!?」

 ところが、開いた目に飛び込んだ光景は、自らの死よりも辛い現実を容赦なく私に突きつける。

 私は工房の裏庭にいた。地面を背中にして、仰向けに転がるお父さんの懐に抱かれていた。

 そのお父さんが真っ赤だった。

 私は弾かれたように、お父さんの上から地面に転がり下りた。

「……リリア」

「お父さんっ!!」

 お父さんの作業着は大きな掻き傷で前身ごろがパックリと割け、袖は焼け落ちてなかった。僅かに残る煤だらけの作業着から覗く素肌は、どこもかしこも見るも無残に焼けただれていた。

 お父さんの肌という肌が、真っ赤だった。

 だけど、肌よりなにより、横たわるお父さんの後頭部から流れる鮮血が地面を赤く染めていく。

「……君の柔らかな巻き毛が窓から見えたよ。外壁を登り切り、窓から君を引き出したのは、本当に危機一髪のタイミングだった。もっとも、あまりにもギリギリで壁を伝い下りる間はなく、こうして飛び降りるしかなかったわけだけれど……。僕の大切なリリア、君を助けられて良かった」

 お父さんはいつもみたいに、大きな手で私の頭をクシャリと撫でた。

 けれどお父さんの手は、私の頭をひと撫でだけしたところで、力なくパタンと地面に落ちた。

「や、やだっ!? お父さん!!」

 私は必死にお父さんに縋った。

「……リリア、聞いてくれ」

 お父さんは取り乱す私に向かい、最後の力を振り絞るように告げる。その声はところどころ掠れ、とても聞きにくい。

 だけど私はお父さんの手を握り締め、一言一句聞き漏らさんと耳を傾ける。

「残念だけど僕は君の成長を見届ける事は難しいようだ。だけどおかげで、将来君を横から奪っていく夫君の顔は見ずに済みそうだ」

「……いやだよ、お父さん。そんな事、言わないでっ」

 呼気と共に父の喉から漏れる、ヒューヒューという音が、命の期限を否応なしに予感させる。

 命を削るみたいにして紡がれるお父さんの言葉は、これ以上聞いているのが辛かった。

「強く、そして優しい女性におなりよ。リリア、どうか幸せに」

「お父さん、分かった。だからもう……」

 固く手を握って訴えたけれど、お父さんは首を横に振り、更に言葉を続けようとした。

「……それからリリア、どうかマルグリットを、お母さんを助けてやってくれ」

 この段になれば、ヒューヒューと不快な音は、お父さんの声よりも大きく響く。私はお父さんの命の灯が、消えかけているのを感じた。

 だけどお母さんの名前を口にするお父さんの瞳は、強く光を弾いて輝く。

「彼女は厳格な両親の下で、愛を知らず、孤独に育った。そうして出会った僕を、彼女は妄信的に愛してくれた。僕を失って、きっと彼女は苦しむから。だからどうか、お母さんの助けになってやってくれ……」

 お父さんは言い切ると、それっきりもう二度と言葉を発しなかった。ヒューヒューという不快な音ももうしない。その瞳も、もう光は弾かなかった。

 私は物言わぬ父の骸に縋り、狂ったように泣いた。やがて私も、父の骸に折り重なるようにして意識を失くした。

 次に目覚めた時、私はデルデ公国のお母様の実家にいた。そうしてお母様から掛けられたのが、あの言葉……。

『どうしてあの人がお前を助けて死ななければならかったの? 私の大切なあの人を返してよ、この人殺し』


◇◇◇


 喉の奥が締め付けられたように詰まり、息苦しさから目を見開いた。



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