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「リリア」

 セラヴィンさんが抱き締める腕を緩め、少し隙間を作って上から私を覗き込む。

 私とセラヴィンさんの目線が絡んだ。真っ直ぐに私を見つめる瞳の強さに、ドキリとした。

「今の言葉は軽口や冗談ではない。俺の紛う事無い本音はそれだ」

 頬にカッと朱がのぼる。この瞬間、私は不謹慎にも喜びを感じていた。

 命を狙われる恐怖すら凌駕して、セラヴィンさんの愛が、私を溢れるほどの幸福で包み込む。

「……とはいえ、俺の状況がそれを許してはくれんのだがな。名残惜しいが、そろそろ現場検証に向かわねばならん」

 セラヴィンさんは心底残念そうに、ホウッと小さく溜息を吐いた。

「セラヴィンさん、私はもう大丈夫です。だからどうぞ、戻ってください。皆さんが、セラヴィンさんの指示を待っていますから」

 セラヴィンさんの愛に触れて、私の心はすっかり綻んでいた。だから今度は、私がセラヴィンさんの大きな背中を抱き締めて、トントンッと優しく撫でて伝えた。

 私達は柔らかに抱き合って、互いの温もりを分けた。しばらくして、セラヴィンさんが惜しむように抱擁を解いた。

 ところが、腕を解いてもセラヴィンさんはすぐに扉に向かおうとはせず、おもむろに自身の襟元を探り始めた。

「リリア、君にこれを」

 セラヴィンさんが首から外して差し出したのは、トップに銀細工が下がったペンダントだった。

「ペンダントですか……?」

 両手で受け取ったペンダントは、かなりの重さがあった。それもそのはず、トップに下がる円形の銀細工は、ただの飾りにしては随分と大きかった。

 その銀細工に、小さな取っ掛かりがあるのに気付く。

「……いえ、もしかしてこれは、中に何か入れていますか?」

 おそらくこの銀細工は物入れになっていて、ここから開くようになっているのだ。

「あぁ、とても大切なものを入れている。これは俺にとって、何よりも強力なお守りだ。これのおかげで、今の俺がある。だからこれを、今度は君がお守りとして持っていてくれ」

 取っ掛かりに爪先を掛け、今まさに開けようとしていた私は、セラヴィンさんの言葉で銀細工からそっと手を離した。

「……開けんのか?」

 セラヴィンさんは、少しだけ驚いたように私を見た。セラヴィンさんの先の言葉は、けっして中を見るのを止める意図で語られたものではない。

 だけど私に、開ける意思が無くなった。

 お守りの中身を知ろうとするのが無粋に感じたのもあるが、それ以上に、中身を知る事が私にとってさほど重要ではなくなったからだ。

「見なくとも十分に伝わります。これにはセラヴィンさんの思いがいっぱいに詰まっている。……なによりの、お守りです」

 私は大切なお守りをキュッと胸元で抱き締めた。セラヴィンさんは眩しそうに目を細め、私を見つめていた。

「……リリア、君という人はどこまでも清らかで、そして温かいな」

 セラヴィンさんはそう言うと、私の手からそっとペンダントを取り上げて首に掛ける。

「リリア、名残惜しいが行ってくる。夕食はまた一緒に取ろう」

「っ」

 セラヴィンさんは唇に触れるだけのキスを残し、足早に扉に向かう。

「カエラ、後を頼んだ」

「かしこまりました」

 セラヴィンさんは控えていたカエラ女官長に言い残すと、今度こそ部屋を後にした。

 パタンと扉が閉まり、セラヴィンさんの足音と気配が遠ざかる。すると直後、私の体がカタカタと震え出す。

 ……私を殺したいと考える、誰かがいる。

 セラヴィンさんの腕の中で、一度は遠ざけた思考だった。セラヴィンさんの腕の中にいる時は抑えられていた不安や恐怖。セラヴィンさんがいなくなり、抑えていたそれらの感情がじわじわと溢れ出すのを感じていた。

『どうしてあの人がお前を助けて死ななければならかったの? 私の大切なあの人を返してよ、この人殺し』

 突如、脳内に響き渡ったお母様の怨嗟の声に、ズンッと胸を撃ち抜かれたような衝撃が走る。

 ……いいや。もしかすると私は命を狙われる以前に、そもそも今、こうして生きている事自体がおかしいのだろうか?

 不安や恐怖といった負の感情が及ぼす作用は大きく、じわじわと健全な心を蝕む。それらは容赦なく、私をかつての記憶の彼方へと引き摺り込む……。

 ……だって、お父さんの遺言すら守れずに、お母様を不幸にしたまま私が生きているのはおかしい――。

 ――トクン!

 その時、胸に下がるペンダントに、ふいに温かな熱が灯ったように感じた。

 私はハッと、弾かれたように胸元のペンダントを握り締めた。不思議な事に無機質な銀細工は、確かに私の胸に温もりを伝えたのだ。

 ……あぁ、違う! こんなのはただの妄念だ!

 私はセラヴィンさんに貰ったペンダントを固く握り締め、弱い己の心を打ち払うかのようにきつく前を見据えた。

 そうしてしばらく握り締めた後そっと手を解くと、私はトップの銀細工ごとペンダントをドレスの襟の中にしまった。セラヴィンさんのお守りは、寸分の違和感もなく素肌に馴染み、スッと私の胸に落ち着いた。

 ドレスの上から触れてみれば、扉の向こうに消えたはずのセラヴィンさんの温もりを感じた。

 セラヴィンさんとの一体感が、深い安堵を生む。

 ……セラヴィンさん、ありがとうございます。このお守りに、さっそく守ってもらいました。

 私はホッとひと息吐くと、疲れ切った体を力なくソファに沈めた。



***



 リリアの部屋を出た俺は、近衛隊長らと合流し、厨房内の現場保持と検証の指揮を執った。

 調理と配膳に関わった職員は、既に厨房に併設する職員控室に集められていた。俺はその中で、一人の給仕係の動向を注視していた。

「近衛隊長」

 俺は声を低くして近衛隊長を呼びつけた。

「配膳ワゴンで料理を運んだ給仕係の男から目を離すな。それから、奴のボディチェック、聴取は慎重にあたれ」

「はっ」

 近衛隊長は俺の指示に驚いた様子を見せなかった。ここまで共に数々の修羅場を切り抜けてきた近衛隊長も、男に対して感じるところがあったようだった。

 俺は不審な言動をする者がいないか、近衛による聴取の進捗を注意深く見守った。

「……セラヴィン様、給仕係の男のボディチェックと聴取が終了いたしました。所持品からは何もそれらしい物は検出されませんでした。聴取に関しても同様です」

「そうか。……引き続き、男の動きを注意深く監視しろ」

「はっ」

 近衛隊長からの報告を受けながら、しかし俺にはどうしても男が白とは思えなかった。

 ――ポーン、ポーン。

 振り子時計が時報を告げる。

 気付けば、事件のあった昼からあっという間に夕刻になっていた。

「セラヴィン様、使用人用の厨房から報せがありました。二名分の夕食が別室に整い、既にリリア様にもお伝えさせていただきました」

「そうか、すぐに向かおう。ご苦労だった」

 俺は現場の指揮を近衛隊長に任せ、リリアが待つ夕食の席に向かった。



「セラヴィンさん、お疲れ様です」

 俺が夕食場所に指定していた応接室に行くと、リリアは既に席に着き俺を待ち構えていた。

「すまん、待たせてしまったか」

「いえ、ちょうど今きたところです」

 俺が席に着くとすぐに料理が運ばれてきた。目の前に置かれた料理は、想像よりも随分と凝って見えた。

「なんだ、使用人らと同じで構わんと言っておいたはずだが?」

 厨房を現場検証で封鎖したため、今日の俺達の夕食は急遽使用人用の厨房で調理される事になった。俺はあらかじめ、人手の足りない状況で手間を掛けさせぬよう、使用人らと同じメニューでいいと伝えていた。

「食材自体は同じでございます。ただ、食べやすいようにと、料理長が盛り付けに少々アレンジを加えたようでございます」

 給仕の女官に問えば、女官はほんの一瞬だけリリアに労しい目を向けて続けた。

 ……なるほど。同じ食材も、このようにハーブやスパイスを多用して盛り付けると随分と目に楽しい。

 華やかな料理で少しでも食が進みやすいようにとの、料理長の心遣いに違いなかった。

「そうだったか、料理長に礼を伝えておいてくれ」

「本当に綺麗で、食べるのがもったいないくらいです。私からも、よろしくお伝えください」

 リリアはそう言って、微笑んでフォークとナイフを手に取った。

 ところが、リリアの食の進みはやはり目に見えて鈍かった。そしてついに、リリアは口元を押さえ、フォークとナイフを置いてしまった。

 ほんの数時間前に、料理に致死性の毒が仕込まれていたのだから無理もない事とは思いつつ、俺はリリアが心配でならなかった。

 ……こうも食が細くては体が持たない。

 俺はおもむろに自分の皿のサーモンのムニエルを一口大に切ると、フォークにのせてリリアの口元に差し出した。

「リリア、バターで香ばしく焼き上がって美味い」

 リリアは目の前に差し出されたフォークを見つめ、キョトンと目を丸くした。

「これは是非とも食べておかないともったいないぞ。なにせこれは、かつて俺が逃亡生活中に惚れ込んだスープに勝るとも劣らない、いい味なんだ。どうだ、味だけでも確かめてみないか?」

 俺が努めて明るく言えば、リリアはクシャリと笑った。

「ふふふっ。それは是非、味わっておかないともったいないですね」

 そうして意を決したようにゆっくりとフォークに唇を寄せる。

 そのままパクリと頬張って、ゆっくりと噛みしめる。

 俺の手からリリアが食事を口にする。たったこれだけの事が、俺をそわそわと落ち着かなくさせる。妙に、俺の心を高揚させた。

「……ほんとう。香ばしくて、美味しいです」

 リリアがコクリと嚥下して、俺に向かって笑う。

「そうか! よし、もっと食べろ」

「え!? い、いえ! 私、自分で食べられますから」

 更にムニエルを取り分けようとする俺に、リリアが少し慌てた様子で待ったを掛ける。

「そうか」

 俺は切り分ける手を止めながら、内心で少し残念に感じていた。

 リリアはそんな俺を横目に、さっそく自分の手にナイフとフォークを握ると、丁寧にムニエルを切り分けて口に運ぶ。

 それを見れば俺の心もすっかりと軽くなり、自分の食事を再開させた。

「……不思議ですね、料理は確かに美味しいです。だけどさっき、あんなにも美味しいと感じたのは、もしかしたらセラヴィンさんの手ずから食べさせてもらったからかもしれません」

 料理を飲み込んで、リリアがポツリと小さく零す。

 リリアの呟きは、否応なしに俺の胸を熱くした。

「やはり俺が食べさせてやる! なに、遠慮はいらんぞ。ほらリリア、あーんだ」

 俺は、今まさに口にしようとしていたフォークをリリアに向かって差し出す。ムニエルを手に再び身を乗り出してみせる俺に、リリアは両腕を突っぱねて、首を横に振る。

「ちょ、セラヴィンさん!? 小さい子供じゃあるまいし恥ずかしいですから! もう、セラヴィンさんってば揶揄って……」

 リリアがクスクスと可愛らしく笑いながら、頬を膨らませる真似をする。そんな些細な仕草が苦しいくらいに可愛い。

「別に揶揄ったわけではないのだがな……」

 リリアの拒否を受け、しぶしぶ手を引っ込めながら呟いた。何故なら、俺はリリアが望むなら、全ての料理を喜んで手ずからリリアの口に運ぶのだから。

 しかしこれ以降、俺が手を出さずともリリアの食欲はすっかり回復した。リリアはメインの皿を綺麗にたいらげ、最後のデザートまでを完食した。

「セラヴィンさん、ありがとうございます」

 食後のコーヒーを飲んでいると、リリアが唐突に口にした。

「何の事だ?」

「食事です。本当を言うと、食べる事が怖かったんです。少しでもお昼の一件に考えがいってしまうと、全然食欲も湧かなくて……。きっと、ただ食べろって言われていたら、食べられませんでした。だけどセラヴィンさんはそうじゃなかった。……セラヴィンさんのおかげで食べられました」

「……そうだったか。だがリリア、難しいとは思うが、食事に関し必要以上に神経質にならないで大丈夫だ。相互監視の仕組みを整え、安全管理の徹底を図った。昼食のような事態はもう起こらん。それでももし、昼間の事を思い出して食べられないと思ったら、無理に食わんでいい。その代わり、次の食事には必ず俺を誘ってくれ。また俺と一緒に食おう。なに、また俺がいくらだって食わせてやるさ」

「ふふっ、そうですね。それじゃあ、遠慮なく誘わせてもらいます。ただし、私がセラヴィンさんを誘う時は、セラヴィンさんが政務に集中するあまり食事を忘れている時です。だって私、もう食事に怖さはないんです。きっと、セラヴィンさんが大丈夫って言ってくれたからですね」

 リリアがはにかんだ笑みで答えた。

 その笑みのあまりの眩さに、そっと目を細くした。

 けれど、その笑みが眩ければ眩いほど、俺の胸には苦い物が広がる。この笑みに影を差す辛い現実が、どうかこれ以上降りかかってくれるなと、今はリリアの胸に移ったお守りに願わずにはいられなかった。





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