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食堂に着いた時には、既に食卓に二名分のカトラリーが用意されていた。私とセラヴィンさんは各々、用意された席に着いた。
「失礼いたします」
私達の着席を見計らい、さっそく給仕係が前菜を手にやって来る。
私はこんなふうに一品ずつ順序立てて供される料理の存在を、七歳まで知らなかった。お母様の実家の伯爵家で初めて提供を受けた時、私はその豪華さに驚くよりも、その窮屈さに辟易した。「あれは駄目」「これは駄目」厳しい祖母の叱責を受けながら取る豪華な料理を、私はこれっぽっちも美味しいとは思わなかった。なにより、そんな状況で取る食事は、まるっきり食べた気がしないのだ。
不思議な事に、すっかりマナーが身についてからも、この感覚にあまり変化はなかった。もっとも今では、前菜から順番に供される料理の真意は腹を満たす事ではなく、それ自体が社交なのだと理解している。要するに、時間を掛けてゆっくりといただく昼餐や晩餐というのは、長い時間をかけて会話を楽しむための興なのだ。
「やはり、こういった堅苦しいのは馴染まんな。たしかに味は良いのだが、食った気がしないのが不思議なところだ」
向かいから聞こえた台詞に、フォークとナイフを持つ手が止まった。一瞬、私の心が声になったのかと危ぶんだ。
それくらい、セラヴィンさんが語った言葉は、私の心をそのままに反映していた。
「……驚きました。だけど、なんだか少し意外です」
「そうか?」
「はい。だってセラヴィンさんは、そもそもの生まれからして高貴です。すっかりこういった料理に馴染みきっているものだと思っていました」
「父が存命の時分、そういった暮らしに当たり前に身を置いていた事は事実だ。だが、九つの頃からの逃亡生活では、満足に食料が調達できず、草の根を噛んで凌いだ事もあったのだ。そんな逃亡生活にあって、潤沢な量の温かいスープはなによりのご馳走だった。そして、そのスープはどんな美食も及ばぬほど舌に甘く、臓腑に染み渡った」
セラヴィンさんは懐古に目を細め、ゆっくりとした口調で語った。
「どうやら俺は、九年の逃亡生活ですっかり粗食が馴染みきったようだな」
セラヴィンさんは苦笑と共に、こう締めくくった。
私もかつて、空腹にキリキリと痛む胃腑を抑えながら、トンボ玉をしゃぶってみた事もある。だけど少なくとも、私は命の危険に怯えて過ごす状況ではなかった。
私は本当の意味で、セラヴィンさんが過ごした九年にも及ぶ逃亡生活の苦しさを理解する事は出来ない。
それでも、血の繋がった叔父さんに父兄を殺されて自らも命を狙われながら、九年もの逃避行に身を窶す……。セラヴィンさんの苦しみを思えば、目に熱い物が滲んだ。
「セラヴィンさん、私はこれまでずっと神様を恨みながら生きてきました。状況の苦しさに、神様の所業を恨みました。……だけど今、私は神様に感謝してもしきれません。セラヴィンさんを生き永らえさせてくれた神様に、私は今、心からの感謝を捧げたいです」
眦で極限まで膨らんだ涙が、ホロリと零れ落ちる。私は慌てて俯いて、手の甲でそっと拭った。
すると、頭の上にポンッと温かな手の感触が落ちる。
ハッとして見上げれば、いつの間にかセラヴィンさんが私の横に立っていた。セラヴィンさんは蕩けるように優しい笑みを浮かべ、私を見つめていた。
頭頂に置かれたセラヴィンさんの手が、こめかみから頬をゆっくりと撫でる。そうして手のひらで優しく頬を包み込むと、その指先で涙をそっと拭う。
「リリア、君はどこまでも清らかで温かい」
セラヴィンさんの指は、反対の目元もそっと拭って、ゆっくりと離れる。
「リリアといると、まるで俺という存在までが清らかに洗い流されていくような心地がする。……真の救いは実体のない神ではない。君という存在が、俺を生かす。君の存在が、俺をこの場所まで導いたんだ」
「セラヴィンさん……」
温かな腕が回されて、広い胸にすっぽりと抱き締められる。私はセラヴィンさんの腕の中、しばしその温もりに身を預けた。
「……ずっとこうしていたいところだが、仕方ない」
セラヴィンさんは、扉の方向にチラリと目線を向けると、吐息とともに小さく零した。
「飯にするか。いつまでも給仕の者を扉の向こう側で立たせておくのも気の毒だ」
え? セラヴィンさんの言葉を怪訝に思い、その目線の先を辿る。
見れば食堂の入口で、給仕係と思しき数名が、所在なさげにこちらに背中を向けて立っていた。
「っ! セラヴィンさん、せっかくのお料理が冷めてしまう前に食べましょう! きっとそろそろ、メインがきますよ!」
弾かれたようにセラヴィンさんの腕から脱すると、私はこれ見よがしな咳ばらいの後、わざと声を大きくした。
セラヴィンさんは私の行動にクツクツと肩を揺らしながら、最後にトンッとひとつ私の頭を撫でて向かいの席に戻っていった。
「そうだな。せっかくの料理だ。温かい内に食うとしよう」
セラヴィンさんが席に着けば、訓練された王宮の使用人らは、何事もなかったかのように給仕を再開させた。
目の前に供されたメインのお皿。綺麗に盛り付けられた柔らかそうなお肉を前にしても、私の心は浮き立たない。
セラヴィンさんは「ずっとこうしていたい」と、そう言った。だけど本当は、私こそがそれを望んでいたのだ。セラヴィンさんがくれる優しい抱擁の方が、何倍も私の心を有頂天にさせる……。
「リリア! 料理に手を付けるな!!」
セラヴィンさんが突然、肉の刺さったフォークを放り出し、私に向かって叫んだ。
その声の鋭さに、私のフォークを持つ手がビクンと跳ねる。
驚いてセラヴィンさんを見れば、怖いくらいに真剣なブルーグリーンの瞳とぶつかる。私はギシギシと軋むような動きで、今まさに口に運ぼうとしていたフォークを置いた。
セラヴィンさんは力強く頷いて、足早に入口に向かった。
「全員、その場を動くな!! 近衛兵、至急厨房に向かい、全ての作業を中断させろ!! 現場は一切手を加えずに、保存せよ!!」
セラヴィンさんは配備についていた近衛兵に向かって鋭い指示を飛ばす。
「陛下、一体何事でございましょう!?」
騒ぎを聞きつけて、近衛隊長がセラヴィンさんの元に駆けつけた。近衛隊長を皮切りに、王宮幹部らも、続々と食堂に集まってくる。
私は突然の事態に、まるで理解が追いついていなかった。セラヴィンさんを中心とした幹部らの人だかりが段々と膨れていくのを、茫然と眺めていた。
人だかりの中では、セラヴィンさんを中心に何か話し合いがされているようだった。
「リリア」
人だかりが割れて、セラヴィンさんが私の前に進み出る。
「あの、一体なにがあったんですか?」
「メイン料理の肉に毒が盛られていた。舌先に触れた肉から、微かに毒特有の刺激を感じた。かつて俺が馴らした致死性の毒に間違いない」
……毒!? 喉の奥がヒュッと小さく鳴った。
「セラヴィンさんは大丈夫なんですか!? 苦しかったりはしませんか!?」
私はセラヴィンさんの腕を掴み、その目を見上げて矢継ぎ早に問いかけた。直接毒を舐めてしまったセラヴィンさんの体調が心配でならなかった。
「心配いらん、俺にとってこの程度の毒はまるで問題にならん」
「よかった! セラヴィンさんに何事もなくてよかった!」
セラヴィンさんの答えに、私は胸を撫で下ろした。
「っ!?」
その次の瞬間、私はセラヴィンさんの懐に抱かれていた。近衛隊長や王宮幹部らをはじめ、今は先ほどとは比較にならない多くの人が食堂にひしめいてたけれど、セラヴィンさんは憚らず私を抱き締めて離さない。
「リリア、それは俺の台詞だ。君が無事で本当によかった。俺が気付いたからよかったようなものの、あのままリリアが口にしていれば……」
セラヴィンさんはあえてその先を続けなかった。だけど聞かされずとも、続く言葉は明白だった。
セラヴィンさんの声があと一瞬でも遅れていたら、私は……っ!
ぞわりとした恐怖に背筋が凍る。心臓が、断末魔の悲鳴みたいにけたたましく打ち付けていた。
「リリアっ!」
セラヴィンさんが私を抱く腕に力を篭める。私はギュッと逞しい胸に縋った。
「……でも、セラヴィンさんが毒に体を慣らしていたのが不幸中の幸いでした。犯人は、それを知らなかったようですが……。とにかくセラヴィンさんに何事もなくて、本当によかったです」
私はセラヴィンさんの胸の鼓動を聞きながら、あえてその先を考える事を放棄した。今はただ、セラヴィンさんが無事だった一点に感謝した。
けれど私の言葉に、セラヴィンさんは重く押し黙ったまま答えない。
「セラヴィンさん? どうかしましたか?」
「……リリア、ここは現場保持のために封鎖する。いったん、部屋に場所を移そう」
セラヴィンさんは近衛隊長に目配せすると、私の肩に手を添えてそっと促す。
「あ、はい……」
セラヴィンさんはまるで、私を懐に守ろうとでもいうように、肩を抱く手にギュッと力を篭めた。
私はセラヴィンさんに半ば抱き込まれるような恰好で食堂を後にした。
「リリア、聞いてくれ。この犯行は俺を害する意図でなされたものではない。おそらく今回の犯行で狙われたのはリリア、君だ」
自室に戻り、しっかりと扉を閉じた後に、もたらされたセラヴィンさんの第一声。
「私が……っ!?」
予想だにしないセラヴィンさんの言葉に驚き、呼吸の仕方を忘れた。
なんでかは分からない。だけど私は、自分が命を狙われるという現実にまるで思い至っていなかったのだ。
それはもしかすれば、一カ月後に迫る立后に対し、私の中でまだ認識の甘さがあったのかもしれないし、覚悟と自覚が伴っていなかったのかもしれない。
とにかく、私の想像力が足りなかった事は間違いなかった。
「……そうだったんですね」
けれど、こんな事は少し冷静な頭で考えればすぐに分かる。あの料理は、そもそも私の昼食を想定して作られたものなのだ。セラヴィンさんは、たまたま同席したに過ぎない。
ならば、狙われたのは私だ……。
「どうして私は考え至らなかったんでしょうね。冷静に考えれば、平民出身の私とセラヴィンさんの結婚を快く思わない人がいるのは当然ですよね」
「……果たしてそうだろうか」
「え?」
ところが、セラヴィンさんは私の見解に眉間に皺を寄せ、考え込む素振りを見せた。
「我が国は貴族至上主義のデルデ公国とは違う。歴史を紐解けば、王族にも過去に数人、民間出の妃がいる。もちろん形式的には一旦養子の形を取り、身分を整えて嫁いでいるが、王宮に近しい者ならばそんな事は周知だ。今更民間出身の妃が一人増えたところで目くじらを立てる者がいるとも思えん」
実はセラヴィンさんとの婚姻にあたり、あくまで形式上ではあるが、私も一ヵ月ほど前にゴードン伯爵家の養子となっている。
同様にセラヴィンさんからは、ニルベルグ王国が身分に割りあい寛容である事、前述のように過去には民間出身の妃も存在する事も聞かされていた。
「……とにかく、今はまだ状況がなにも掴めていない状態だ。少し窮屈に感じるかもしれんが、リリアの身辺警護を徹底する。必ず俺や侍女、護衛の兵士らと行動を共にし、単独での行動は避けてくれ」
「わかりました」
重く告げられたセラヴィンさんの言葉に、私はしっかりと頷いた。
「わっ!?」
突然、セラヴィンさんが私を胸にキュッと抱き締めたと思ったら、大きな手でトントンと背中を撫でた。
「本当なら、こうして俺が一日中腕に抱き締めていられたらいいのだが。そうすれば俺が、何人たりとリリアに寄せ付けない」
セラヴィンさんが口にした冗談に驚いて、私はパチパチと瞬きを繰り返した。




