12
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満たされた思いで寝室の扉を閉めた。
無邪気なリリア。そして、何にも代え難い大切なリリア……。
もちろん、焦る気持ちがないと言ったら嘘になる。綺麗ごとを別にすれば、当然ながら俺にも性欲があり、リリアと寝台を共にしながら交接を成せない事は苦しい。
けれど俺は、リリアと名実共に夫婦となるのは婚儀の後でも構わないと思っていた。リリアにも語った通り、俺もリリアもまだ若い。
この先、夫婦として何十年と共に過ごす事を考えれば、長い人生の中、今一時の足踏みは決して無駄ではあり得ない。
今は慣れない環境でお妃教育に励むリリアと、心を繋ぐための時間だ。あと半年、狂おしく眠れぬ夜は、愛しいリリアと積み重ねた記憶のひとつひとつを思い返して過ごそう。
それは俺にとって、かけがえのない至福の時間だ。
「なぁセラヴィン、どうやったら連日連夜のマッサージで赤ん坊が宿ると思えるんだ? リリア嬢はほんとうに、もうじき成人を迎えるんだよな? 幼すぎやしないか?」
寝室を出てしばらく進んだところで、暗がりからルーカスがヒョイッと姿を現して言った。
「聞いていたのか? 無粋だな」
訊ねながら、しかし気配に聡い俺は、ルーカスの存在に気付いていた。そうしてルーカスがリリアとの会話を聞いていただろう事も、当然察していた。
「いや、聞いたってよりは、通りがかったらちょうど聞こえてきた。別に、扉に耳を貼り付けて聞き耳を立てていたわけじゃない」
ルーカスの弁明に、俺はヒョイッと肩を竦めるにとどめた。
今更、俺とリリアの清い関係を隠す事に意味はない。なによりこの一週間で、リリアが男女の事はもとより、一般常識といえる部分についても疎い事は周知だった。
「聞き耳いかんはどうでもいい。だがルーカス、お前の言う『幼い』は間違っている。リリアは学ぶ機会に恵まれなかっただけだ」
淑女教育だけではない。リリアは、年齢に応じて親や近親者らから当たり前に教えられるべき基本が、省かれてしまっていた。
「そこは間違いねぇな。むしろ彼女は、学ぶ機会を与えられなかったからこそ、見聞きした情報から吸収し、自らの手で模索する力が桁違いだ」
リリアの無知を知り、妃教育を請け負った全員が先行きを不安視した。だが妃教育を始めて一週間、今では教師陣全員が、リリアの吸収力に舌を巻いている。
「そうだ。リリアは一を伝えれば、そこから十にまで考えを巡らせる。彼女の潜在能力は、常人離れしている」
渇いた大地が水を吸うように、リリアは教えられた以上を吸収していく。そうして、身に付けた知識を消化して、更に思考を柔軟に発展させる。
「優秀の定義は、学力だけではない。なにより、学力は後からでも積み重ねられるが、思考力は必ずしもそうではない。リリアはきっと、歴史に名を残すほどの立派な妃となるだろう」
「……セラヴィン、俺はお前がそんな穏やかな表情を浮かべるなんざ思ってもみなかった」
リリアの話題から、突然ルーカスは俺の表情に話を飛ばす。
「藪から棒になんだ?」
「かつての逃亡中、お前はまるで手負いの獣のように人を寄せ付けなかった。追従する臣下らは皆、お前の王位奪還を掲げながらも、お前自身とどこか通じ合えないもどかしい思いを抱えていた。腐敗した統治に苦しむ地方領主ですら、積極的な意思を示さないお前の擁立に躊躇する者もいた」
ルーカスが語る、真摯とは程遠いかつての自分の姿は耳に痛く、胸には苦い物が広がる。
「それがどうだ? リリア嬢と再会し、お前は180度も変わった。以前とは打って変わり、今では臣下から絶対の信頼を寄せられている。民の生活復興を最優先にした施策を敷き、領主らはもちろんのこと、国民からの圧倒的な支持もある。名実ともに今のお前は名君で、そして、お前を名君たらせるのは、リリア嬢なんだろう。そういう意味では、リリア嬢こそがニルベルグ王国の救国の女神と言えるんだろうな」
ところが、ルーカスが続けて語ったのは、予想だにしない俺への肯定だった。そして、リリアに対するまさかの見解。
「救国の女神とはなるほど、うまく表現したものだ。まさにその通りだ。救国の女神とは、リリアにこそ相応しい」
「……セラヴィン、俺が言うのもおかしな話だが、リリア嬢を幸せにしてやれ。今日の夕方、突然おふくろが訪ねてきたと思ったら、俺に泣きながら言うんだ。あんなにいい娘が不遇のままでいいわけないってな。おふくろは理由を言わないが、察するにリリア嬢の苦しい身の上でも聞いたんだろう」
ゴードン伯爵夫人に、涙ながらに訴えさせるほどのリリアの苦境……。
真に辛いのは、自身が苦しい事ではない。自分が苦しいよりも、愛する誰かが苦しい方が、身を切るように辛く苦しいのだと、これはリリアが教えてくれた。
胸が千切れそうだった。
俺は無意識のまま、固く両の拳を握り込んだ。
「当たり前だ。これまでの苦労など忘れるくらい、俺が誰よりも幸せにする。他でない俺の手で、リリアを幸せにしてみせる」
「そうだったな。こりゃ、余計な事を言っちまったな。だがセラヴィン、これだけは言える。リリア嬢を手にしたお前の人生もまた、幸福にあふれたものになるんだろう」
幼少時から兄弟のように育ち、共に苦楽を乗り越えてきた同志ともいえるルーカス。そのルーカスからもたらされた祝福は、特別な感慨を伴って、俺の胸の深いところにじんわりと染み込んだ。
「まったく、妬かせてくれるぜ。軍宿舎に戻るつもりだったんだが、興も削がれちまったからな。俺も俺だけの女神でも見つけに行ってくっかな」
ルーカスはヒョイと肩を竦めて軽い調子で言い、踵を返した。
「……ルーカス、俺からもお前にひとつ助言をしよう。一歩歓楽街に出れば、数多の美女がお前に甘やかに擦り寄って愛を囁き、柔らかに抱き締めて有頂天にさせてくれるだろう。俺も一時の情愛を満たす行為自体を否定はしない。だがルーカス、真の愛はそこにはない。お前の女神はきっと、そこにはいないぞ」
俺の言葉に、ルーカスは一歩踏み出した状態で、ピタリと止まった。
野暮を言うつもりは更々なかった。事実、一時の情事を楽しむだけのつもりなら、娼館をはじめとした遊び場はうってつけだ。
けれど、ルーカスと長い付き合いの俺は気付いていた。先の言葉を口にしたルーカスは、その軽い口振りに反し、目が真剣だった事に。
「……おいセラヴィン、それじゃ一体、どこで探せばいいんだ? 女との出会いと言ったら娼館以外にないだろう?」
俺を振り返り、至極真面目に問いかけるルーカスに、今度は俺がヒョイと肩を竦めてみせる。
不器用と言うのか、何と言うのか……。
「さてな。そんなのは自分で考えろ」
「って、オイ!? 自分だけ女神を手にして後は知らぬ存ぜぬはないだろうが! 俺にも女神の居所を教えろ!」
姦しく喚き立てるルーカスに一瞥を残し、俺は構わずに脇を通り過ぎて、王宮廊下を進む。
……女神の居所とは、ルーカスもまた乱暴な事を言う。
だが、ルーカスらしい台詞だ。
果たして女神と見えた時、武骨なルーカスが一体どんな反応をするのか見物だな……。いつかの未来を想像すれば、自ずと頬が緩んだ。
「……女神との出会いは奇跡。そして得難いからこそ、女神なのだ」
廊下の角を曲がり、ルーカスの気配が遠くなったところで呟いた。俺の小さな囁きは、聞くものなく夜の静寂に溶けた。
リリアは持ち前の優秀さをいかんなく発揮し、婚姻式まで一ヵ月の期間を残して、お妃教育のほとんどを消化させていた。
既に婚姻式の招待客リストも出揃い、連日、王宮一体となって入念な準備が進められている。全てが順調に思えた。
そんな、婚姻式まで一ヵ月を切ったある日、ルーカスが俺の政務室を訪れた。
「セラヴィン、少しいいか?」
将軍職に従事するルーカスは、日中の日が高い時刻は、自ら部下の指導育成にあたっている。
そのルーカスが、昼を過ぎたばかりの時刻に俺を訪ねてくるというのは、非常に珍しい事だった。
これが意味するところは、ルーカスは俺やリリアに密接に関わる何某かの情報を入手し、それを伝えるためにやってきたという事だ。
「……諜報員が何か仕入れてきたか?」
書類から目線を上げて問いながら、今ばかりは俺の予想が外れてくれと願わずにはいられない。婚姻式を間近に控えたタイミングで、面倒事は避けたいというのが正直なところだった。
「ご名答だ。デルデ公国へ派遣した諜報員が情報を上げてきた」
無情にも、ルーカスは、俺が想定した中で最悪の答えを返す。デルデ公国という言葉から、これから聞かされる報告が、リリアに関係する事案だというのは容易に察しがつく。
リリアが憂う内容を聞かされる事は、俺が苦慮する案件を聞かされるより、何倍も胸に重い。俺の内心の落胆は大きかった。
「聞こう」
「端的に言う。リリアの母君が、公式文書偽装と横領の罪を犯し、デルデ公国から身をくらませた」
「なんだと?」
聞かされた内容は、すぐには理解が追いつかない。
「驚くべきはそれだけじゃねぇ。デルデ公国を出た母君は、現在ニルベルグ王国に潜伏している可能性が高い」
俺が目を瞠ってルーカスを見れば、ルーカスは更に衝撃的な台詞を続けた。
「まず事の発端は、長く床に伏していたリリアの義父の病死だ。母君が後妻だったのは知っているだろう? 子の無い母君は、財産を継げなかった。だが、デルデ公国の法では、本人の遺言書があれば法定内の相続が可能だ。亡くなったスチュワード辺境伯も、母君への相続を記した遺言書を残して逝ったようだ」
「それが、偽装だったというのか?」
「あぁ、偽装と分かったのは、遺言に則り財産分与がなされた後だ。当局が気づいて捜索に動き出した時には、母君は国を出た後だった。ちなみに、裏も取れてる。捕縛した代筆屋が全て吐いた。母君が罪を犯した事はもう、間違いない」
……なんという事だ。
文書偽装だけならまだしも、それによって得た資産を持ち逃げしたとなれば、貴族といえど死罪すらあり得る大罪だ。
「しかし何故、母君はそんな危ない橋を渡るような真似をした? 仮に夫の資産が相続できずとも、母君はデルデ公国の伯爵家の出だ。実家を頼れば、金銭的な困窮はあり得んだろう?」
「それがどうやら、両親亡き後に当主を継いだ弟から、縁を切られていたらしい。母君はこれまでも駆け落ちやなんやで弟と確執が深かった。代がわりで、それが決定的になったようだな」
「実家から縁を切られた母君は、夫の死後の生活に備えて犯罪を決意したか……」
俺は正直、これをどうリリアに伝えるのが正解か、考えあぐねた。いや、もしかすれば、俺の判断で手を回し、リリアには伝えない選択肢もありうる。
リリアにとって、お世辞にも優しい母ではなかった。その母の事でリリアが思い悩む姿は、俺自身、目にしたいものではなかった。
「ルーカス、この件はまだリリアには伏せて――」
――パサッ。
背後から上がった物音に、ハッとして振り返る。そうして目にした瞬間、俺はまだ見ぬ神を恨んだ。




