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 ――浮かんだ記憶は、たったそれだけ。

 あの時、母は私と目が合うとすぐに視線を逸らした。だけど幼い私の目には、恐ろしい化物でも見たような、歪んだ母の表情がたしかに結ばれていた。

 ほんの一瞬、脳裏を過ぎっただけの記憶。だけどこの記憶は、これまでとは違った切り口から、私にものを見せてくれた。

 今まで考えつきもしなかった、お母様の行動原理が浮かび上がる……。

「いえ、ゴードン伯爵夫人。どうやら母は、単純に私が疎ましいというだけではなかったようです」

 お母様は、お父さんを死に追いやった私の事を憎んでいるのだと、ずっとそう思っていた。お父さんの時間は九年前で止まったまま、私だけが成長していく事が厭わしいのだと理解していた。

 だけどこうして改めて思い返してみれば、お父さんの生前から、お母様の歪さの片鱗が見え隠れしていた。

 これらは、単に「憎い」「厭わしい」という感情だけでは説明がつきにくい……。

「お母様はもしかすると、お父さんや義父の関心を買う、私という存在を恐れていたのかもしれません」

 口にして、胸にストンと嵌まる。それは、パズルのピースがピッタリと合わさるみたいな、収まるべきところに収まったような、そんな心地。

「ご苦労なさったわね」

 ゴードン伯爵夫人は、静かに私を抱き締めて背中を優しく擦った。

「……だけど私は、これまで決して苦しいばかりではありませんでした。折に触れ、手を差し伸べてくれる方もいました。深く愛してくれた父や、祖父母の記憶もしっかりと胸にあります。改めて思い返してみれば、苦しかった以上に幸福で優しい記憶が多くある事に気付かされます」

「リリア様、貴方は本当に柔軟でしなやかでらっしゃるのね。それこそまさに、一国の王妃として立つに相応しい、重要な資質だわ」

 果たして、私が本当に王妃として相応しいのかは分からない。

「そうおっしゃっていただけると嬉しいです」

 だけど私は王妃に、なによりも王たるセラヴィンさんの隣に立つに相応しくなりたい。

「ねぇリリア様、私ね、本当はずっとリリア様のような娘が欲しかったの。ご存知の通り、私には武骨者の息子がいるだけだから」

 ゴードン伯爵夫人は「武骨者の息子」の件で、ヤレヤレと大仰に肩を竦めてみせた。

 いつも優雅な夫人のしたコミカルな仕草に、私は思わず小さく吹き出してしまった。

「何かあれば一人で抱え込まず、話してくれたら嬉しいわ。大きな事は言えないけれど、悩みを共有して一緒に考える事はできるから、ドンときてちょうだい!」

 夫人は満面の笑みを浮かべ、ドンッと胸を叩いてみせた。

「ゴードン伯爵夫人、私だって夫人のようなお母様がいたらどんなにか嬉しいか……! これからは遠慮なく、頼らせてもらいます!」

 ……新たな地で、また新しい縁が結ばれる。私はこんなにも多くの優しさに支えられている。

 私は本当に、果報者だ。






 その晩も、セラヴィンさんは月が一番高い所を通り過ぎてから寝室に現れた。

「セラヴィンさん、お帰りなさい。お疲れさまでした」

 私が駆け寄って告げると、セラヴィンさんはほんの少し困ったように微笑んで、そっと私の頭を撫でた。

 私を迎え入れるにあたって、セラヴィンさんは大臣をはじめ、王宮の従事者らに「妃を迎えに行く」と公言して憚らなかった。側近らに至っては、セラヴィンさんが私を救いたいがために王位奪還を決意した事まで、詳細に把握していた。

 だから私は、セラヴィンさんに伴われて王宮に来たときから、事実上の王妃として扱われている。

「起きていたのか? 予習で朝が早いんだ、俺を待たずに先に寝てくれていい」

 当然、寝室もセラヴィンさんと同室があてがわれ、最初の晩からずっと褥を共にしていた。

「そうはいきません! セラヴィンさんは私よりも早く起きて政務を始めているじゃありませんか。夜だって、毎日こんな時間まで。だけどなにより、私が……えぇっと、その……」

 勢い勇んで告げるも、続く言葉は羞恥から言い淀む。

「……わ、私が夜のお勤めをしたいのでっ!」

 私が意を決して告げれば、セラヴィンさんが何故か目に見えてガックリと肩を落とした。いつも凛々しく弧を描いている眉も、今は眉尻が下がり、セラヴィンさんの消沈ぶりが窺える。

「セラヴィンさん?」

「……いいや、なんでもない。では、さっそく今晩も”お勤め”を頼もうか」

「はいっ!」

 私は元気よく答えると、意気揚々とセラヴィンさんの上衣に手を伸ばす。まずは首元から順繰りに留め具を外し、肩から上衣を滑らせて、両腕から袖を引き抜く。そうして上衣を脱がせ、セラヴィンさんをインナーシャツ一枚の姿にすると、セラヴィンさんの手を引いて寝台に向かう。

 よしっ! 気合を入れ、寝台にのぼる。

 夜のお勤めは、私が想像していた以上に体力が物をいう。初めてセラヴィンさんと褥を共にした翌朝は、筋肉痛で全身が悲鳴を上げていた。

 だけどセラヴィンさんと夜を重ねる毎に、汗を迸らせ、息を弾ませながら行う行為の一体感と、やりきったという爽快感、私はこれらの虜になっていった。

「さぁセラヴィンさん、グイグイいきますよ! もし痛かったら言ってくださいね!」

「……あ、あぁ」

 いまひとつ反応の鈍いセラヴィンさんを怪訝に思いつつも、ここまでの流れは全て、初日にセラヴィンさんから教わった手順を忠実に再現しているのだから、なにがおかしいはずもない。

 ならばきっと、セラヴィンさんは連日の激務で疲れているのだ。

「セラヴィンさん、力を抜いて私に身を任せてください。セラヴィンさんとこうして過ごす夜ももう八回目です。私、だんだんコツが分かってきました。だから今日は、セラヴィさんを絶対によくしてあげられる自信があります!」

「……そうか。それは楽しみだな」

 ……ん? セラヴィンさんの声が、どことなく苦しそうに感じた。

 とはいえ、今のセラヴィンさんはうつ伏せになって枕に顔を埋めており、そのせいで声がくぐもって、変なふうに聞こえているに違いなかった。

「いきますよっ!」

 威勢のいい掛け声と共に、私はバフンとセラヴィンさんの上に覆い被さる。

 そうして私は大汗を垂らしながら、セラヴィンさんの腰から肩にかけて、全体をグイグイと揉み解した。


「セラヴィンさんどうですか?」

「あぁ、リリアのおかげですっかり体が軽くなった」

 セラヴィンさんは息を荒くする私の頬を、サラリとひと撫でし、そっと肩を押した。そうすれば、私は力を殺せずに、仰向けにぽふんと敷布に横たわる。

「……リリア、俺は湯を浴びてくるから先に休むといい」

 頭上に影が落ちたと思ったら、額にふわりと柔らかな感触が落ちた。

 触れるだけの額へのキスは、お勤めの終わりと、お休みなさいのサイン。

「はい、セラヴィンさん」

 私は遠ざかるセラヴィンさんの温もりと感触をほんの少しだけ名残惜しく感じながら、そっと瞼を閉じた。

 セラヴィンさんの気配と足音が遠ざかる。

 ……お勤めを終え、いつも通りセラヴィンさんがお湯を使うために退室する。

 もう八回繰り返した、いつも通りの流れ。だけど、いつもよりほんの少し寂しいと、どこか物足りない感じるのはどうしてだろう?

「あの、セラヴィンさん」

 セラヴィンさんがドアノブに手を掛けて、ゆっりと扉を引く。セラヴィンさんの姿が扉の向こうに消える前、気付けば、私はセラヴィンさんの背中に向かって呼び掛けていた。

「なんだ?」

 呼び声に、精悍な美貌の王様が、甘く蕩けるような笑みをのせて私を振り返る。

 ……なんて綺麗なんだろう。そして、なんて逞しく魅力的なんだろう。

「こうやって夜毎、お勤めを重ねていたら、いつか私の元にも赤ちゃんがやってきてくれるでしょうか?」

 心から、欲しいと思った。こんなにも素敵な男性を父に持つ子を、他でもない私が、授かりたいと思った。

「あぁ、いつか俺とリリアの元にやって来てくれるだろう。ただし、俺たちの子はきっと親思いだ。焦らずにタイミングを図って、リリアが正式に王妃として立ち、落ち着いた頃にやって来てくれるに違いない」

「セラヴィンさん……」

 聞かされた言葉が胸を詰まらせる。セラヴィンさんへの溢れるほどの愛が、狂おしいほどに私を熱く燃え上がらせる。

「だからリリアも、この一件に焦りは不要だ。なにより俺もリリアも、まだ十分すぎるほどに若い」

「……セラヴィンさん、私、セラヴィンさんと出会えてよかった。それからもう、焦りはありません。だけどやっぱりセラヴィンさんとの赤ちゃんは欲しいので、ますますお勤めは頑張らせていただきますね!」

 自ら口にした、淑女にあるまじき破廉恥な台詞。

「お、おやすみなさいっ!」

 私は恥ずかし紛れにキュッと掛布を引き上げて瞼を閉じた。

「あぁ、おやすみリリア。よい夢を」

 セラヴィンさんは優しく言い残し、扉の外に消えた。




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