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「リリア様、今日はここまでにいたしましょう」
私は向かいから掛けられた声に、長くにらめっこしていたマナー教本から顔を上げた。
そうすれば、ゴードン伯爵夫人が柔らかな笑みをたたえて私を見つめていた。
ゴードン伯爵夫人は、私のお妃教育を担う教師の一人だ。お妃教育の内、社交場での振る舞いから、会話選びといった作法全般の指導を請け負ってくれている。
「はい、ゴードン伯爵夫人ありがとうございました」
私は教本を閉じ、指導の礼を告げる。
「続きはまた明日、お教えいたします。……ふふふ、それにしてもリリア様は本当に優秀ね。呑み込みだってとても早くて、驚かされますわ」
指導が終わると、夫人は指導中とは一転して、打ち解けた様子で語る。実は、ゴードン伯爵夫人はルーカスさんのお母様で、指導こそ厳しいが、その人柄はとても朗らかで親しみやすい。
「……いえ、それは買い被りです。私は優秀とは対極で、呑み込みも遅いので、必死の予習復習でなんとか補っている状況です」
ゴードン伯爵夫人は目を細め、私に優しい眼差しを向ける。
「リリア様は本当に謙虚ね。その努力を惜しまずに出来るのだから、やはりリリア様は十分に優秀だと思うけれどね」
そうして柔らかな口調でゆっくりと続けた。
「ねぇリリア様、私はこの一週間、間近に貴方を見てきたからこそ思うの。どうか、自信を持って? 私が指導する所作や会話術は、単なるテクニックにすぎない。学べば習得できるそれらは、当たり障りなく場を繋ぐだけ。人の心を動かす効力はないわ。けれどリリア様、貴方の言葉には真心がある。耳触りのいい上っ面の会話以上に、貴方の語る一言一句は人の心の深いところに訴える。それは学んで身に付けられるものじゃない。貴方にしか持ち得ない、なによりも強力な貴方だけの武器よ」
やはり、ゴードン伯爵夫人は私への過大評価がすぎると思った。
「私には身に余る言葉です……」
だけど、真っ直ぐに告げられた賛辞は、私の心を温かにしてくれる。
思えば、自分の言動を褒められたり、認められたりというのは、お父さんやお祖父ちゃん、お祖母ちゃんが亡くなってから初めての事だった。
肯定が、力になる。胸が、前向きな思いで満たされる。
「果たして、本当に私にそんな武器があるのか……。けれどゴードン伯爵夫人、私は自分をもっともっと磨きます。私はセラヴィンさんの隣に立つと決めました。だからあと半年、セラヴィンさんにおんぶに抱っこにならないように、自分の足で、自分の力でセラヴィンさんの隣を歩けるように頑張ります」
セラヴィンさんは婚姻式を、私が成人を迎える半年後に定めた。帰国してすぐ、広く国内外に告示も済ませている。
あと、半年……。この短い期間で、私はなんとしても王妃としての体裁を整えなければならなかった。
「まぁ、ふふふ。やっぱりリリア様、貴方はとっても魅力的。だけどリリア様なら、セラヴィン陛下の隣を歩くだけじゃなく、その荷物まで一緒に持ってしまえそうね」
朗らかにゴードン伯爵夫人が笑う。
……そんなふうになれたらいい。セラヴィンさんが心の重荷を分け合うに足る、そんな存在に私はなりたい。
「それではリリア様、また明日参りますわね」
「はい」
私はいつも通り、ゴードン伯爵夫人の見送りに席を立った。
「あら?」
すると、ゴードン伯爵夫人が私のスカートに目をとめて、小首を傾げた。
「リリア様、少し失礼しますね」
ゴードン伯爵夫人はそう言って、私の背面に回り込んだ。
「ゴードン伯爵夫人? どうかしましたか?」
「ほんの小さくですけれど、ドレスに染みが付いてしまっているみたい」
怪訝に思って振り返れば、ゴードン伯爵夫人が声を低くして囁いた。
「っ、やだっ!」
慌ててお尻の辺りに目線をやり、朱色の汚れを見つければ、頬にカッと朱がのぼる。
「リリア様、同じ女同士ですから、そう慌てなくとも大丈夫ですよ。それに小さな染みですから、どこも汚してはおりませんし、誰も気付いてはおりませんわ」
動揺する私とは対照的に、ゴードン伯爵夫人に慌てた様子はない。
いつもと変わらない夫人の穏やかな様子に、救われる思いがした。
「私もね、障りの際には、幾度肌着やドレスを汚したかしれませんのよ」
夫人のおかげで、不要な焦りはなくなった。けれど現実問題、汚れたドレスをそのままにはしておけないし、差し迫って処置は必要だった。
「ではゴードン伯爵夫人、すみませんが私、奥で着替えてきます。お見送り出来なくて申し訳ないのですが、今日はこれで失礼します」
「えぇ。私の事は構わないでちょうだい」
私はゴードン伯爵夫人の前を足早に通り過ぎ、クローゼットに向かうと、手持ちの荷物の中から、脱脂綿を引っ張り出した。
……よかった、マクレガン侯爵家に向かうために纏めた荷物の中に、念のために少しだけ入れておいて。
私がニルベルグ王国に来て、一週間が経つ。セラヴィンさんは、不足がないように甲斐甲斐しく身の回りの物に気を遣ってくれたけれど、流石に女性特有の事情の品物までは気が回らなかったようだ。
私自身も、慌ただしい日常に忙殺されて、すっかり油断してしまっていた。
「……待って、リリア様? 手当てはいつも、その綿を当てておられるの?」
私が脱脂綿を手に、手洗いに向かおうとしたら、ドア付近に立つゴードン伯爵夫人に腕を取られた。
「? はい」
手の中の脱脂綿は、別に特別なものではない。怪我の手当てなどに使用する、ごく一般的なものだが、なにかおかしいところがあっただろうか?
少し怪訝に思いながら私が即答すれば、ゴードン伯爵夫人は何故か、とても驚いた様子を見せた。
「リリア様、このままここで待ってらして! ……たしか、当家が賜る控えの間に置いたままになっていたと……とにかく! 私、すぐに戻りますので!」
「え?」
口早に告げると、ゴードン伯爵夫人は私の答えを待たず、常になく急いだ様子で部屋の外に駆け出した。いつも優雅な足さばきで歩むゴードン伯爵夫人が、ドレスの裾を翻して忙しなくドアの向こうに消える……。
私は呆気に取られ、ゴードン伯爵夫人が消えたドアを見つめて立ち尽くした。
……ええっと。うん、ゴードン伯爵夫人を待とう。
本音を言えば、すぐにでも手当てに向かいたい。だけど「待って」と言われた手前、このまま手洗いに消えるのも憚られ、私は静かにゴードン伯爵夫人の戻りを待った。
「リリア様、お待たせいたしました」
言葉通り、ゴードン伯爵夫人はものの数分ですぐに部屋に戻ってきた。その手には、白いポーチが握られていた。
「リリア様、これをお使いになって。専用の物が入っているから」
ゴードン伯爵夫人は息を弾ませながら、私に向かってポーチを差し出す。
え!? もちろん、状況からゴードン伯爵夫人が私のために、専用の手当て一式を取りに走ってくれた事は分かった。
だけど突然の事に戸惑ってしまい、私は咄嗟に反応が出来なかった。
「あぁ、遠慮はなしよ。恥ずかしい話だけれど、私はもう、これらが不要になってしまったのよ。処分しようしようと思いながら、ずっと置いたままになっていたものだから」
固まったままの私の手にポーチがグッと押し付けられて、私はゴードン伯爵夫人の勢いに圧されるように受け取った。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、使わせていただきます」
促されるままポーチを開け、中味を目にした瞬間、私は首を捻った。
「……あ、ええっと?」
私には、初めて目にするそれらの使い方が分からなかったのだ。
「これはね、こんなふうに肌着に取り付けられるようになっているわ。それからこれが、専用の肌着よ。好みもあると思うけれど、ひとまずの事と思って使ってちょうだい」
ゴードン伯爵夫人は私の無知にも、もう驚いた様子を見せなかった。いつも通り穏やかな表情で、そっと中から一枚、シート状に加工された脱脂綿らしきものを取り上げて、私に向かって身振り手振りで使い方を教えてくれた。
「……すみません。ありがとうございます」
私は恐縮しきりで、今度こそポーチを手に、足早に手洗いに向かった。
私は教わった通りに手当てを終えると、汚れたドレスと肌着を手早く水で流して吊るし、着替えを済ませてから部屋に戻った。
部屋では、ゴードン伯爵夫人が帰らずに、私の戻りを待っていた。ゴードン伯爵夫人は私に気付くと、腰掛けていた応接ソファから立ち上がって歩み寄った。
「ゴードン伯爵夫人、ありがとうございました。こんなに便利に加工された道具があるなんて、知りませんでした。おかげでとても快適に処置ができました」
「それはよかったわ」
ゴードン伯爵夫人は優しく微笑んで私の肩をそっと抱き、応接ソファに促した。
「ねぇリリア様、不躾な事を聞くけれど、お母様や屋敷の侍女に手当ての仕方を教わった事はない?」
並んで腰かけると、ゴードン伯爵夫人はやんわりと、事の核心を衝く質問を投げかけた。
その口調は親身で、その眼差しは真摯だった。
「……ありません。そもそも月の障りの事は、お母様はもちろん屋敷の誰にも話していないので。だけど、なんとなくですが、お母様は私に月の障りが訪れた事を知っていたような気もします。お母様は知った上で、あえて見て見ぬ振りをしていたのではないかと」
母との関係を隠すつもりはなかったが、かといって積極的に言いふらしたい内容ではない。
「以前に参加したサロンの会話でヒントを得ていたのが本当に幸運でした。そのおかげで、いざ障りが訪れた時も焦らずに済みました」
けれどゴードン伯爵夫人の質問の意図が好奇や興味本位でない事は瞭然で、気付いた時には私は聞かれた以上の内容をゴードン伯爵夫人に打ち明けていた。
「それはどういうこと?」
「そのサロン主催者の婦人が、愛犬を我が子のように可愛がっていました。婦人が愛犬を抱き上げた時、婦人の手が僅かな血で汚れてしまったんです。気付いた婦人は、清潔な脱脂綿で愛犬の下肢を拭ってやりながら、『犬も人も同じで、大人になると面倒でいやね』とそう言ったんです。その時の私はまだ小さかったんですが、その血が犬の下肢から流れた事、大人になれば人間にも同じ現象が起こる事、その時は脱脂綿で拭う事を見て、覚えていました」
「……そう、そうだったの。どんなにか心細かったでしょうね」
肩を抱くゴードン伯爵夫人の腕に力が篭る。
その温もりと力強さに、胸のつかえがスーッと外れていくような、そんな心地がした。私は温かな腕に身を委ね、これまで誰にも告げられずに胸に堆積していた思いを、ぽつりぽつりと語った。
「ところが、それがそうでもないんです。以前、胸当てを望んだ時のお母様の激昂ぶりが、良くも悪くも教訓になっていて。私には、そもそもお母様や侍女に何かを相談するという選択肢がないので、そう言った意味では割り切っていましたから」
「……っ」
ゴードン伯爵夫人は目に涙を滲ませ、声を詰まらせた。けれど肩を抱く腕だけは緩めぬまま、私に人肌の温もりを伝える。
その優しい温もりに気が緩んだのだろうか。私はこれまで誰にも語った事のない心の内側を、ゴードン伯爵夫人に打ち明けていた。
「きっと、お母様には私の成長が疎ましいものだったんですよね……」
ところが、実際に口にのせた言葉は、私の中でどうしてかしっくりこない。
……なんだろう? どこか物の本質を見誤っているような、釈然としない、この違和感のようなものは……。
言葉の途中を不自然に途切れさせ、黙り込んでしまった私を、ゴードン伯爵夫人は赤ん坊をあやすみたいな手つきで、優しくトントンと抱き締める。
――トン、トン、トン。
私は一旦、答えの出ない堂々巡りに終止符を打ち、優しいリズムに身を委ねた。
すると突然、脳裏にかつての記憶の一片が蘇る。その記憶の中で、幼い私は右手を母、左手を父と繋いで歩いていた――。
『それで自治会長はなんておっしゃったの?』
『自治会費は地元住民だけでなく、保養で利用する方にも負担をお願いしたいって、そう答えていたよ』
お父さんとお母さんは、ずっと二人で難しそうな話をしていた。
二人の真ん中にいながらも、私は一人すっかり蚊帳の外でつまらなかった。
『そうですか……』
お母さんが少し暗い表情で頷いて、ここで二人の会話が途切れた。
『あなた、それなんだけれど実は――』
『ねぇお父さん!』
難しい二人の話に飽きていた私は、待っていましたとばかりに、このタイミングでお父さんと繋いだ左手を引きながら声を上げた。
『うん? どうしたリリア?』
お母さんの話し出しと私の声が重なった事には気付いていた。だけどお父さんは、腰を低くして私と目線を合わせてくれた。
『お父さん、抱っこして!』
『抱っこか! よしリリア、おいで!』
私が強請れば、お父さんはすぐに私に向かって両手を広げた。
『わぁ、高い! 私、お父さん大好き! 私、大きくなったらお父さんのお嫁さんになるー!』
お父さんの腕に抱き上げられ、私は大はしゃぎで興奮気味に語る。
『それは嬉しいな!』
お父さんはそれに、蕩けるような優しい目をして答えた。そうして私は、高くなった視界から、何の気なく横を歩くお母さんを見下ろす。
お母さんと、私の目線が絡んだ。
その瞬間、幼い私はピタリと動きを止めた。
『うん? リリア、随分と大人しいじゃないか? あぁ、眠くなってしまったかな』
私はもう、はしゃぐ気にはなれなかった……。
問いかけるお父さんの声も、どこか遠く聞こえた。




