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「リリア様!」
スコット子爵邸では、スコット子爵夫人が屋敷玄関に立って、私の到着を待ち構えてくれていた。
「スコット子爵夫人!」
「リリア様、良かったわ! 本当に良かった!」
セラヴィンさんの手で馬上から下ろされるや否や、私は駆け寄ってきたスコット子爵夫人の腕に、ギュッと抱き締められていた。
これまでは、そっと手を取られ、優しく握られるのが精々だった。こんなふうに、熱く抱き締められるというのは初めての事だった。
「私は貴方の苦境に気付いていたのに、なにかやりようがないかと思いながら結局なにも出来ないまま、何年もズルズルときてしまった……。助けてあげる事が出来ず、ごめんなさい。辛い状況の貴方を助けてあげられず、本当にごめんなさい」
スコット子爵夫人は私を抱き締めたまま、涙ながらに謝罪を繰り返す。
だけど私に言わせれば、スコット子爵夫人が私に謝罪する事の方がおかしい。私はスコット子爵夫人の心遣いで、どんなに救われてきたかしれないのだ!
「そんな事ありません! スコット子爵夫人がさりげなく渡してくれた品に、私は幾度となく命を繋ぎました。だけど、スコット子爵夫人からいただいたのは食べ物だけじゃありません。お会いするたび、遠回しに私の状況を案じる言葉をかけてもらって、そのたびに心がふわりと綻びました」
スコット子爵夫人を固く抱き返し、私もまた涙ながらに思いを伝えた。
自分の事を案じてくれる誰かがいる。それはまるで、暗闇に差し込む一筋の光のよう。私はその光のお陰で闇にのまれずに、希望を繋ぐ事が出来たのだ。
「……リリア様、貴方は不思議ね。多くの辛酸を舐めながら、それでも貴方は決して輝きを失わない。そんな貴方を、私はいつも眩しい思いでみていたわ」
……それは違う。だって、眩しいのは私じゃない。
私には、スコット子爵夫人が差し出してくれる優しい手と、柔らかな微笑みが、いつだって眩しかった……。
けれどこの時、私の視界は涙で滲み、湧き上がる感情が喉を詰まらせて言葉が出なかった。
「だけどリリア様はもう、大丈夫ね。手をこまねいて見ているだけの私とは違う。貴方だけの騎士が、その腕で貴方を救ってくれたんですもの。これまで苦渋を味わってきたからこそ、この後の貴方の人生には、幸福しか残っていないわ。そうよね?」
スコット子爵夫人は言葉の最後にそんなふうに付け加え、悪戯な目でセラヴィンさんを見上げた。
「もちろんだ。この後は俺が、リリアを守る。災厄の一切をリリアに寄せ付けてなるものか」
セラヴィンさんはそれに、力強く答えた。
真っ直ぐに語られた台詞……。耳にして、ギリギリで堪えていた涙の防波堤は決壊した。
「リリア……」
セラヴィンさんにそっと抱き寄せられて、私の泣き顔はセラヴィンさんのマントの内側に隠された。
「まぁ、頼もしいわね」
スコット子爵夫人はいつものようにコロコロと笑った。だけどその声は、涙でくぐもって掠れていた。
「そうそうリリア様、少し待っていてね」
そう言ってスコット子爵夫人は、一旦、屋敷玄関に消えた。そうして戻ってきたスコット子爵夫人の手には、これまでの別れ際と同じように、バスケットが握られていた。
セラヴィンさんの懐に抱かれ、一旦は止まりかけた涙。だけどパンパンに膨らんだバスケットを目にした瞬間、再び涙があふれだすのを感じていた。
「これは、お祖母ちゃんからのお土産よ。……ふふふ、お祖母ちゃんだなんて、ちょっと厚かましかったわね。だけどね、勝手ながら私、ずっとリリア様を孫娘のように思っていたの」
これまで幾度となく、スコット子爵夫人から受け取ってきたバスケット。
この日受け取ったバスケットも、これまで通りズッシリと重い。だけど腕に感じる重み以上に、今日のバスケットは胸に重たく感じた。
「……同じです、スコット子爵夫人。私も優しいスコット子爵夫人に、お祖母ちゃんの姿を重ねていました」
「まぁ、光栄だわ。ちなみにね、今日のバスケットの中身はこれまでリリア様が美味しいって褒めてくれたマフィンやケーキといった手製のお菓子ばかりなの。日持ちは期待できないから、早めに食べてちょうだいね」
……これまではお母様の目を盗み、残りを気にしながら、いただいた乾パンやナッツを食べていた。
だけど、そんな暮らしはもう終わり。これからはただ心のまま、いただいたお菓子が味わえる……。
胸にギュッとバスケットを抱き締めて、真っ直ぐにスコット子爵夫人を見つめた。
「お祖母ちゃん、お土産をありがとう。それからこれまで、ずっと見守っていてくれてありがとう」
あふれる涙を止める術はなかったけれど、「お祖母ちゃん」と呼び掛けて、精一杯の感謝を告げた。
「これからもずっと見守っているわ。もちろん、これから見守るのは幸福に過ごす貴方の姿よ。それからね、私達の距離はほんの少し遠くなってしまうけれど、そんなのはちっとも問題じゃないわ。私はもうお婆ちゃんだから、駆けつけるにはちょっと時間が掛かるけれど、今は便利な時代よ。早馬があっという間に、手紙でも物品でもなんでも届けてくれちゃうんだもの」
スコット子爵夫人の物言いに、自然と笑みが浮かぶ。
「私、手紙を書いてもいいですか? 今までの事やこれからの事、相談にのってもらってもいいですか?」
「もちろんよ! 私の方がほんの少しばかり人生の先輩だから、もしかしたらなにかいいアドバイスが出来るかもしれないわ」
私とスコット子爵夫人はもう一度ひしと抱き合って、最後はまた微笑み合ってお別れした。
スコット子爵領を発ち、長く馬を走らせて、ようやく辿り着いた国境沿いの町の宿。
「セラヴィンさん、スコット子爵夫人に会わせてくれてありがとうございました」
案内された客間で、私は隣で荷物の整理をしていたセラヴィンさんに囁いた。
やはり、スコット子爵領経由での帰国路は足場が悪く、馬脚の進みも目に見えて鈍かった。
「なに、スコット子爵夫人の元を訪ねたのは、リリアばかりが理由ではない。大切な孫娘を嫁にもらうのだ。俺の口から直接お祖母様に挨拶をするのは道理だ」
セラヴィンさんは荷袋から顔を上げると、私の頭をポンッと撫でながら言った。
セラヴィンさんはいつも私に、想像すら及ばない、夢のように優しい言葉をくれる。
「セラヴィンさん……」
だけど甘く優しいそれらは、決してその場しのぎの慰めでも、もちろん夢でもあり得ない。全てセラヴィンさん自身によって叶えられ、現実となる。
そうして今、一年前の約束は果たされ、私はセラヴィンさんの妻として迎えられる。ならば私もまた、精一杯の誠意でセラヴィンさんに応えたいと思った。
「……あの、セラヴィンさんは王国所属の兵士を指揮しているんですから、ニルベルグ王国にあって高い地位にあるんですよね? 恥ずかしながら、私はこれまで淑女教育とは無縁に育っています。なので、これからセラヴィンさんの奥様として恥ずかしくないように、一生懸命勉強します」
私の精一杯の決意表明に、何故かセラヴィンさんからの反応がない。
「セラヴィンさん?」
怪訝に思って見上げれば、セラヴィンさんは目を見開いたまま固まっていた。
しかもセラヴィンさんは、焦ったような、苦虫を噛み潰したような、とにかく、とても一言では言い表せない複雑怪奇な表情をしている。
「……リリア、君に伝えなけばならない事がある」
長い、とても長い間を置いて、セラヴィンさんはゆっくりと切り出した。その表情からは、並々ならぬ決意が透けて見えた。
「はい?」
「リリアはニルベルグ王国についてどの程度知っている?」
次いでもたらされた質問。
「……ニルベルグ王国では、八年前のクーデターで王と王太子が討たれて、王弟のルドモント公爵が王位を簒奪しました」
私は重く、口を開いた。
私はこれを知識でなく、実際の体験として知っている。
このクーデターにより、私は家族を失っている。心に暗く影を落とす、苦すぎる記憶だ。
もちろん、時の王や王太子を悼む気持ちがないわけではないけれど、私にとっては見も知らぬ人達の死より、身近な家族の死の方が余程に受けた傷は大きい。
「それ以降は人伝に聞いた内容ですが、即位から数年は、少なくとも表面上は安定した統治が敷かれていたようです。でも内情は散財によって火の車で、増税を強行したものだから、不満を噴出させた領主らが結託して正統な後継者である前王の子を引っ立てて王位を奪還した。って、こんな感じですよね? たしか、新王が即位してまだ一年経っていないはずです」
私はセラヴィンさんに、自分の知り得る情報を告げた。
「なるほど、実に忠実に内情を捉えている」
セラヴィンさんは苦笑して頷いた。
そうしてスッと表情を引き締めると、真っ直ぐに私を見つめて口を開いた。
「リリア、一年前は告げる事が出来なかった。だが、今やっと、俺は何にも憚る事無く伝えられる。その引っ立てられた前王の子というのは、俺だ」
……え?
「一年前、俺は逃亡生活を送っていた。常に追手に怯える暮らしでは、リリアを伴う事は出来なかった。だから俺は、王位奪還を決意した。そうして王位奪還を成し、俺は今、ニルベルグ王国の王だ」
「セラヴィンさんが、……ニルベルグ王国の王?」
理解が追いつかないまま、告げられた言葉を反復すれば、セラヴィンさんは私の目を見つめ、力強く頷く。
「そうだ。俺がニルベルグ王国の王だ」
……そう、そうか。
内心の動揺は、到底言葉では言い表せないくらい大きかった。
だけど、改めて並々ならぬ風格を湛えたセラヴィンさんを見れば、意思とは別のどこかで無理矢理にでも納得させられてしまう。
セラヴィンさんという人は、それくらいの存在感と説得力を持っていた。
……あれ?
「だけど、そうなると私は……?」
セラヴィンさんが国王陛下というのは分かった。でも、そうするとセラヴィンさんの妻となる、私は……?
何故かこの方程式だけは、頭の中でどんなに考えを巡らせても、一向に答えに行き着かない。いや、行き着けない。
「リリアは俺の妻で、王たる俺の妃。リリアがニルベルグ王国の王妃だ」
セラヴィンさんは、一言一句含めるようにゆっくりと語る。
だけど返ってきた答えは、私にセラヴィンさんが国王という以上の混乱をもたらした。
「……私の国籍がニルベルグ王国にあるって、セラヴィンさんは知っていましたよね。ならば私の実父が平民だった事も、知っていますよね?」
「平民出身だろうが関係ない。俺が選んだ俺の妃だ。誰にも文句など言わせん。なにより俺は、リリアが王妃たる資質を十分に備えていると確信している。後はリリアの言うように、その資質を活かす術を学べばいい。そのための時間も、人員も、俺があらゆる準備を整えている」
「……そんなのは買い被りです。もし、セラヴィンさんの言うところの資質が開花しなかったらどうするつもりですか?」
私はものすごく混乱していた。そうして混乱の中、思いついたままを矢継ぎ早に口走る。
「それはいらぬ心配だと思うがな。だが、仮に王妃の資質がなくとも、微笑んで俺の隣にいてくれれば、最低限王妃としての体裁が整う。あとは俺が王と王妃ふたつの責を担い、リリアを王妃として隣に立たせる」
セラヴィンさんは、私の憂いを吹き飛ばすかのように力強く答える。しかもセラヴィンさんは、私を王妃に据える事に対し、一片の迷いも滲ませない。
「……もしも、私が王妃としての一番の役目を果たせない、……その時は?」
口にして、こんな「もしも」を問いかける自分の愚かさに眩暈がした。だけど気付いた時には、極限を悠に越えた混乱が、私に言わせていた。
「年齢等のタイミングは難しいが、最終的には臣下に嫁いだ叔母上の血筋から養子をとる事になるだろう。ただひとつ言える事は、俺はリリア以外に絶対に妃は娶らん」
セラヴィンさんは呆れるでもなく、淡々と口にする。私がした一番愚かな質問にもたらされた、一番心揺さぶられる答え。湧き上がる歓喜が、苦しいくらいに胸を熱くする。
歓喜は全身に巡り、収まり切らない熱が、滴りとなって眦から溢れた。
突然泣き出した私にセラヴィンさんは少し驚いた様子で、そっと私の肩を抱き締めた。
「どうしたリリア? 何故泣く?」
私はこんなにも熱く、深く、愛されている。もう、心に迷いはなかった。
「……セラヴィンさん、良き妻、良き王妃となれるよう、精一杯努力します。もしかすれば、セラヴィンさんが呆れるくらい至らないところばかりかもしれません。だけどどうか、私を支えてください」
「リリア、もちろんだ。何があっても、俺がリリアを支える。王妃としての道のりは、必ずしも平坦なばかりではないだろう。だが、リリアが窮した時は、必ず俺が力になる。俺と共に、乗り越えて行こう」
「はい」
嬉しくて、幸せで、それらの思いが熱い雫となって盛り上がる。それらは眦に収まりきらずに溢れ出て、ホロホロと頬を伝った。
私の幸福な涙はまだしばらく、止まりそうになかった。




