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「じゃあ、始めてくれ」
ひとしきり感傷に浸った後、ミカが言った。
何も彼女たちはわざわざ極東の一地方くんだりまで観光に来たわけではない。先にも挙げた保存と管理の一環としての仕事は、今回の場合この地に満ちる瘴気の除去も含まれている。
今でこそ絶対数が減りつつあるが、ほんの数百年前までは連日世界中を飛び回っていたものだ。
「よろしいので?」
憮然とした表情で少女が言った。
懐古は職業病となっている二人だが、事実、昔と今では行為の意味が明らかに違う。
「あぁ、頼むよ」
「……御意にございます」
言いつつ少女は殺生石に近づくと、懐から絵柄の入った札を取り出し、空に投げる。それはフワフワと数秒宙に留まったかと思うと、
「疾ッ」
という掛け声とともに北東へと飛んだ。この方角は艮、またの名を鬼門と呼ぶ。
「本来ならこの場所そのものが鬼門なんだろうな」
ミカもまたぽつりと呟いて、背負ったリュックサックから何やら札を取り出した。
ちなみに彼女が今いる場所は霊石から見て南西の方、八卦の裏鬼門、坤である。
どちらも縁起の悪い方位だが、二人はあえて選んだ。理由はすぐにわかる。
「いいぞ!」
ミカが叫ぶと、少女はうなずき手元で空を切るようにして手を動かす。
少女の指先は沈み込むようにして霊石へと飲み込まれる。しかし少女は意にも介さず少しだけ力を込める。魔力と呼ばれる力で、あやかしの持つ妖力とは別種の力だ。
霊石に込もった妖力が魔力と混じり合い、少女の指先を介して小さな体躯へと流れ込む。魔力はそのまま少女が吸収するが、濾過された妖力は少女の体を経ると、どす黒い霧となって鬼門裏鬼門に仕掛けた札へと流れ込み始めた。
種明かしをすると、この儀式における少女の躰はある種の穿孔の役割を果たしている。
此度の儀式は霊石より溢れ出た瘴気のみを除去すればいいというわけではなく、そもそも溢れ出た理由というのは霊石がその容量を超えて妖力を溜め込んでしまったことが原因である。封印そのものはそれによって強化されるとはいえ、剣呑極まりない。故に、それを取り除こうというのだ。
つまるところ霊石中の妖力を吸い出す必要があるのだが、この地の封印は堅持されているので霊石内に外部から干渉する方法がない。どうしたってその封を緩める必要があった。
ただ、艮坤の方位はその不安定さ故に緻密にして幾層もの厳重な封が術者によって施されており、下手に緩めてしまうと封印そのものが機能しなくなってしまう。かと言って、それ以外の方位は安定しているゆえに手の出しようがない。要するに封印が堅すぎるのだ。
そこで少女は1つ仕掛けを打った。
少女は印と術によって封印内部に入り込み、封印の一部となった上で、あえて自身を孔とすることで妖力を外へと逃がし、それを先の札で吸収するという仕組みである。
行為そのものは単純だがはっきり言ってデタラメだ。しかし、それを苦もなくやってのける少女を見てミカは苦笑いしつつも感嘆の声を漏らす。
「はは、いつもながら器用なものだな」
では吸い出した妖力をどう処理するのかといえば、それはミカの仕事になる。
「さてと、……腹を壊さなきゃいいが」
ミカは手にした札を見遣った。妖力を吸収し始めた札は発熱を始め、封じられた大妖の妖力に負けつつあるのか、描かれた絵柄が崩れていく。このまま何もしなければ、間も無く朽ち果て、やがて封印そのものを破壊するだろう。
「いただきます」
ミカは自嘲気味につぶやくと、手に持った札を一息に飲み込んだ。
「……まぁ、それなりだな」
飲み込んだ妖力が、体内で暴れまわるのを感じる。が、大したことはない。万が一に備え二重三重に備えてはあったが、どうやら恙無く終わりそうだ。
取り込まれまいと抵抗を続ける妖力を体内で捻じ伏せると、その力を己の魔力へと作り変えていく。その過程で、ミカの体に変化が表れ始めた。
成人した女性の体つきだったはずが、少しずつ縮んでいく。大人から子供へ、まるで膿を出すように肉を骨を溶かしながらゆっくりと縮小していく。
やがてミカが十余りの見た目になった頃、霊石へと突き入れられた指が引き抜かれ、妖力の流出が止まると共に、ミカの変化も落ち着きを見せた。
少女は封を結び直すために印を組み、呪文を唱えると、溢れ出た妖力があたりに漂った瘴気ごと再び霊石へと流入を始めた。
しばらくして後、辺りは正常な空気が戻り、これで二人の仕事は完了となる。
儀式を終えた少女は鬼門へ飛ばした札を呼び寄せ、何やら古めかしい豪奢な装飾のついた分厚い洋書へと挟み込んだあと、平伏して言った。
「御大儀にございます。お体の調子は如何?」
「ご苦労さん。どうということはないよ。なにせ体が軽い」
軽口を叩きつつ、ミカはぐるぐると腕を回す。
「私の力が及ばないがため、御不便をば」
「いいさ。私が望んだことだ。……まぁ、女の体は現代を生きる上ではそう悪くない。いろいろ得だしな」
「おいたわしや、と申し上げるべきでありましょうか。それとも嘆かわしいと?」
「まぁ、時代だよ」
「……尤もでございますな」
事情があり、人の姿を借り、人として生きるミカは、いずれかのタイミングでこうして古い骨肉を削ぎ落とす必要がある。一種のアンチエイジングだが、そのための力をこうして東洋西洋問わず古今東西の大妖達から借りる関係上、どうしても陰の気――女体が適している。
世の中に戦火が溢れ、ある種の力が満ちていた頃にはそれでも維持できていた肉体も、今はこうして大妖怪の溜め込んだ力を奪わないことには立ち行かなくなってしまう。
威厳もへったくれもないが、しかたがない。
「思うところもないことはないが……、おっと、私の抜け殻、さっさと処理してくれるか」
「御意に」
少女は平伏したまま、つつつと滑るようにミカへと近付いた。
「我が主様よ、至高の王よ。嗚呼、願わくば、暫し、暫し御目溢し願いませ」
これまでにも増して芝居がかった口調で、まるで謳い上げるかのように少女は声をあげる。平伏したまま、じっと待っている。
これもまた、ほんの数百年前まではもう少し大層な儀式を伴っていたはずだが、と例にもよって苦笑を浮かべるミカではあるが、唯一と言ってもいいほど、目の前で平伏する少女が喜んで行う事でもあるので、表情の割にそう満更でもなかった。
「いいさ、良きに計らえ」
「有難き幸せにございます」
ベロリ、と少女が凄惨な笑みで唇を舐めた。妖しく光る眼光は、ミカが排除した肉片に向けられている。
そして、ゆっくりと口を、――おおよそ人間ではありえないほどに大きく開かれた口を近付けた。
常人には直視に耐えぬその光景を、しかしミカは愛おしそうに見届ける。
肉を裂き、骨を噛み砕き、咀嚼し、味わうように食べる少女が血の一滴まで丁寧に舐め取り、それを飲み干す頃には、辺りに散らばった肉片は綺麗サッパリ無くなっていた。
満足気な少女は、主の前でぺろぺろと指を嘗め回すような真似はしない。
「けぷ。……失礼」
ただし、気が緩んだのだろう。可愛らしいゲップをひとつ。ついにミカは破顔した。
「はっはは、ははははは! いや、気持ちのいい食いっぷりだ。羨ましい。私は霞を食って生きてるようなものだからな」
笑いながらミカが言った。
「お目汚しいたしましてございます。……さて、これにて終いにございましょうか?」
「……いや、どうだろうな。そこで嘔吐いている奴に聞いてみるか?」
ミカはそう言って顎をしゃくった。