第5話(終) 八月と我が家
8月の第1週、水曜日。吉見は定刻にやって来た。いつものように、「本日もよろしくお願いします」と挨拶をする。俺もいつものように、適当に返した。
吉見は、玄関に足を踏み入れるや否や、顔をしかめた。
「妙に息苦しいですね。鈴木さん、今度は何を抱えたんですか」
ああ、と俺は呻いた。
そうだ。俺は、吉見に、この家政婦に話さなければならない。それが吉見の仕事だからだ。今までとは違う。他の誰でもない、俺自身の話を聞かせてやらなければならない。
「ああ、吉見」
自分で出しておきながら、痛々しいほど悲痛な声だと思った。しかし、気持ちのまま素直に出した声がこれなのだから、実際、痛々しいほど悲痛な気持ちなのだろう。
七月の第4週、土曜日のことであった。つまり、柳と凛子の喧嘩の翌日である。翌朝、家族会議が開かれていた。珍しく、朝食の席に一同が介していたのだ。
金曜日の夜は、吉見との通話を終えたあと全員で団子になって眠ったため、全員一緒の朝ごはんとなることは不思議な話ではなかった。
最初に重々しく口を開いたのは、凛子であった。
「もう知ってると思うけど」いつも元気のよい凛子の唇が荒れていた。一晩でそんなに変わるものかと思うほど、不健康な顔つきだ。「お母さん、浮気をしていました」
子供達は、誰も喋らなかった。今更、衝撃もなかった。和泉だけ、もぞりと動いて椅子に深く座り直した。誠は、鼻から小さく息を吐いた。
「それで、しばらく頭を冷やすために、実家に帰ろうと思うの」
「えっ?」驚きの声を上げたのは香澄だった。
「元々、冬には皆で私の実家に引っ越すつもりだったのよ。1ヶ月くらい前、おばあちゃんが来たでしょ。元気そうに見えたけど、もう大分体が悪いから、まだ多少は元気なうちに行って、仕事を教わって、私がおばあちゃんの面倒を見ながら仕事も覚えようと思うの」
皆には少し苦労をかけてしまうけど、と少し語尾が落ちて行った。もう二度と相手の男とは連絡を取らないと誓うと。そのけじめとして、一度家からは出て行くと、そんな内容のことを話した。和泉や旭、歩は、何も言えなかった。柳は口をキュッと真一文字に結んでじっとしていた。
「一つだけ聞いていい? お母さんさ、浮気してるとき、私たちのことや、お父さんのことなんてどうでもよかったの? お母さんは、私たちのことが嫌になったから浮気したの?」
違う、凛子は初めて声を大きくした。
「あなたたちのことや、お父さんのことを忘れたり、蔑ろにしたことはただの1秒だってありません。あのときだって、もちろん今だって愛しているわ。本当よ」
凛子の強い光をもった瞳が揺れていた。香澄は似たような光を凛子へまっすぐ向ける。「それなら、」光が凛子を細く突き刺す。「それなら、逃げないでよ」
凛子がたじろいだ。逃げる、と口の中だけで繰り返す。
香澄は言った。凛子の浮気によって作りだされた家族の不信感、どこか一歩引いた雰囲気。間違いなく、少し前とは”家族”としての何か大きな形が変わっていた。その気まずさからそれっぽい理屈をつけて逃げ出す気なのか。あなたが原因であるくせに。
「俺も、母さんだけ田舎へ行くというのは賛成できないな。こんなふうになってしまったからこそ、家族は皆一緒にいるべきじゃないの」
誠も、静かに優しく、小さな子供に諭すように言った。
それに同調するように、子供達は次々と口を開いた。最後に和泉が、震える手を膝の上でギュッと握りしめた。背筋を伸ばして、真一文字に結んでいた唇をゆっくりと解いた。
「お母さん、私、もう部屋汚くしないよ。バナナもオレンジも腐らせないよ。だから、どっか行っちゃわないで。私も連れてって」
母親と離れまいとする子供達を、柳は優しく見つめていた。こうなることが分かっていたのだろうか。「ほうら、言っただろ」なんて、自信たっぷりな顔をしていた。
結局、この家族会議は「家族全員で田舎に引っ越す」という点で決着がついた。目的は、祖母の介護と、それぞれの新たな生活のためだ。
「……まさか、家族が引っ越して行ってしまうことがショックだったのですか」
「ちげえよ。いや、違くないけど、俺が一番ショックだったのは、今から家族がいなくなっちまうってことじゃない。ずっと前から『いずれ引っ越す』ということが分かってたことさ。いつかはいなくなる、ずっと一緒じゃない、そんな気持ちで生活してたことさ」
突然の別れは仕方ないことだ。生きている以上、誰にでも起こりうることだ。
しかし、俺には、突然別れが来たわけじゃない。あらかじめ決まっていた別れを、突然提示されたのだ。俺ばかりずっと一緒にいられると思って、家族の方はとっくに俺じゃなくて別の家を見ていたわけだ。
俺はただの家、そんなこと分かっているはずなのに、どうしてこんなに悲しいのか。
「俺は売られるんだろ? そして、吉見、お前はそのために来たんだろ? いつか来たる別れのために、俺を”より住みよい家”とやらにして、高く売りさばくために!」
俺はあいつらのために生まれて来たんだ。あいつら、てんで駄目なんだ。
和泉と旭の双子は、強い個性を持ってるくせに、妙なところで人の目を気にしすぎる。すぐ傷ついちまう。
歩は学校なんて枠に囚われて、未だに大事な才能を燻らせてるし、香澄は真面目な自分の性格が自分の大切な長所の一つだって気付いていない。誠はしっかりしているのに家族に気を使いすぎだ。話したいことなんてなんだって話せばいい。
柳と凛子は大人のくせに、大人だから不安定で、すぐボロボロになって、迷って、喧嘩もする。
駄目なんだ。俺が、いつまでも見守ってなきゃ。なあ。
なあ!
「吉見が来て、吉見と喋るようになったからかな。いつの間にか無意識のうちに”俺でも家族になれる”なんていう気持ちになっちまってたんだよな。でも、違う。家は、家族の器でしかない。大切なのは、家族だけだ。当たり前のことだけど、当たり前のことだから、やっぱりちょっと悲しいのさ」
部屋に上がり込んで掃除を始めようとしていた吉見は、その手を止めた。バケツの中で雑巾を硬く絞る。何かいうのかと思ったが、吉見は黙ったままだった。
俺が「あっ」と思った時にはもう遅かった。それくらい、俊敏な動きで、吉見は冷たい雑巾を壁へ投げつけた。
びたん、と雑巾が一瞬壁に張り付いて、ポトリと落ちる。
女から平手を食らったのは初めてのことだった。
「大家族というのは、凄くひもじいか、凄く金持ちかのどっちかなんです、たいてい。私はここに雇われると聞いた時、ああ金持ちの方か、なんて思いました。何しろ、ただの家政婦でなく、”私”を雇ったんですから。でも違いました。少ない金をなんとかやりくりして、ギリギリで私を雇ってるんです」
吉見は、そこで一度大きく息を吸った。目が変わる。綺麗な金髪の向こうに青い炎が見える気がした。怒っているのか。
「あんたなら、この家の家計くらい分かってんだろ。家をちょっとばかし高くするためだけに、この私を雇うはずがねえ! じゃあ何のためか? 全部、”あんた”のためだよ」
仕事用の猫被りが剥がれた。これは、吉見の本当の、心からの声であった。作り物でない荒い吉見の言葉に、心が揺らされる。
「私の受けた依頼はこうだ。”去らなきゃならないこの家に出来ることは、綺麗にしてあげること、心残りをなくすこと、もう心配かけさせないこと”。それで、”より住みよい家”になって、家がもっと幸せになれるようにして下さい、っていう、そういう依頼なんだ」
室内の湿度がみるみるうちに高くなっていく。俺は必死で涙を堪えた。吉見に涙を見られるわけにはいかない。
「ぶっちゃけ、私は初めて見た。だって、私みたいに喋れるわけでもないのによ。こんなに、ここまで家族に愛された家を初めて見たぞ。間違っても、”捨てられた”なんて悲しみながらいきるんじゃねえ。お前は”こんなに愛されたんだ”と胸を張って、誇りをもって次の家族を受け容れやがれ!」
ああ、と俺は呻いた。
「ああ、吉見」
自分で出しておきながら、随分と歪んだ、ださい声だった。
「雨漏りですか、やめて下さいよ。屋根の修理をしなくちゃ」
「うるせえ、外は快晴だ」
ポタリと吉見の頭に水滴が、一滴だけ落ちて行った。
八月の第二週、家の中はバタバタしていた。吉見も荷造りを手伝った。
八月の第三週、吉見との契約が打ち切られた。それでも吉見が来て、双子と遊んで、歩の絵を見て、誠の悩みをきいて、香澄と音楽を聴いて、そうして帰った。
八月の第四週、あっという間に家族がいなくなって、俺は空っぽになった。それでも吉見が来て、玄関の前でチラリと俺を一瞥して、帰って行った。
空っぽになった俺に、朝日が差し込んでいた。家具も家族も何もないから、どこまでも明るく太陽に照らされて、ただ明るかった。閉められた窓から、新しい朝の風が吹き込んでくることもなかった。ぽっかりと空いた体の穴とは反対に、少しだけ満たされた気持ちを抱えていた。
少し向こうの住宅街に向かって、柄にもなく話しかけた。
「どう、俺、愛されてるでしょ」
自分の家族のことで手一杯の家たちは応えなかった。
俺の上にも、日が昇り始めた。新しい一日が始まった。
完