第4話 七月の終わりと不穏
夜。週末には、凛子と吉見で今週分の仕事の確認と、来週の打ち合わせを電話で行うことになっていたが、今日はその時刻が大幅に遅れていた。その上、吉見に電話をかけたのは凛子ではなかった。
「岬さん……!」
歩が、自室の内線電話を外線に切り替え、吉見に電話をしたのだ。普段から部屋にこもりっきりでいることが多い歩の部屋には、内線電話が一台置かれていたので、それを使用したのだろう。近くには和泉と旭もいた。
『どうかしたのですか、こんな時間に』
「岬さんどうしよう、お父さんとお母さんが喧嘩してるんです……!」
えっ、と取り繕わない吉見の声が、受話器の向こうから聞こえた。
「凛子さんと、柳さんが」
吉見の感情が見えない声が帰ってきて、いつもと変わらない無愛想なそれが、逆に子供達を少し安心させたらしい。横から旭が割り込んできた。
「喧嘩っていうか、お父さんが凄い勢いで怒ってて」
「お母さんはじっとしてる……」と和泉。
普段、夫婦喧嘩など滅多に起こらなかった。いつも2人で穏やかに、笑顔のままで問題を話し合った。たいていそれらは、全て後に笑い話に変わった。
今日は違った。
柳は穏やかではなかった。凛子は笑わなかった。それから、子供達は、久しぶりに柳の怒号を聞いた。「子供達のことをどう思っていたんだ」と、震える柳の声だった。自分が怒られているわけではないのだろうと知りつつも、肩や首が強張った。
「止めに入った方が良さそうなのですか」吉見が訊くと、
「い、いいえ、下手に話しかけるより、喧嘩がおさまるのを待つ方がいいと思うんです」歩が答える。口調はしどろもどろながら、意見はハッキリ持っていた。中学生としての歩の強さの一つだろう。
「分かりました。では、放っておきましょう。ちなみに、喧嘩の原因は分かりますか」
歩と旭と和泉は、受話器の前でごにょごにょと話し合った。3人とも、詳しいことは何も分からないのだ。旭だけは、「そういえば昼間、父さんから電話が……」と言いかけたが、「やっぱりこれは良いや」と口をつぐんだ。
そのときであった。「浮気です。母さんの」と割って入ってきたのは、隣室にいたはずの誠と香澄であった。
「ごめんなさい、スピーカーにして話していたから、私にも声が聞こえてきちゃって」
香澄はそういうと、あぐらをかいて3人のそばに腰を下ろした。和泉が真っ先に誠へ近付き、甘えるように体を寄せた。
「浮気って、どういうこと」
このところ、柳と二人きりで喋るとき、どうも様子がおかしかったらしい。
何かよくないことに巻き込まれでもしているのではないかと危惧した柳は、今日の夕方、二人で肩を寄せ合い、腕を組むようにして出てくる凛子と若い男の姿を目撃した。
そこは、普段の、何の心配もしていない柳ならば絶対に踏み入れることのない地域であった。
それから帰って、凛子に直接話を訊くことにした。話をきいたら、柳は絶望した。凛子は逃げも隠れも臆しもしなかった。項垂れて、言い訳の一つもせず、柳のした最悪の想像をあっさりと認めた。
先ほどまで一階で話を盗み聞きしていたらしい。誠は、それらのことを淡々と話した。声に感情は無かった。
俺の中で、あのときの記憶が蘇る。誠と一緒に凛子の携帯を覗き込んだあの夜。ヴーッというバイブ音のあと、画面上部に表示されたのは、「凛子」「会いたい」「愛してるよ」直球な、男からのメッセージであった。
心のモヤモヤは、確かな形となってしまった。何かの間違いなどではなかった。これが現実だった。
夜の鈴木家の一角に、南極と間違うほどの静寂が広がっていた。雨粒の一滴も落ちそうもなかった。「悲しい」とか「裏切られた」とか、そんな簡単な言葉では表し尽くせない、複雑な感情が、この場から音を取り去っている。
どれほど時間が経ったろうか。階下からは、もう荒ぶった声は聞こえない。その代わり、聞き取れそうで聞き取れないくらいの声量で、ぼそぼそとずっと何かを話しているようだった。
二階の静寂を破ったのは、吉見であった。
『そう神経を張り詰めてはいけません。これからが不安で眠れないというのなら、私が何かお話でも致しましょう』
小さな子機から、吉見の優しい声が溢れ出していた。充満した吉見の音色が、少しだけ筋肉の萎縮を和らげた。
『それでは、兼ねてよりリクエストのあった、こんなお話はいかがでしょう。”家と会話する”力を手に入れた女の子のお話です』
今、その話をするのか。凛子の浮気というショッキングな事実より驚くことはないと思っていたのに、うっかり驚いてしまった。
確かに気にはなっていたが、子供達に話したところで、この子供達がそんな突拍子も無いことを信じるだろうか。いいや、信じなくてもいい。ただ、この子供達は、吉見の優しい声を聞きながら、それだけで、ゆっくりと休めばいいのだ。
吉見は一度咳払いをした。咳払い、などという人間らしい仕草は、おおよそ吉見には似合わないので、おそらくこれはわざとだろう。
『あるところに、1人の女の子がおりました。女の子の両親は、家事の出来ない大人でした。かといって、家政婦を雇う余裕なんてものもありませんでした』
吉見は、ぽつりぽつりと昔のことを話し始めた。女の子──つまり、吉見の話を。
ある夏の日だったそうだ。ちょうど、この時期。夏休みも中盤に差しかかろうとしていた。その日は、記録にも残るほどのとても暑い日であった。
両親はどちらも仕事で不在にしており、遊びの約束もなく、ただ二階にある自室でゴロゴロしているだけだった吉見が、その異変に気付いたのは、午後2時頃のことであった。
『女の子は、『頭がぼんやりする』と思いました。妙に気分は高ぶっているのですが、上手く物事が考えられません』
そのうち、視界もまごつき始めた。ふくらはぎが小刻みに震え、手もうまく動かせない。指先が、ピクリとも。
熱中症であった。
当時の吉見には、「水をとらなければ熱中症になってしまう」という発想は無かった。なにしろ、吉見の親は家事をしない。仕事も不定期だったため、吉見には「気付いたら、もしくは暇があればご飯を買い与える」という生活をしていた。学校の給食もあったため、お腹の空いた状態が続くことも滅多に無かったため、「ご飯を食べなければ死ぬ」という発想もなかったくらいだ。
水も飲まず、飯も食わず、風の通らない太陽の直接当たる部屋に1人いたとなれば、熱中症にかかったといっても驚かれはしないだろう。
『そのときでした。『だるいから眠ってしまおうか』と考え、女の子は床に横たわっていましたが、ふいに声が聞こえました。お母さんの声ではありません。お父さんの声でもありませんでした』
その声の主こそ、”家”であった。その瞬間こそ、吉見が初めて”家”の声を聞いた瞬間であった。
家は、必死に何かを叫んでいた。だんだんと、横たわる吉見にもその声が明瞭に聞こえるようになってきた。
「……い…おい!」
家は吉見に呼びかけた。吉見は家を見回した。誰が喋っているかは分からなかったが、力強い声だった。
「岬! 死ぬな、がんばれ! あそこの電話機まで這っていけ!」
岬は誰にともなく頷いた。「なるほど、このままでは死ぬのか」と初めて理解した。家の言うがままに電話をとって、ボタンをプッシュした。119番であった。
どのような応対をしたのか、吉見はよく覚えていない。ただ、家の言ったことをそのまま繰り返して電話の向こうに伝えただけだった。
救急搬送された岬は、一命をとりとめ、数日だけ入院した。両親には大泣きされ、溢れんばかりの謝罪を受けると同時に、夏場の心得を叩き込まれた。
そうこうして家へ帰ったとき、家には大きな変化が生じていた。家が喋るようになったのだ。あのときの声が家のものだったのだと、吉見はそのとき家から直接聞いた。
「実は俺、前からよく喋れるんだぜ。あのときお前が気付いてくれて本当によかったよ」
「じゃ、あのとき『死ぬながんばれ』って助けてくれたのは、あなたなの」
「ああ、そうさ」
それから、家はたくさんのことを教えてくれた。家は掃除をしなければ汚くなること、服は洗濯をしなければ汚れること、人の手で作った温かいご飯はとても美味しいということ。
吉見は、家に家事を教わった。買い物の仕方から、料理の仕方、掃除や洗濯、ゴミ出しに電球の変え方、あらゆることを教わり、効率の良い道具や方法のアドバイスも受けた。
小学校を卒業する頃には、吉見は両親の実力を完全に超えていた。同時に、毎日、ほとんど四六時中を共に過ごす家に影響され、口調は変動していった。
男勝りな性格ではないぶん、吉見の口調はかなり浮いていたが、家は特に指摘したりしなかった。ただ毎日、ただ生きていた。
『こうして女の子は、とっても高度な家事の技術と、家と話す能力を手に入れたんです。女の子は、自分の家以外の声も聞くことが出来ました』
吉見は知った。”家はみんな、喋ることが出来る”。そういうものである、と。しかし、どうやら吉見のほかに家の声を聞くものはいないようであった。
『家は喋るんです。考えるんです。生きているんです。だから、大丈夫です。皆さんは今、家にいるのですから。何も心配することはありません。皆さんは今、家にいるのですから』
七月の終わり、真夜中の静寂を、一人の女の子の優しい声が包んだ。