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第3話 七月と長女

七月の第4週、金曜日であった。


誠は家にはおらず、珍しく歩も出かけていた。双子は相変わらず元気に遊びまわっているし、受験生の香澄は今日も夏期講習である。つまり、今家にいるのは吉見ただ一人であった。


「なぁ、吉見」


リビングのそこそこ大きな窓を拭く吉見に声をかけた。吉見は、「はい」と返事をする。


「お前、どうしてこの間、”凛子の検索履歴を見ろ”なんてアドバイスをしたんだ? 凛子の検索履歴なんて、俺でも知らないことだ」


「簡単なことです。この家ではない場所で、その事実を知ったんですよ」


「この家ではない場所?」


「家政婦紹介所です」


 家政婦紹介所にて、初めて顔合わせをしたとき、凛子は手続きの待ち時間ずっと何かを熱心に調べていたのだという。何を調べているのか聞くのは憚られたため、結局それを知ることはなかったが、おそらく歩のことだろうと目星をつけ、誠に話したのだそうだ。


「え、いや、それでいくと、本当に凛子が歩のことを調べていたのかどうかなんて分からないだろ」


「凛子さんは家族のこと以外、全く興味がありませんからね。歩さんのことを調べていたに決まっています」


「ちょっと待てよ。”凛子は家族のこと以外全く興味がない”って、それが前提のように話されても。そこの根拠を聞きたいんだよ」


「……見て分からないんですか。あんなに家族のことしか考えていない人、相当珍しいですけど」

「はあ? 見てわかんのかよ?」


「どこの世界に、忙しい仕事の合間を縫って子供と一言や二言話しただけで、その子が何を大切にしていて、何に夢中になっていて、何に対して不安を感じていて、何を嫌悪しているかまで把握してしまう母親がいるんですか。凛子さんが昔から家族のことしか考えていなくて、そうやって向き合ってきたからこそ出来る芸当ですよ」


 確かに凛子は、きっと誰より家族のことを分かっているが、それは凛子が凄いだけではないのか。あるいは、”母”という存在が凄いということではないのか。


凛子とそれ以外を思い出し、比べながら、俺は吉見を見た。


「なるほど、愛されている側の人間は、気付きにくいんですね」


 吉見は1人で納得し、頷いた。愛されている側の人間は気付きにくい、なんていう吉見の言葉が分からず、少しモヤモヤする。何に気付かないというのだ。


「まあ、俺は人間じゃねえしな」


モヤモヤの理由をそうこじつけてみたが、すぐに吉見は真面目な顔をして言った。


「人間でなくとも、貴方も愛されていますよ。これ以上ないくらい」


 俺は黙った。なんと返すべきか迷ったのだ。


 何しろ、俺は家である。愛されている、と言われても、それは”家族が帰る場所”が愛されているのであって、俺そのものが愛されているわけではない。家族が愛し合っているにすぎない。


 しかし、吉見があまりにはっきりきっぱり「貴方も」と言い切るものだから、つい「そうかな」などと思ってしまった。


「それならさ、凛子は、分かっているのかよ? 誠が相談したがってる真面目な話ってやつ」


 水曜日に誠が吉見に零していたことだ。凛子にしたい大事な相談があるが、笑われるのが嫌で切り出せない、と。


「相談の内容まで見通せる人がいるわけないでしょう。超能力者か何かですか」


 たった今ここで俺と、つまり家なんかと会話している人間が言う台詞ではない。


 吉見は掃除の手を止めなかった。


「……それなのに、いつもみたいに聞いてはこないんだな。『貴方なら知っているでしょう、教えてください』つって、偉そうに」


「私に聞いて欲しいんですか? 『貴方なら知っているでしょう』なんて」


「そういうわけじゃねえけど!」


 吉見は面白がっているのか、またフッと鼻で笑った。ううん、やっぱり、相変わらず、本当に、全くもって、可愛くない。


「誠さんが相談相手は、凛子さんや柳さんでなければ意味がありませんから」


 ん、と俺は疑問符のついた相槌を打つ。


「まるで、吉見は誠の相談内容を知っているような口ぶりで話すんだな?」


今度は、くすりと笑った。くすりと笑って、雑巾を濡らしに立ち上がる。


「分かりませんよ。分かるわけないじゃないですか」



「あぁあ、もう!ただいま!」


 玄関から怒号混じりの挨拶が聞こえてきた。香澄の声だ。この時間に家に帰ってくるなんて珍しい。かなり苛立っていて、同時に疲れているようにも見える。


「おかえりなさい、香澄さん。昼食は済ませましたか?」


「あっ……。岬さん、そっか、今日はお仕事の日なんですね。えーと、ご飯はまだです」


「では、何か簡単なものを作りましょう。何がいいですか?」


「んー、リクエストしたら聞いてくれるんですか?」


「ええ、もちろん。時間がかかってしまうかもしれませんが」


「それなら、私、とにかくめちゃくちゃに辛いものが食べたいです!」


「辛いものですか」


 吉見は少し考えたあと、すぐに調理に取り掛かった。鍋とフライパンを用意している。何をつくるつもりなのか。そういえば、香澄は確か甘党だったはずなのに、一体どういう心境の変化なのか。


 香澄が部屋へ戻って携帯をいじり始めた。今リビングにいるのは吉見一人なので、そろそろ例のあれが来るかと身構えていたが、吉見はなかなか口を開かなかった。


 あんまりじれったいので、俺の方から声をかけてしまった。


「なあ、吉見、今日はどうしたっていうんだ。いつもならすぐに『さあ、お話を聞かせてください』なんて言って来るだろ」


 吉見は、くすくすと笑った。


「その言い方だと、まるで貴方が話したがっているみたいですけど」


「おいおい、何馬鹿なことを言ってんだ」


「当然です。今まで貴方は、大切な家族が悩んだり困ったりしているのを見ていながら、見ていることしか出来なかったんですから」


 よく考えてみてください。実は元々ウィンウィンの関係だったんですよ、私たち。と吉見は胸を張った。


 吉見は鈴木一家のことを何も知らないが、この家族に手を貸すことができる。俺はこの家族のことをほとんど何でも知っているが、手を貸すことが出来ない。


「さあ、どうぞ、話したければ話してください」


 得意げに、いや、いつもに増して偉そうになった吉見が言った。完全に立場が逆転してしまったかのように見えるが、渋々俺は口を開く。


「香澄が今日あんなにイライラして帰ってきたわけも、俺はなんとなく心当たりがある」


 香澄はハンドボール部だった。主将を務めており、高校生活の2年と半年、ハンドボールに青春を捧げていたと言っても過言ではない。


 夏休みが始まる一ヶ月ほど前。つまり、六月末。高校総体のための地区予選が開かれていた。結果はあっけなかった。初戦敗退。香澄自身も、けろりとした顔で帰ってきた。


「まあ、うちの学校弱小だしね、相手超強かったしね」


 香澄は、応援に来ていた和泉や旭、凛子などにへらりと笑ってみせた。しかし、誰も香澄に笑い返したりしなかった。「相手、強すぎたよね」「あんなの無理だよね」誰も、そんな適当なへんじは出来なかった。

香澄は、早足で階段を登ると、自室で一人、ベッドに倒れ込んだ。声を押し殺して、月明かりもない暗い部屋で、ただ枕を濡らした。たった一人で、とめどなく流れる涙を拭うこともしなかった。鼻水が垂れても、指先一つ動かさなかった。


 香澄を労うための豪華な夕飯が出来ても、誰も香澄を呼びに来なかった。ただ香澄の部屋の前に温かいまま、食事がぽつんと置かれていた。家族は皆香澄が泣いていることを知っていたが、香澄をただ泣かせることしか出来なかった。


 香澄たち3年生はそのまま、部活を引退した。


「つまり、六月の敗退を引きずっている、ということですか」


「実力が足りなくて、それでも本気でぶつかって、やりきって、それで負けたんなら、きっと香澄もこんなに長く引きずっていやしないだろうよ」


「香澄さんは本気でやりきれなかったのですね」


「そうだ」


 四月、香澄が泣いて帰って来たことがある。


 一応言っておくが、香澄は普段滅多に涙を見せない。映画で感動しても、ずずっと鼻をすするだけだし、嫌なことがあっても眉間のシワ以外にそれを察する方法はない。香澄を泣かせるには、玉ねぎを切らせることくらいしか方法はない。


 その香澄が、泣いて帰って来たことがある。偶然家は空っぽだったので、あの日の香澄の涙を知っているのは俺だけだ。


 なぜ香澄は泣いていたのか。


 香澄が、一人で誰かに対する不満を泣き喚いていた。俺はこれにも驚いた。香澄は滅多に声を荒げないし、誰かに対する愚痴も悪口も言わないからだ。


 『どうして真剣に練習してくれないの』『ハンドなんてどうでもいいと思ってるの』『私らの2年間はなんだったの』『勝てるわけないじゃんそんな態度で』


 泣きじゃくっているせいで聞き取れないところも多かったが、断片的に聞き取れたところを元に推理してみると、どうやら3年生の半数以上が受験を理由に部活をやめてしまい、残りの半分や後輩がまともに練習に参加してくれないのだということらしい。2年生の時までは、先輩の背中を追って共に一生懸命頑張っていたはずなのに、自分たちが上級生になった途端、「まあ、楽しければいいよね」とどんどん堕落してしまっているのだという。


 挙句、真面目に練習している香澄の方が「つまらない」だの「頭が硬い」だの「自分勝手」だのと文句を言われてしまう始末であった。


 『ふざけんなよ!』と家中に声を響かせたあの日の香澄を、俺はよく覚えている。


「なるほど、そんな状態が改善されないまま大会に臨んで、呆気なく負けたとあれば、不完全燃焼に決まっていますね」


 真面目で一直線な香澄のことだから、どうせ「チームが負けたのは自分がだらけた皆をまとめる力が無かったからだ」なんて責任を感じているんだろう、とも予想できる。


 吉見は、茹で上がった麺を大皿に取り出し、フライパンの中に完成させたソースを乗せた。香澄のリクエスト「辛いもの」はペペロンチーノに落ち着いたようだ。


 よくもまあ冷蔵庫に材料が入っていたものだと思うが、思えば冷蔵庫はいつも「何に使うのか」と思うようなものばかり溢れていた。凛子の趣味だろうか。


 吉見は、スパゲッティをテーブルに出し、葉野菜の簡単なサラダを隣に置くと、二階へ上がった。香澄の部屋の戸を叩く音がする。


 香澄は「ありがとうございます」と吉見に笑いかけると、重い足取りのままリビングへ降りてきた。テーブルについて手を合わせたが、楽しく食事という気分ではないようだった。


「私、実は辛いもの、けっこう苦手なんです。でも、なんかイライラしてて、そういうものが食べたくなっちゃって」


 苦笑いのまま言い、サラダから手をつけた。それから、ゆっくり、遠慮がちに麺を口へ運んだ。


「あっ、美味しい」


 思わず、といったように溢れたその感想に、吉見はにっこりとした。「何よりです。実を言うと、辛い料理はあまりお好みではないということは知っていましたので、食べやすいお味にしています」


「えっ、お母さんてば、そんなことまで話すんだ?」


 いいや、恐らくあいつは、壁だの家電だのの話を聞いたのに違いない。


「このお宅には、心の声がダダ漏れな方がおりまして」


「心の声……?」


「ふふ、なんでもありません。香澄さんの好みについては、話の流れで教えて頂いたんです」


「はあ」


 吉見のニヤニヤした顔からして、どうやら情報源は俺らしいが、はて、いつ吉見に香澄が甘党だなんて話をしたか。


「どうです、辛いものでイライラは解消されますか」


「うーん、ふふ、やっぱり甘いものの方が良さそう、ですかねぇ」


 香澄は曖昧に笑った。どうやら虫の居所は依然として悪いままらしい。


「甘いものですか。ちょうどお菓子を作る予定がありましたが、香澄さんの分も用意しましょうか」


「えっ、岬さんって、そんなお仕事もされるんですか!」


「いえ、旭さんに教えて欲しいと頼まれまして」


 吉見がそう言うと、香澄は納得したように笑顔を見せた。「このところ、あの双子は岬さんの話したかばかりしますよ。よっぽど懐かれてるんですね」


「ええ、ありがたいことに」


 それじゃあ、と香澄は言った。「お菓子が出来たら、私も頂いちゃおうかな」


 香澄は、麺をフォークにくるくると巻きつけた。口へ運ぼうとするとき、巻き付いていたはずの一本が麺の群れから剥がれ、空中で自由になる。


 だらしなく垂れ下がった麺を見て、香澄はふと手を止めた。


「やっぱり、おかしいんですかね」


 独り言のように言うが、これもどうやら吉見に話しかけているようだった。この家族はどうも、自分に語りかけるときと相手に話しかけるときとの口調がほとんど同じだという節がある。


「最後の一年なんだから、本気でハンドやりたいっていうの、おかしいんですかね」


 辛さ控えめのペペロンチーノだが、それでも香澄には辛いのだろう、香澄は何度も水を口に含んだ。吉見は何も言わず、香澄の隣に座った。


「練習中に遊んでたら、ダラダラしてたら、むかつきますよね。それなのに『試合には勝ちたい』なんてヘラヘラ笑ってるの、むかつきますよね」香澄は水を飲み干し、机に置かれた『むかつく』という言葉を潰すように力を込めてゆっくりとコップを置き、しばらく手を離さなかった。


「お代わり、いりますか」


 話を遮らないように、控えめに吉見が言った。香澄は「ありがとうございます」と頷く。


「受験勉強のため、って部活をやめてった子が、この季節にも毎日放課後は遊びに出て、補習中も喋ってばっかで、夏休みも、今日だって、ずっとずっと遊んでたら、そんなの、むかつくじゃないですか……!」


 おっと、そっちは俺も初耳だ。今日のイライラは大会に勝てなかった過去の悔しさを思い出してのイライラではなく、遊び呆けている元仲間に対するイライラだったわけか。


「私が真面目すぎたんですか。硬すぎたんですか。だから皆、誰もついてきてくれなかったんですか」


 香澄はコップを握りしめた。そのコップの中に、吉見は冷たい水を注ぐ。吉見は、つとめて冷たい声で香澄に言った。


「香澄さん、正直に答えてくださいね」


 そして、問いかける。「私の第一印象、『真面目』か『不真面目』だったら、どちらでしたか?」


 香澄は、突然の質問に困惑したようだった。しかし、申し訳なさそうに眉を落として、小さな声で答えた。


「『不真面目』の方です。金髪だったし、凄く派手だったので、あの。もちろん今は、岬さんの仕事ぶり見てるし、そんなこと全然思ってないんですけど」


 俺も戸惑った。こいつは突然何を言いだすんだ。


 しかし、双子と話していたときの吉見を思い出す。あのときも、切り口は妙なところからだった。


 戸惑っている俺が大部分ながら、ここからどう進めるのだろうと期待している俺がいるのも確かだった。


 吉見は、そんな俺の心の内を読んでいるのか、一瞬、こちらを見てニヤリとした。それから、真面目な声で続ける。


「私、家政婦を始める前は、いわゆる夜の世界にいたんです。そんなに深いところに勤めていたわけではありませんが、服や髪はその時の名残でして」


「えっ、そうなんですか。知らなかった」


 言われてみれば、そんな雰囲気をもっているような、もっていないような。単に美形だというだけかもしれない。


「自分で言うのもあれですが、私はそこそこ顔もスタイルも良いので、そこそこ稼げたんです」


 確かに自分で言うことじゃないが、納得できる話だ。


 どうしてわざわざ稼げる業界を去ったのか、と初めて吉見を見たときと同じような疑問を抱いた。これからが稼げる歳であるはずなのに。


「私は当時も今も、真面目に働いていました。しかし、見た目では分かりません。真面目さは、外から見ているだけでは分からないんです」


 香澄さんの元チームメイトは、ハンドボールの練習に対して真面目ではなかったのでしょう、と吉見はいう。しかし、とも言った。


「もしかすると、本気でサボっていたのかもしれません。真面目に、必死に遊んでいたのかもしれません。真面目かそうでないかは、何を基準に見るかによって変わってしまうことがあります」


 香澄は、むっとした。残り少なくなった麺を寄せ集める。サラダの器は既に空になっていた。


「それじゃあ、他のことに、遊ぶことに真面目だったから仕方ない、諦めろってことですか」


 まあまあ、話はまだ終わってませんから、と吉見は宥めた。顔はもうあまり緩んでおらず、いつもの無愛想な表情だった。意外ところころ表情の変わる吉見にしては珍しく、硬そうな頰だ。


「不真面目そうな私のいた業界の人の多くは、とても真面目でした。しかし中には、もちろん不真面目な人もいました。香澄さん、そういう人は、どんな人だと思います?」


 香澄は、少し考えた。最後の一巻き、フォークに麺を巻きつけながら、「うーん」と唸る。


「やっぱり、すっごく可愛くて、真面目にやってなくても稼げちゃう人じゃないですか」


 吉見はふふっと声を出して笑った。「凄い」とにっこりした。「真逆です」


「どの業界でも、当たり前のことです。真面目じゃない人は、稼げませんよ」


 もちろん、例外がないことはありませんが、と補足しておいてから、吉見はどこか遠くを見た。香澄は、ペペロンチーノをもぐもぐやりながら、途中で顔をしかめ、水で流し込んだ。


「もしも、香澄さんの元チームメイトが、本当に真面目でなかったとしたら、その方たちはきっと、何も稼げなかったことでしょう。しかし、香澄さんは真面目に頑張りました。あなたは、教科書では教えてもらえないような、それでいて人生において有益な何かをしっかり稼げたんですよ」


 目を点にして話を聞いていた香澄は、少ししてプッと吹き出した。


「岬さん、かっこいいなぁ、あははっ」


 吉見は心外だという顔をした。確かに吉見は自分を褒めて欲しくてそんな話をした訳ではないだろう。


「とにかく何が言いたいかと言いますと、真面目は良いことだ、ということです。あなたの真面目さは誇れるものですよ」


 吉見の言葉を聞いて、香澄は瞳を輝かせて微笑んだ。「はい」と小さいながらも、力強く返事をする。ご馳走様でした、と手を合わせてから、今度は吉見と目を合わせた。


「私、受験勉強がんばりますね。それで、岬さんみたいになりたいです!」


「駄目ですよ、私みたいな小者を目標にしては。もっと大きな人間を目指してください」


 純粋な香澄の声に、吉見は即答した。”家と喋れる”なんていう特殊能力をもち、それを活かしたとんでもない仕事をしておきながら、随分自分を卑下するものだ。


「えー、じゃ、岬さんは目標にしている人とかいるんですか?」


「いますよ」


「誰なんです?」


「レディー・ガガです」


 確かに、それはビッグな人物だ。吉見と比べるには大きさが違いすぎる。


 香澄は、一瞬驚いたあと、吉見の長い金髪を見て、「その派手な装いはもしかして、前の仕事の名残でもなんでもないんじゃないですか?」と笑いかけた。吉見は質問には答えずにこにこしていた。


「じゃ、私もレディー・ガガ、目指そうかなぁ。そうしたら少しは岬さんに近づけますかね」


 香澄は明るい口調で、笑い声を滲ませた。


「いや、それは、何か違うような気がしますが」


 吉見が答えると、香澄は今度、息が出来なくなるほど、目に涙が溜まるほど笑った。


 何がそんなに楽しいのか分からないが、俺は香澄が泣く条件をまた一つ見つけた。とても悔しい時、玉ねぎを切った時、吉見と楽しい会話をした時、である。俺はそれが、なんだか少し、かなり、いや、物凄く、嬉しかった。


「そろそろ勉強再開しますね」と香澄が自室に戻ったあと、俺は吉見に喋りかけた。


「俺さぁ、ますます気になっちまったんだけど、あんたのこと」


 吉見は、香澄の平らげたペペロンチーノの器を水で洗い流している。


「なんのことです?」


 聞きながら、スポンジに洗剤を含ませた。


「あんたがどうやってその能力を手に入れたのかって、前にも聞いたろ。なあ、やっぱり聞かせてくれよ」

「ですから、前にも申し上げた通りです。仕事と関係ありますか? それ」


 吉見は眉間にしわを寄せ、少し力んだまま瞬きをした。スポンジを使って、フォークを泡で包む。


「あんたの仕事は俺を”より住みよい家にする”こと、だったよな」


 俺はニヤリとした。吉見の真似である。


「あんたが話してくれないっていうんなら、俺はあんたのことが気になって仕方がなくて、”より住みよい”なんて状態にはなれないなぁ。これは、家政婦としても困るんじゃねえのか?」


 吉見は、しばし黙った。


 黙って、泡だらけの食器を水洗いしていく。綺麗になった食器類が順番に並んで行き、やがてサラダの器が最後に、水切り台に並べられた。そうしてから、吉見は「はあーっ」と大きく息を吐いた。


「分かりました。それで貴方が満足するなら、お話しましょう」


 タオルで濡れた手を拭った。


 俺は、自分で仕向けたにも関わらず、吉見が素直に応じたことに驚いてしまった。やはり仕事には従順な女らしい。


「ただし、今からは旭さんとお菓子を作る仕事がありますから、まあ、……来週くらいに」


 あっ、と思った。まさかこの女、少しずつ先延ばしにして、結局しれっと何も話さずに仕事を終えてどこかへ行ってしまうつもりなのではないか。


 魂胆は読めた。そうはさせるか。


「分かった、いいぜ。絶対に来週だぞ、ちゃんと聞いたからな」


 あまりに押しの強い俺の態度に呆れたような表情を見せながらも、吉見は頷いた。


 その日吉見は、旭とやたら小難しい名前の、どこかの国のお菓子を一緒に作り、それを香澄に振る舞い、あまりの美味しさに震える香澄を尻目に和泉とかけっこをし、大人げもなく五連勝し、涼しい顔をして帰って行った。


七月も、そろそろ夕暮れが近づいていた。


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