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第2話 七月と長男、次男


 七月の第4週、水曜日だ。


 旭と和泉は夏休みを謳歌しているらしく、朝から弁当をもって遊びに出かけていた。


 吉見がいつものように俺に挨拶をしてからリビングに入ると、ちょうど長男・誠が電話をしているところであった。


 スピーカーになった携帯電話から妻、凛子の笑い声が響いている。


「母さん、俺は真面目に言ってんだ。東京のーー」


 そう声を荒げた誠は途中で言葉を詰まらせる。吉見の存在に気付いたのだ。


「ああ、吉見さん。どうも、よろしくお願いします」


「よろしくお願い致します。お電話でしたら、私は別室に移しますが」


「いやいや、もう終わりますから、お気遣いなく」


 誠はそう言って、電話相手の凛子に断りなく通話を終えた。ポロン、と通話が途切れる音がする。通話を終えてから、大きくため息をつき、次に小さく舌打ちをした。


「あの母親は、本当に……」


 誠は吉見の方を見て苦笑いをする。


「どこから聞いてました? すみません、お恥ずかしいところを。俺は、もう反抗期という年齢でもないのになぁ」


 吉見は顔色一つ変えない。


「大丈夫、凛子様の笑い声以外は何も聞こえていませんでしたよ」


「そうですか。それなら良かった」


 ちょっと出かけてきます、と誠は外に出て行った。外で電話の続きをするのかもしれない。


 誠が出て行ったのを確認して、吉見はすぐにこちらに向き直った。だから、どの方向を向いていても変わらないっつの。


「もちろん今日も、お話聞かせて頂けますよね」


「な、なんの話をだよ」


「もちろん、歩さんと誠さんの話です」


 俺には、何がどう”もちろん”なのか分からない。それに、明らかに悩みを抱えていると分かる歩だけならともかく、なぜ誠の話まで聞きたがるのか。


「貴方だって気になっているでしょう。誠さんと凛……」


 わ、わかった。わかったからちょっと待ってくれ。


 まずその気持ち悪い喋り方をなんとかしてくれよ。お前の本当の口調を聞いてから、そんな喋り方されるとムズムズして仕方ねえんだ。


「……喋り方に関してはどうしようもありません。今は仕事中ですから」


 ゴホン、と咳払いして、吉見は再び言った。


「誠さんと凛子さん、何事かで揉めていますよね? まさか知らないとは言わせません」


「そりゃ揉めることだってあるだろうよ。まさかあの電話だけで決めつけるのか?」


「私を舐めないで下さい。貴方は上手く隠してるつもりなんでしょうが、壁が、床が、家電が、色んなものが教えてくれます。ただ、私は壁とも床とも家電とも喋れない。話せるのは貴方だけなんです。さあ、話してもらいましょうか」


 俺は少し黙った。このまま仕事だからと強く言われてしまえば、話すほかない。なぜなら、この女は家の主人である鈴木柳や凛子に雇われた身であるからだ。鈴木夫妻によって建てられた家である俺が、2人に背くなんていうことが出来るはずがない。


「分かった、話す。その代わり、交換条件だ。大事な家族のことをタダで教えろなんて言わないだろ? 俺が話す代わりに、あんたも、あんたの話をしてくれよ。俺はずっと気になってるんだ。あんたがどうやって”家と話す”なんていうメチャクチャな特殊能力を手に入れたのかってさ」


 吉見は、俺の言葉を聞いたあと、3秒ほど眉を顰めて固まった。


 そして、「嫌です」と突っぱねる。


「私は、この家族の事情に興味があるから聞いてるのではありません。それが仕事だから聞いているんです。どうして仕事をするためにプライバシーを明かさなきゃならないんです?」


 勢いに負けて色々話してくれやしないかと思ったが、そうもいかないらしい。仕方がない、それも仕事だというのなら、なんだって話してやろう。



 一ヶ月くらい前のことだ、と俺は切り出した。


 その日は日曜日で、久しぶりに家族が揃っていた。元気に学校に通っている双子や長女の香澄がいて気まずさがあるのか、歩は二階の自室から降りてこなかったが、久しぶりの家族団欒は雰囲気が良かった。どうでもいいテレビを見たり、本を読んでいたり、お菓子を作っていたり、思い思いに過ごしている、穏やかな休日だ。


 昼も近づいてきた頃、ふと誠が言った。


「そういえば母さん、歩のこと、何か考えてるの?」


「え? 何かって?」凛子は笑顔だ。


「このところ、ずっと学校を休んでるんだろ」


「そうねえ。でも、仮病じゃないのよ」


「分かってるよ、そんなこと。だから言ってるんじゃないか。仮病なら、本人の気持ちでどうにかなることもあるんだろうけど、そうじゃないから、何か手を考えなきゃいけないでしょって」


「あっはっは、大丈夫よ、中学生の勉強なんて、なんとかなるわ。私、中学には通ってたけど授業は全然聞いてなかったし、学校になんて行ってないようなものだったもの。それでも今もちゃんと生きてるし」


「勉強とか、そういうことを言ってんじゃないでしょ。今の学校が無理なら、転校するとかさ」


「でも、歩がどうしても学校に行きたいっていうんならともかく、別にそうでもないんでしょ? 皆行ってるのに自分だけ行ってないのは変だな、一応行っておきたいなって思ってるだけでしょ。ならいいのよ。休みたければ休んでればいいの。きっと時間が経てば突然行きたくなったりするわよ」


「母さんっていつも適当だよな……」


「適当でいいのよ、適当でも生きてるんだから」


 誠は黙った。


 そして大きくため息をついた。


 凛子が鼻歌交じりに昼食のスパゲッティを茹で始めたとき、柳がそっと誠に近付いた。


「誠、分からないかもしれないが、凛子はあれで、ちゃんと考えてはいるんだ。適当だけど何も考えてないわけじゃないんだ。だから、あまり責めないでやってくれないか」


「分からないね。どの辺が考えてるっていうんだ」


 そう言ってから、誠はぽつりと零した。これじゃあ、俺の相談も出来やしない、と。


「それからたびたび、あのような話し合いをする凛子さんと誠さんの姿が見られるようになったと、そういう訳ですね」


 吉見が頷いた。「歩さんの体調不良の原因、つまりストレッサーに心当たりはないんですか?」


 ないことはない、と俺は応えていた。


「歩のやつ、小学生の頃は学校が大好きだったんだ。仲良しの友達が2人いて、よく家に連れてきて一緒にゲームをしたりしてた」


 しかし、中学生に上がって、歩とはクラスが離れてしまった。それも、仲良し3人のうち2人は同じクラスで、歩だけが違うクラスだ。


 歩の出身小学校から進学してくる生徒は多くない。それに歩は元々、友達は多くない方だった。


 学校という小さな世界の中で、心細くないはずがないのだ。


 自分の分からない話で盛り上がる仲良しの友人に、クラスで上手く立ち回れない現状、気の弱い歩にとって、もしかしたら大きなストレスなのかもしれない。


 話を聞き終えた吉見は、ふうんとだけ言った。


「どうだ、役に立ちそうか」


「ま、そこそこ、ですかね」


 ああ、かわいくない。なんてかわいくないんだろう。


 当初「ちょっとは可愛げがある」なんて考えていたのは、とんだ見当違いだったというわけだ。


 しかし、「ま、でも、任せとけ」ニヤリと笑う。自信たっぷりな、吉見らしい笑顔だった。


「”より住み良い家”にしてやるからよ」



 昼食の匂いにつられるようにして、双子と誠が帰ってきた。実際に匂いにつられたわけではないのだが、相変わらず吉見の食事を完成させる時間が計算されたように正確だったのだ。


「チャーハンだ!」


 最初に飛び込んできたのは和泉だ。川にはまったように汗だくで、雨の日の野球場でスライディングでもしたように泥まみれになっているが、どこで何をして遊んできたのだろうか。少し心配になった。


「後ろから、呆れるように誠が入ってきた。「和泉、ご飯の前に手を……いや、シャワーを浴びてきな」


 そう言って携帯電話をポケットにしまう誠は、少し疲れているように見える。


「誠兄ちゃん! 兄ちゃんももう夏休みなの?」


「夏休みはまだ先だなぁ。今日、午前中は講義もバイトもないんだ」


「えー! 言ってよ、そしたら遊んでもらえたのに!」


 和泉は悔しそうに地団駄を踏んだ。


「あ、でも、そしたら池には行けなかったしなぁ」と迷う様子も見せた。


 なるほど、これらの汚れの戦犯は池か。


 俺と同じタイミングで誠も納得したのが分かった。


 少し遅れて、旭の帰宅だ。旭は、泥だらけの和泉を見るなり言う。


「ただいま。うわ、どうしたの和泉。池でザリガニでも釣ってたの」


「すごおい、よく分かったね!」


 サラリと言う旭に対して驚いているのは、もちろん、和泉だけではない。「なぜそこまで分かるんだ」と半目で旭を眺める誠と、全く同感であった。


 そんな彼らを気にも留めず、吉見はチャーハンの入った三つの皿をテーブルに出した。


 さっさとチャーハンをたいらげ再び遊びに出て行く和泉と、同じくチャーハンを綺麗に食べきって裁縫の本を広げてにらめっこをする旭を見送りながら、誠は独り言のように言った。


「昔から、ちょっと合わないんです。あの母親とは」


 吉見は、自分に話しかけられているものと気付くのに時間がかかったのか、しばらくしてから「そうなんですか」と返した。


「あの人、あんなふうでしょ。いつも適当なんです。笑ってばっかで、真面目に話を聞いてくれた試しがない」


「誠さんは、凛子さんに真面目に聞いて欲しい相談事でもあるんですか」


「……よくわかりましたね。残念ながら、あるんです。あの人は絶対に笑われるだろうな、って分かるような相談事が」


 吉見は、双子が空にした皿を洗いながら、やはり独り言のように言った。


「凛子さんは、見た目よりずっと色々なことを考えていますよ」


「あなたも、父みたいなことを言うんですね」


 俺が柳の言葉を教えてやったんだから当然だ。


「まあ、適当か適当ではないかで言ったら、確かに適当な気はしますが。……冷蔵庫にTシャツをしまい込むくらいですから」


「えっ」


 誠は思わずスプーンを取りこぼし、恥ずかしそうに苦笑した。


「どうもすみません、うっかりしてるのか何も考えていないのか……。恥ずかしいなぁ」


「これを見つけたときは流石に笑ってしまいました」


 嘘つけお前。昼食のチャーハンの準備をしながらTシャツを見つけたお前が、サイズを確認して「なんだ、凛子さんか」なんて真顔で納得していたのを俺は見ていたぞ。


 吉見に無言で睨まれた。


「俺は、笑われるのが嫌で相談を切り出せないだけだからまだいいんです。でも、あいつ、歩のことを思うと、ちょっと腹が立っちゃって」


 吉見は水を流した。泡だらけのチャーハンの皿や、フライパンなどの調理器具を洗い流して行く。最後に、双子の使ったスプーンの水を切って水切り台に置いたあと、手を拭きながら提案した。


「凛子さんが本当に何も考えていないのか、実は色々考えているのか、それを確かめたければ、一つ良い方法がありますよ。凛子さんの携帯の検索履歴でも見てみることです。それを見れば、きっと貴方も、柳さんや私と同じように”凛子さん実は色々考えてた派”になると思いますよ」


「検索履歴……?」


「ところで誠さん、午後の講義のお時間は大丈夫ですか」


「ん? あっ、しまった、そろそろ行かなきゃ。またお話しさせてください、家政婦さんに愚痴る話じゃあないとは思うんですけど」なぜか岬さんには話してしまう、と苦笑した。


 バタバタと立ち上がり、リュックサックを背負って誠はリビングを出て行く。二階に走って行く階段の音、二階から降りてくる階段の音、最後に玄関の扉が開いて閉まる音がした。


「もちろんです、お気をつけて」


 吉見の声は、閉まりゆくドアの隙間を縫ってコツンと誠にぶつかった。誠が出て行ったあと、吉見はラップのかけられたチャーハンを手に二階へ上がった。


「歩さん、お腹の調子はいかがですか」


「夏休みは、すっかり良い感じになったんです。やっぱり俺、学校が嫌なだけなのかも。ズルい奴だなあ、と自分でも思うんですけど」


「歩さんは自分でも勉強出来ていますし、気に病むことはありません。学校が嫌だ、というのは休むのに立派な理由です」


「あはは、岬さんは、母さんと同じことを言いますね」


 もちろんそれだって、俺が教えた凛子の言葉である。


「しかし、学校など、小さなコミュニティの中でしか学べないことというのは、多くあるものです。私は学生時代、それを学ぶことをサボったので、今はろくでもない人間に育ってしまいました。学校でなくとも、どこかで集団行動をするというのは大切だと思いますよ」


「集団行動……。ふふ、それも、母さんが言ってました」


 あっ、そう。ふーん。それは別に教えてないから、まあ偶然だろう。


 ところで、と吉見は言った。


「歩さんは、絵を描くことがお好きなんですか?」


 えっ、と歩は言った。


「凄い、どうして分かったの」


 吉見は少し考えてから、言った。


「この家にいると、なんとなく分かるんです」


「えっ」


 嘘をつけ。どうせ壁だの床だの勉強机だのに聞いたんだろう。


「違います、実は、そこにあるスケッチブックが見えただけで」


 吉見は、棚を指差しながら、俺と歩に対して否定した。その声が少し楽しそうなのは、思惑通り俺を騙せたからだろう。


 悔しいが、まんまと引っかかった。


「ああ、なんだ。そうなんですか」


 歩はケラケラと笑った。笑いながら、しれっとした顔でスケッチブックを棚の奥、見えないような場所へしまい込んだ。


「何を描くんですか」


「あんまり上手じゃないから、内緒です」


 そうですか、と吉見は言った。やはり、少し楽しそうであった。



 吉見もとうに帰宅し、夜も更け始めた頃。


 ご機嫌に風呂場で鼻歌を響かせる母親を声を聞きながら、そうっと鞄に忍び寄る影が一つあった。もちろん空き巣などではなく、長男誠である。


 誠は少し警戒しているようだった。それが、風呂場にいる母親やこの家にいる他の家族に見つかることを心配しているのか、もしくは吉見の言った通り検索履歴を調べた時に、誠が望んではいないことを知ってしまうのでは、という心配なのかはわからない。


 望んではいないこと、とはつまり、”凛子が歩ないし家族のことを一切考えていない”ということが証明されてされてしまわないだろうかと、誠はそれを心配しているのかもしれない、ということだ。


 誠は、簡単にロックを解除した。番号は柳の誕生日である。俺の知る限り、誠は凛子の携帯電話のロック解除の番号を知らないはずなので、今誠がそれをいともたやすく解除したことにより、2つの事実が判明した。


 一つは、相変わらず凛子と柳はラブラブであること、もう1つは、誠は意外と凛子のことをよく分かっているということだ。


 誠は、普段凛子がネットを使用するときに使うアプリを立ち上げた。検索バーをタップし、検索履歴を確認する。暗闇の中、画面の光が誠の顔を影濃く浮かび上がらせていた。


 誠は息を飲んだ。


 何が、どこが「凛子は歩のことなんて何一つ考えていない」だって?


 「中1 不登校 転校」「美術教室 中学生」「思春期 親」「ストレス 胃痛 中学生」「中学生 親 書籍」


 追えないくらい、いくつもいくつも、同じようなキーワードが並んでいた。


「美術教室……? 歩は美術に興味があるのか。俺は知らなかったけど、母さんは知ってたのか」


 ボソリと呟いた。


 吉見の言う通りであったのだ。吉見や柳の言った通り、やはり、凛子は色々考えていたのだ。と、誠がつい口元を緩ませたその時であった。


 なぜ吉見は、俺すら知らないことを知っていたのだろうか。俺はいつもこの家の住人をみているが、いちいち調べ物の内容なんて確認していないし、ボーっとしていたら家族間の話も聞いていないことがある。


 壁や家具は俺の一部だ。俺の知らないことを俺の一部が知っているはずがない。それなのに、吉見はどうして。


 ヴーッとバイブ音がした。凛子の携帯の通知であった。画面の上の方に表示されたその通知をみて、誠は「え?」と呟いた。思ったより大きな声がしたが、自分の声など気にしている余裕はなかった。


「は……?」ともう一度呟いた。


 凛子の鼻歌は聞こえなくなっていた。暗闇の中、誠は呆然と座ったままだった。

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