第1話 七月と双子
先週から、家政婦が来るようになった。週に2回、水曜日と金曜日の勤務であった。
しかし、その家政婦はどこか家政婦らしくない。普通ではなかったのだ。これまで家政婦が来たことなどなかったから、一般的な家政婦がどんなものかは知らないが、それでも、やはり俺の知っている家政婦とは違っていた。
家政婦はいつも、じっと「俺」を見て、「俺」に挨拶をしたのだ。今までの来客の中にも、そんな人間は1人としていなかったのに。
その妙な家政婦の名は、吉見岬と言った。
初日の本人の自己紹介によれば、 「家と会話が出来る」家政婦だそうである。
今日は七月の第3週、金曜日だった。俺に住む七人家族のうちの4人、つまり半分以上が今日から夏休みを迎えるそうだ。特に、まだ小学生である末っ子2人、双子の兄妹は終業式とやらを終えて昼頃には帰って来ることだろう。
吉見は、双子の帰宅予定時刻の1時間前に家に来た。
「鈴木さん、本日もよろしくお願い致します」
吉見はしなやかに一礼を披露した。俺に挨拶されることが何だか妙で、3日経った今も戸惑ってしまう。「ああ、こりゃ、どうも」今日は初めて挨拶を返した。吉見はそれを聞くとにっこりした。赤い唇が綺麗だった。
「どこか気になるところはありませんか」
「気になるところ?」
「そうです。たとえば、ソファの裏がかゆいとか、換気扇がムズムズするだとか」
「ふぅん、強いていうなら、旭と和泉の部屋だな。あの2人、特に和泉が部屋を散らかし過ぎるんだ。教えてやろうか、和泉の机の裏に、3週間と2日前のバナナの皮が落ちているのさ」
旭と和泉。末っ子の双子兄妹のことだ。兄の旭はそこそこキチンとしているが、和泉が酷いのである。部屋にお菓子をぶちまける、服をぶちまける、教科書をぶちまける、その他やはりぶちまける……。数え始めてはキリがない。
しかし凄いのは、決して旭の領域に物を広げたりしないところだ。そのため、2人の部屋はどちらがどちらの机でどちらのベッドか一目で分かるようになっている。言うまでもないことだが、汚い方が和泉である。
「子供部屋は物が散乱していますが、それぞれ意味を持ってそこに存在していることが多いのであまり触れたくないのですが、生ゴミとくれば仕方ありませんね。鈴木さん、お任せください」
吉見は言うや否や、ゴム手袋を装備してニッコリと笑った。ふぅん、美女特有の威圧感のあるあの見た目にしては、可愛げがあるんだな。
バナナの皮との戦闘は、過酷を極めていた。何しろ件の品物は壁と机の間に挟まれている。それを取り除くには机を動かす必要がある。しかし、床は既に教科書や服などで埋まっており、机を移動させる隙などありはしないのだ。
「子供部屋に散乱している物は、それぞれ意味を持ってそこに存在していることが多い」との持論を展開する吉見だったが、泣く泣くそれらを旭のスペースに移動させた。
机をずらした瞬間、今まで壁際にて溜め込まれていた異臭が立ち込め、バナナの皮が顔を出した。「うっ」と吉見が顔をしかめる。
カビの怪物と成り果てたかつての果実を回収しても、掃除は終わらない。机と壁にカビが繁殖しているのだ。
北側で風の通りにくい個室、換気という発想は持ち合わせていないであろう10歳の部屋、季節は夏、考えうる限りのあらゆる条件がカビに味方していた。
あんなナリをしていてもプロの家政婦らしい。30分とかからずに掃除を終えてしまった。加えて、机を元の位置に戻した後は、散乱していた全てのものを元の位置に戻したのだ。
「元に戻した」というのは、片付けたという意味ではない。散乱していた和泉の持ち物を散乱していた場所、状態そのままに完全に再現した。
「それぞれが意味を持ってそこに存在している」と語る吉見の強い信念を感じた。スナック菓子の袋を微調整している吉見を見ながら、ぶっちゃけちょっと気持ち悪いと思った。それから、この女には空き巣の才能もありそうだと思った。
吉見は掃除を終えると、すぐに鍋を火にかけ、何やら料理を始めた。おそらく、昼に帰って来る双子の分だろう。
そうこうしているうちに、双子の帰宅予定時刻になった。
玄関を開けて「ただいま」と声を揃える双子の声には、いやに元気が無かった。今日から夏休みだというのに、何をそんなに落ち込むことがあるというのだろう。
さては、よほど通知表の中身が堪える結果だったのだろうか。しかし、しっかり者の兄・旭ならともかく、和泉が通知表の中身を気にするところなど想像すら出来ない。それに、ああみえてあの双子、どちらも勉強はそこそこ出来るのだ。単純な頭の出来で言えば、旭よりむしろ和泉の方がが良いくらいである。
「お帰りなさい、旭さん、和泉さん。昼食が出来ていますよ」
計算したかのようなタイミングで、キッチンから美味しそうな匂いが漂ってくる。きつねうどんだ。
旭と和泉はパッと顔を明るくさせた。この歳にしてお腹に優しい食べ物が好物らしい。うどんは誰にでも受けがいい食べ物の一つではあるが。
「和泉、今日はどうだったの?」
「……まあ、うまくは、いかないよね」
吉見の用意したうどんを前に手を合わせた双子は早速会話を始めた。吉見はキッチンで気配を消しながら使った食器の洗い物をしている。それを終えたらすぐに夕食の下ごしらえを始めるのだろう。
「なんだ、せっかくあのクッキー、昨日頑張って作ってたのに」
「あげれないことはなかったよ。なかったけどさあ」
「また投げつけちゃったの? 和泉は照れ屋だなぁ。大体、田中のどこがいいんだろ」
「うるさい! 大体、別に好きで田中にあげた訳じゃないし! ユカコの誕生日にあげるクッキーの試作品なだけだし!」
どうやら話題は和泉の好きな男の子のことらしい。昨夜ソワソワしながら和泉がクッキーを焼いていたのはそういう理由だった訳だ。隣にいた旭は料理の指南役だったのだろう。
「全く、そんなだからおばあちゃんにもあんな風に言われちゃうんだぜ」
「それはそっちこそ……!」
「……まあ、そうなんだけど」
「はぁ……」
「はぁ…」
2人はうどんを食べる手を止めて、大きくため息をついた。吉見は鍋を拭きながらそれをキョトンとした顔で眺めていた。
それは、案の定、であった。
旭が習い事のピアノに出かけて行き、和泉が近所の男友達(田中くんとやらを含む)と鬼ごっこへ出かけて行ったその瞬間だ。
吉見がくるりと振り返って俺をじっと見つめてきた。わざわざ振り返る必要もないというのに。
「ちょっとお話、聞かせてくれませんか」
「な、何の話をだよ」
たじろいだ俺に、吉見は畳み掛けた。
「もちろん、旭さん和泉さんに妙なことを吹き込んだ”おばあちゃん”とやらの話に決まっています。一体彼らは何を言われたんですか」
「家が家族のことをそう簡単に明かせる訳ないだろ。そういうのは、自分で気付くか仲良くなって聞くべきなんじゃねえのか」
「私は人を観察して気持ちを察したりするのは苦手なんです。人と仲良くなる? それが出来たらこんなに苦労してません」
「そんな見た目で何を言ってんだお前は……?」
「こんな私が彼らと仲良くなって事情を聞き出すより、いつも彼らを見て彼らと共に生きている貴方に聞く方がよっぽど早くて楽じゃないですか。さあ、教えてください」
「だから、教えたりしねえよ! ただの家政婦に家族の悩みを漏らす家がいてたまるか!」
吉見は眉を顰めた。心底不快そうに、口を開く。「ただの家政婦?」
なめてるんですか、と吉見は言った。
「貴方はこの家のご主人を、鈴木柳様をなめてるんですか。あの方が”ただの家政婦”なんぞを雇う訳がないでしょう」
俺の無い目が泳ぐ。確かにこの家政婦は普通ではない。俺と当たり前のように喋っている時点で大分、かなり、物凄く、普通ではない。しかし、だからと言って。
「私の仕事は家事の代行ではありません。この家を、つまり貴方を、”より住みよい家にすること”です。家族に悩みがあれば解決するのは私の仕事で、それに協力するのは、家として当然のことですよね」
なんだかよく分からないが、とんでもない理論だと思う。なんだかこじつけのような気がするし、それも「それを言っているのが吉見岬である」というだけで、充分な根拠になってしまっているような気もする。
なんだかよく分からないうちに、俺は口を開いていた。魔法でもかけられてしまったのかもしれないと思うほど、あっさりと。
「一ヶ月くらい前かな。凛子の母親、つまり双子の祖母が俺のところに遊びにきたのさ」
母親、凛子と会話を楽しんでいた祖母は、突然驚きの声を上げた。
「ええっ! ピアノ教室とバレエ教室に通っているのは和泉ちゃんの方じゃなかったのっ?」
「いつから勘違いしてたの? 旭は料理もするのよ。たまに私にもお菓子をくれるの」
「あらあらあらあら。それじゃ、お友達と殴り合いの喧嘩をしたりしてる方も旭くんじゃないのね? 男の子なら多少は、と思ったけど、女の子なのねえ」
「和泉も最近はちゃんと口喧嘩をするようになったわ。気は強いけど、大したことない理由で喧嘩することも少なくなったし」
祖母は呆れたように首を振った。
「双子なのに、こうも違うのねえ。やっぱり男女だから? それでも、性別が交換こで生まれて来た方が良かったみたいねえ」
ポカーンと口を開けた。俺だけではない。双子も、凛子もだ。
双子は曖昧に顔を見合わせて笑っていたが、落ち込んでいるに決まっている。何しろ、自分の性別を、やりたいことや性格を否定されたのだ。それが世界の常識とでも言うように。
それからである。和泉が負け知らずだった鬼ごっこに連敗して帰ってくるようになったり、旭がずっと欲しがっていたレシピ本をねだらなくなったりなったのは。
その祖母はといえば、双子を傷つけたなどとはつゆにも思わず、田舎で家業の布団屋を、憎たらしくなるほど元気に営んでいる。
「ふうん」
話を聞き終えた吉見は心底不愉快そうな表情をした。思ったより感情が顔に現れるタイプらしい、意外なことが分かった。
夕方、吉見の勤務が終わる時間が近付いていた。ちょうど、ションボリした様子の和泉が帰宅する。
「お帰りなさい、和泉さん」
「ただいま……」
「どうかなさいましたか、元気が無いようですが」
「……田中が、鬼ごっこのときにね、何ぼけっとしてんだつまんねーの、って怒ってきたの。別にぼけっとしてないし。普通だし。本気出したら田中くらいすぐに捕まえれるんだし」
すると吉見は、キッチンから優しく声を飛ばした。
「鬼ごっこで男子に勝ってしまうような女の子は、女の子らしくないからですか」
「……」
やっぱり、と和泉は零した。「やっぱり、岬ちゃんもそう思うよね……?」
「女の子の大半は、鬼ごっこで男の子には勝てないとは思います」
「そっかぁ。やっぱり、私って駄目だなぁ」
おいおい、落ち込んでいる女の子に何を言ってるんだ、この女は。確かに和泉はガサツだし運動神経も抜群で気も強くて喧嘩も負け知らずだが、殊更に男っぽいなんてことは無いんだ。家政婦には分からないかもしれないけどな。
「しかし」と吉見は言った。「好きな男の子にお菓子を作っても、恥ずかしくて照れてちゃんと渡せない、なんていう可愛らしい子は、とっても女の子らしいと思いますが」
和泉はキョトンとした。「可愛らしい」「女の子らしい」久しく、和泉には向けられてこなかった言葉たちである。
ちょうど玄関の扉が開き、旭が帰宅した。家の前の坂はなかなか急で、自転車で登ってくるのには厳しいものがあり、少し息を切らしているようだった。
「旭さんだってそうです。比較的女子の割合が多い習い事をしていますが、いつも何駅も超えてその習い事へ自転車で通っているなんて、とても男らしいじゃありませんか」
帰ってきてそうそうに自分の話題を出されているのを見て、旭は困惑しているようだった。しかし、あの時のように自分を否定されているわけではない。
「男らしい面も、女らしい面も、どちらも持っていて当たり前です。少しくらい他人と、自分の以外の大勢と違っているのが普通なんですから」
吉見の表情は変わらなかった。双子はテレビを見ているときのような表情で吉見の話を聞いていた。吉見は、「ぶっちゃけ」と言った。急に声色が変わる。声がワントーン低くなったような気がした。
「ぶっちゃけ、私だって大分男っぽいとこがあんだよ。こんなふうに、雑で乱暴な男口調なんだ、普段はな。見た目からは想像つかねぇだろ。普通の女の子はこんな喋り方しないぜ、もちろん」
2人はあんぐりと口を開けていた。背中を叩いてみたら「ワーオ」という感嘆詞が勢いよく飛び出してきそうだ。ぼんやり眺めていたテレビの中で突然亀が宙返りをする場面を見たとか、そういう顔をしていた。
「岬ちゃんって、岬ちゃんも、そんななんだ……」
「そんな、たぁなんだ。私はこれでも堂々と生きてんだ。そりゃ、仕事中は敬語を使うからバレねぇけどな」
和泉はニンマリとする。
「岬ちゃん、とっても可愛いのに喋り方はかっこいい……! 凄い凄い! そういうこともあるんだ!」
「もしかして、普通に皆、そういうもんなの?」旭もホッとしたように笑顔を見せた。
「大体なあ、ちょっとくらい二面性がある方が人間らしくて魅力的だと思うぜ、私は」
吉見は歯を見せた。ますます、女らしくしおらしく美しい吉見の陰が薄れていく。
こ、この猫被り家政婦め。何が『ちょっとくらい二面性のある方が〜』だ、自分への言い訳じゃねえか。
「ん? なんか言ったか?」
吉見がギロリとこちらを睨んだ。言ってません言ってません。別に何も。突然の吉見の豹変に俺は当惑していたが、双子の方は目をキラキラ輝かせていた。
「岬ちゃん、足は速いっ?」
「足? ま、そこそこかな。男子に鬼ごっこで勝ったこともなくはないぜ」
「わあ! 今度かけっこしよ!」
「いや、私には仕事が……」
「ね、いいでしょ!」
「……仕事終わりに、ちょっとだけとかなら、まあ、悪かねえよ」
和泉が吉見の肩に飛びつき、ぎゅっと抱きしめた。
「あの、岬さん、家政婦さんですから、やっぱり料理は得意なんですよね。今度教えてください……!」
「いや、だから私には仕事がだな」
「和泉とは遊ぶのに、俺に料理を教えるのは嫌なんですか……?」
「わーったわーった。仕事のついでだぜ」
旭がそっと吉見の左腕の袖を引っ張る。
あっという間に双子を立ち直らせ、絆してしまった吉見の手腕に圧倒された。最初は何を言い出すのかとヒヤヒヤしたものだが、こういうカラクリがあったとは。
まさかこの猫被り家政婦、全て計算していたのか。いやいやまさか、適当言ったらたまたま双子もにハマっただけだろう。
しかしながら。
”この家をより住みよい家にすること”。それが仕事だと吉見は言った。この女の言う”仕事”とやらは、どうやら無事遂行されたらしい。
「ああ、歩さん。お腹の調子はどうですか」
突然、両腕に小学生をぶら下げたままの吉見が廊下に向かって声をかける。リビングの壁の影に隠れていた肩がびくりと跳ね、次にのっそりとこちらへ近付いてきた。
「ええと、いつも、学校が終わる時間になると良くなるんです。皆下校して、誰でも家にいておかしくない時間だから」
次男の歩は今朝、腹痛を訴えて学校を休んでいた。このところ、そういうことが続いている。歩は中学校に上がったばかりだが、どうもクラスに馴染めていないらしい。
「つまり、腹痛はストレスからくるわけですか」
「……そうです。だから、仮病だと疑われちゃうんですけど。ていうか、実際、ほとんど仮病みたいなものなんですけど」
「何を仰ってるんですか。ストレスからの腹痛なんて、大人でもよくやることです。休むという選択が出来るあたり、歩さんはその辺の大人よりよほど賢いですよ」
「そう、ですかね」
「歩さんの食事はお腹に優しいものにしましたが、もし食べたいものがあれば遠慮なく言いつけてくださいね」
吉見は歩に優しく笑いかけて、双子とエプロンを外して自由になった。双子を近くに放っておいて、エプロンを畳んでしまい込む。仕事上がりの時間だった。
双子と歩は玄関先まで吉見を見送りに出た。
「岬ちゃん、明日も来る?」
吉見は3人に一礼、次に、俺に一礼する。
「鈴木さん、本日もどうもありがとうざいました」
俺は少し迷ったが「ああ、こりゃ、お疲れさんでした」と曖昧に返した。吉見はそれを聞くとなんだか少し意味深にニヤリとした。「来週もよろしく、お願いしますね」
それから、歩に家の鍵を渡し、扉を閉め去って行った。
夜。リビングのソファで、母の凛子が携帯電話を耳に当てていた。
「もしもし、岬ちゃん? 今週もお疲れ様でした。色々聞きたいことと、教えておきたいことがあるんだけど、今ちょっと時間大丈夫?」
凛子と岬はいくつか確認を続ける。事務的な会話が終わったところで、凛子が「そういえば、やたら大袈裟な掃除道具があったんだけど、そんなに酷いところがあった?」
『いえ、普通の掃除をさせて頂いただけです。ああ、ただ、和泉さんに『机の裏にバナナの皮を捨てるのはよした方がいい』と提案させて頂くのを忘れていました。凛子さんの方からお伝え頂けますか』
「ふうん、机の裏に、バナナの皮かあ。あっはっはっはっは!」
うーん、確かにこれは、一周回って笑いたくなる凛子の気持ちも分かるかもしれない。それから少し連絡事項を伝達し、電話を切ったあと、凛子はニコニコしたまま二階に声を投げ込んだ。
「和泉! コラ、お母さんさぁ、ちょっと和泉のそういうところは認めてあげらんないなってことがあるんだけどさぁ、あははは! バナナの皮を部屋に放置するのはありえないでしょ、はっはっはっは!」
怒りたいのか笑いたいのか、怒りを通り越えて笑えてきたのか、笑いを通り越えて怒りたいのか、俺にはもう凛子がさっぱり分からないが、和泉はきっとこれからしばらくの間おやつが食べられなくなることだろう、ということは分かった。
七月の第三週は、騒がしく終わりを迎える。