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プロローグ1

初心者です、お手柔らかにお願いします(震え)

とりあえず書き上がった分だけ投稿してみました。

 

「あ゛あ、頭がいたい…………」



 カーテンが閉められた薄暗く狭い部屋の中、独り呻く。



 適当に閉めたからだろう、僅かに開いた隙間からは日光が射し、宙に浮かぶ細かな埃を照らしている。

 室内を切り裂くように伸びるその光は、天使の梯子とかレンブラント光線とか言われている現象とよく似ている。



 仮にこれを天使の梯子と呼ぶならば、舞っている埃はさしずめ天使の羽根といったところだろう。



 ……なんて最低な天使の羽根だろうか。



 そんな埃まみれの梯子を下っていった先には、コンビニ弁当のゴミを纏めた袋や何時飲んだとも知れぬ酒の空き缶が散乱している。



 これらは、数ヶ月の間、食事をコンビニ弁当で済まし、酒を浴びる生活をしていたことで蓄積されていったものだ。



 体力がある限りはという前置きは付くものの、ゴミはきちんと出しているつもりであったので、普通ならこんな状態になるまで放置されることはない。

 それなのに、こうまでゴミが蓄積されてしまったのは、ここ最近、疲れ果てていたことの証左だ。



 頭をかきむしりながら畳の上に敷いた布団から這い出すと、埃とたいしカビが混ざった香りがあたりに漂う。

 ついでに、物が腐った時特有の酸っぱい臭いも微かに薫った。



 近隣の住民に迷惑をかけないよう臭いについては気を使っているつもりだが、そろそろ本格的に腐臭が漂いだしてもおかしくない頃だろう。



 なんとかしなければ。



 なんとかしなければで思い出したが、最近、洗濯も掃除もしていない。

 特に最後に掃除をしたのは何時だったろうか。



 ……思い出せない。



 ふらふらする頭を持ち上げて部屋を一瞥する。



 たまった洗濯物が山のように。

 たまったホコリも山のように。

 ついでにゴミも山のように。



 ゴミ屋敷一歩手前……いや、まさにゴミ屋敷だった。



 ただ、今はこれをどうにかできるような余力も、時間もないかった。

 今日も今日とて仕事があり、支度をしなければならないからだ。



 俺はゴミ山に紛れたレジ袋から朝食用に買った携帯食料とエナジードリンクを取り出し、口にする。



 口内の水分を奪い尽くす固形物をエナジードリンクでふやかしてから胃に流し込むと、喉に独特のヒリついた感覚がした。

 ……気分が悪い。



 素早く朝食を終わらせると、俺は洗面所へ向かった。

 歯を磨いて、顔を洗って、泡を塗りたくって、髭を剃り始めたところで、何気なく鏡を見ると、顔色が悪く表情の死んだ自分の顔が映っていた。



「………………ハハハ」



 思わず、失笑してしまう。

 我ながら、なんて情けない顔だ。



「痛っ……」



 そんな無様な顔を眺めながら剃っていると、疲れから手元が狂って頬をさっくり切り裂いてしまった。



「……はぁ……またか…………」



 失敗するのは、今月はこれで何度目だったろうか。

 刻まれた赤い円からだらだらと血が流れていくのを他人事のように眺めつつ、傷口を水ですすいでティッシュペーパーで止血した。

 至極どうでもいいだろうが、この時に数分間少し強めに傷口を押すのが止血のポイント。

 最近は頻繁に髭剃りを失敗するので、対処も随分と慣れてしまった。



 前に切った傷口が治り始めた頃には、また新しい傷ができるくらいには失敗しているからそれも当然だろう。



 この消えない生傷と死んだ表情のおかげで同僚から死面(デス・マスク)なんてありがたい汚名をいただくことになったのはいつ頃だったか、よく覚えていない。



 そういえばその時、死んだ魚の目をしたヤツ(同僚)にはちょうどいいと思って死魚(デッド・フィッシュ)なんて粋な渾名をプレゼントしてやったような気がする。

 仕事を辞めたあいつは今、元気だろうか。



 確か、その頃はまだ冗談を言う余裕があって、ギリギリ笑えていたと思う。

 ただ、この話に関しては俗に乾いた、と頭につけられるような笑いだったのは間違いないが。



 止血もそこそこに、髭を剃り終わった俺は寝間着からスーツへと着替える。

 クリーニングに出す余力はないので、アイロンなんて以ての外。シワシワのヨレヨレだ。

 襟が少し黄ばんでいるように見えるがこれくらいなら大丈夫だろう。



 現在の時刻は午前七時。

 最寄り駅まで徒歩十五分、電車で二十分、駅から徒歩五分、始業が八時(実際は九時だが何故か一時間前出勤を強要されている)なので、すぐに家を出ないと十分前ギリギリになる。



「誰だよホント、十分前行動とか言い始めたやつ……。ギリギリでも間に合えば良いだろ……。早く行っても大してやることないんだし……」



 恨み言を呟くことで憂鬱な気分が少しでも晴れればいいと思ったが、余計に憂鬱さが増したような気がする。



 俺は、休みたいという精神(こころ)からの叫びをグッと押さえ込んで、身体を玄関まで動かす。

 体感には数十分程、実際には数十秒の時間で玄関に体を持っていく。



 が、そこからなかなか動き出すことができなかった。

 ドアノブに手を掛けるのでさえ億劫でしょうがない。



 きっと心が外に出ることを拒否しているのだ。

 ここを開けてしまえばもう、職場へと向かわなければならない、と本能が体に重石をまとわりつかせてきている。



 出来ることならこのまま諦めて布団に戻りたい。

 何も考えずに寝込んでしまいたい。



 しかし、そうは言ってられない。

 誘惑に負け、布団に戻り、そのまま無断欠勤と洒落込もうものならば、仕事をクビになって生活が立ち行かなくなる。

 いくら嫌だと言っても我慢せざるをえない。



 だから、俺はいつも通り溜め息を吐き、感情を殺してノブを捻った。



「……眩しっ」



 扉の先で俺を出迎えたのは気持ちが良いほどの晴天だった。

 雲一つない澄み渡った青空に、煌々と太陽が輝いている。

 階下に見える緑は陽の光を受けて青々と茂り、爽やかな風に揺られて左右に靡いていた。



 きっと、普通の人間ならば『ああ、なんて気持ちの良い天気だ! 今日も一日、仕事頑張るぞ!』なんて、気合いの一つでもいれたのかもしれない。

 だが、俺には世界が『今日は良い仕事日和ですね、頑張りましょう!(はあと)』と煽ってきているようにしか感じられなかった。



 そんな風に思ってしまうと、唯でさえ行きたくないのに、もっと仕事に行きたくなくなった。

 じゃあ雨ならどうかといえば、より行きたくなくなるのだが。



「はぁぁぁぁぁぁ…………仕事行きたくなぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………」



 頭を抱えて悶絶する。

 端から見れば完全に頭のおかしな人間だ。



 仕事に行かなければならないのは重々承知している。

 泣き言を吐いたところでどうにもならないことも知っている。

 しかし、その上で吐き出さなければ心の中に溜まった毒に、殺されてしまいそうだった。 



 とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。

 嘆くのもそこそこにして、鍵をかけて歩き出す。



「ハァ…………」



 歩きながら、俺は頭の中で疑問に思っていた。

 どうして仕事に行かなければならないのだろうか、と。



 働くという行為は本来、人間が生きていく上で必要の無いことだ。

 自分が生きるために動物を狩るだとか、食料を探すだとかいう類の、生死に直結する行動ではない。



 だというのに毎日毎日せっせせっせと。

 何が楽しくて働かなければならないのだろうか。



 そも、何故人は働くのかといえば。



 それはひとえに生きるためであり、もっと直接的に言うのであれば(カネ)を得るためだ。



 現代の発達した社会の中で何かしらの行動を起こそうとすると、現金という名の紙切れや、鉄だか銅だかの円形の金属塊が必要になる。

 食べ物を得るためにも、住処を得るためにも、水を使うためにも、火を使うためにも、あれにも、これにも、何でもかんでも、ありとあらゆるものに、イヤってほどに金が要る。

 だからこそ、それらの総合的行為であるところの生きる、という行為にも当然、金が必要になってくる。



 金を得ることさえ出来れば、働かずとも生きることができるのだが、悲しいことにそんな都合の良い方法は、まずもって存在していない。

 何故だろうか、本当にそんな方法はないのかと、気づけばいつも通勤中の現実逃避に考えている。



 そうして出る結論はいつも無情なもので、『存在しない』だ。



 それは何故か。

 現実的には労働でしか金を稼ぐ事ができないからだ。



 金を得る方法には色々な種類があると思うかもしれないが、根本的にはたった一つしかない。

 それは不足主体にモノを提供して、その対価として金を得るという方法だ。

 噛み砕いて言うと、何かを『欲しい』と言う人に『欲しがっているもの』を渡して金をもらう、ということだ。



 具体例として一般的な売買を思い浮かべると分かりやすいだろう。

 取引の相手方に商品を提供し、対価として金を貰う。

 なんてことはない、当たり前で単純な話だ。



 だが、この『たったこれだけのこと』が働かずに金を得る方法を考える上での糸口となる。



『不足主体にモノを提供すれば金を得ることができる』という事は、逆説的に『金が欲しいならば不足主体にモノを提供すれば良い』ということを意味している。

 つまりこれは提供できるモノさえあれば、働かずに金を得ることができるという可能性を示唆している。



 しかし、問題となるのがその提供する『モノ』だ。



 この『モノ』というのは食料や土地といった物体的なものから知識や権利といった非物体的なものまで提供できるあらゆる全てが考えられる。

 すなわち、この世に存在する全ての他人に渡すことのできるものがこの『提供できるモノ』に該当することになる。

 ただし、実際には何もかもが『提供できるモノ』になるとは限らない。



 例えば、そこら辺で拾った石や空気を想像すると分かりやすい。

 これらは確かに提供できるものではあるだろうが、誰でも採取が可能で、他人が欲しいと感じない(=不足主体が存在しない)ため、提供できるモノであるとは言えないだろう。

 要するに、『提供できるモノ』とは、他人に渡すことのできる全ての物体、非物体のうち不足主体が存在し得るもの、価値のあるモノのみが『提供できるモノ』の対象になる。



 そして、この『提供できるモノ』は対価を必要としない方法、例えば原始取得や無償譲受などの方法によって得なければならない。

 自らが不足主体となれば、自分が提供できるモノを得る過程で金が必要となるため、働かずに金を得ることが達成できなくなってしまう。



 だが、それは難しい。



 なぜなら、最早、人間は新しくモノを得ることができないからだ。

 人間は誰もが平等にまっさらな状態で生まれてくるが、そこから先は不平等に先人の足跡が受け継がれる。

 例えばそれは食料だったり、土地だったり、開発した技術の権利だったり、知識だったり様々だ。

 そして継承、蓄積されたモノは活用され、現代社会を構成する礎となっている。



 だが、そうやって人間がモノを継承、蓄積していったことにより、現代には誰かのものになっていないモノはほとんどなくなってしまった。



 価値ある物体は既に誰かの権利によって雁字絡めにされており、手が出せない。

 非物体的なモノにしても、既に先人によって発見されたものがほとんどで、新たに非物体的なモノを得るに高度な知識が要求されるために一般人にはほとんど不可能に近い。



 結果、新しく人間が生まれたとしても今や、その人間が新しく得られるモノはなくなってしまった。



 『対価を必要としない方法により入手すること』

 それは現代社会では不可能に近い。

 このおかげで、提供できるモノとしての条件を満たすものがほとんど消え失せてしまう。



 しかし、だからといって条件を満たすモノが全くなくなるというわけではない。

 この壁を乗り越えて、提供できるモノとしての条件を満たすものがある。



 それは、自己だ。



 具体的には自分が持つ肉体的なもの、自分が持つ能力的なもの、要するに自分に関わる包括的なものだ。

 これは人間が人間として生まれた以上、誰もが持っているモノであり、新しく何も得られない人間が初めから持っている、働かずに提供できる唯一のモノだ。



 この提供できる自己には二つの種類が考えられる。

 一つめは肉体的自己。二つめは能力的自己だ。



 肉体的自己は臓器や手足などの自分の身体や生命に関わる物体的なモノだ。

 故に、これを提供する行為とは臓器等の提供ということになる。

 だが、肉体的自己はいかに提供できるモノであったとしても、簡単に提供できるようなものではない。

 生きるために自分の身体を切り売りして金を得るというのは全くもって本末転倒であり、また心情的にもそれは困難であるからだ。

 そのため、肉体的自己を提供するのはどうにもならなくなった上での最終手段と言え、提供できるモノであると言うのは現実的ではない。



 次に、能力的自己は才能や技能などの自分が行うことのできる行為、能力等の非物体的なモノだ。

 その内容は多岐にわたるが、大まかに先天的なものと後天的なものがある。



 先天的なものはいわゆる天性の才能、能力と呼ばれるものだ。

 例を挙げるなら歌唱力や運動能力、頭脳、美貌等がそれだ。

 先天的な能力的自己を持つ人間はその類稀なる能力を提供することでやろうと思えば働かずに生きていくことができる。

 しかし、当然ながらそんな能力を持つ人間なんて極わずかであり、一般人が提供できるものとしてはとても現実的ではない。

 よってこれも働かずに提供できるモノとは言い難い。



 そして残った後天的な能力的自己は、後天的に獲得できる技能などのことだ。

 後天的な能力的自己は努力次第で誰にでも獲得できる。

 無論、本人の性質や努力の程度によってそのレベルに差はあるが、『この人間でなければ絶対に不可能だ』なんて類いのものではない。

 これは肉体的自己のような制約もなければ、先天的な能力的自己のような稀少性もないため、一般人でも容易に提供することが可能である。



 したがって、後天的な能力的自己こそが、現実的に人間が働かずに提供できると言える唯一のモノであると言えるのだ。



ならば、これを提供すれば働かなくても金を得ることが出来るということになる。













 ――――――しかし、本当にそうだろうか。



 考えてみて欲しい。

 後天的な能力的自己を提供する行為とは一体どういうことを意味するのか。



 後天的な能力的自己とは後天的に獲得できる技能等のことで、換言するならば、本人の努力の程度により差はあるが誰にでもできる技能のことだ。



 これを不足主体に提供する行為とは一体、何を指すのか。

 代替可能で、誰にでもできる能力を提供する、本人の程度により差があり、対価として金銭を得る。



 似たようなものに心当たりがないだろうか。





 ―――――――そう、これこそが労働なのだ。



 一般人は後天的な能力的自己しか提供できるものがない。

 要するに提供できるものが労働力しかない。

 だから、人間は生きたければ働きたくなくても働くしかないということになる。



 働きたくなければ先天的な能力的自己を得るかモノを蓄積した家に生まれるしかないのである。

 だが、それはなんという無理ゲーだろう。



 しかし、だ。

 これまで働くのは嫌なことだということを前提に置いて話を進めてきたが、働かなくてはならないということは働くことが嫌なことだということを必ずしも意味しないのではないだろうか。



 社会では何かをしようとするには金が必要だ。

 それは逆接的に金さえあればあらゆることが何でもできるということでもある。

 そうすると、あらゆることができるようになる金を得るための『働く』という行為は別段、嫌なことだとは考えられないように感じる。



 だが、ハッキリと断言しよう。

 それは違う。

 現在進行形で俺が仕事に行きたくないと感じているように、働きたくないという話は世の中で枚挙に暇がない。



 それは何故か。

 要因は大きく三つある。



 一つに働くという行為が生きていく上で必要ないからだ。

 先程も述べた通り、働くという行為は生きていくために直接的に関係するものではない。

 食料を確保するとか住処を作るとかそういったものとは違い、その行為がなくても生死には直結しない。

 本来ならば別段、必要のないものなのである。



 だというのに、生きていくためには金が必要で、金を得るために働かなくてはいけない。

 必要がないのに必要で、必要なのに必要ではないのだ。

 何とも矛盾している。

 生きていくための選択肢は働くこと以外にも無数にあるはずなのにその実、選択肢が一つしかない。



 要するに、俺たちは働くことを強いられている。

 にも関わらず、さも自分で働くことを望んでいるかのように扱われ、負いたくもない責任が増えていく。

 なんという理不尽だろうか。



 二つに労働という行為そのものが持つ性質だ。



 労働とは後天的な能力的自己、すなわち労働力を提供して対価を得るという行為である。

 よって、労働力というのは代替可能という性質を持つ。



 労働力の対価として金を支払う側からすれば、その質は高ければ高いほど良く、支払う対価は安ければ安いほど良い。

 そこに人間の個としての存在はさほど考慮されない。

 そのため、労働力を提供する側としては常に疑心を抱く事になる。

 もし、自分よりも質が高かったら、もし、自分より安かったら。

 そうなれば自分は用済みだと。

 一度それが過ぎってしまうと、必要とされるために、用済みだと判断されないために、自分の容量を越えた労働で無理をしてしまう。

 その過程で人間は肉体的にも精神的にも追い詰められてしまう。

 俺の会社でもそういった奴は何人か居て、鬼気迫るように働いている姿を見かける。



 そして最後に人間関係だ。



 セクハラ、パワハラ、イジメなど。

 組織内ではこれでもかというくらい嫌がらせが行われる。

 これはもともと、人間がそういう側面を持っているから起こることはである。

 しかし、労働の性質がこれをより助長させていると俺は思うのだ。



 労働力は代替可能なものだ。

 そのため、提供する不足主体には個として意識されにくい。

 だから、その代わりとして人間は無意識にあるいは意識的に組織内で個としての自分を主張しようとする。

 また、不足主体は代替可能な労働力を見極めるために成績等の高低や良否を比較したり、役職を与えたりする。

 提供側はそれにより重圧を受けることになる。

 人間はその不安や重圧から逃れるために、あるいは自己肯定や自己主張のために、これらの役職や順位を用いる。

 そして、その順位によって他者を不当に貶めようとしたり、役職によって自己の優位性を顕示しようとする。



 つまり、労働が人間の悪い側面を顕在化させてしまっている。

 こんなクソみたいな条件が整った集団の中に嬉々として飛び込んでいくような奴はきっとドM以外の何者でもないだろう。



 ……提供できるモノが労働力しかない以上、ドMと謗られても飛び込まざるを得ないのが悲しいところだ。



 と、長々と下らないことを考えたが、結局のところ、この話は『働きたくない』ただその一言に端を発し、そして帰結するしょうもない話だ。



「ハァ……働きたくない……」



 ままならないことを考えては、世の中の不条理を呪いながら歩いていると、まるで時間が飛んだように駅前へと辿り着く。



 通勤に使っている駅は繁華街というわけではないが、交通の便がいいためか、開発が進んでおり、マンションやビルなどの高層建築が周囲に並んでいる。

 そして、現在もまた、隣で新しい建物が生えている最中であった。



 俺は何とはなしに隣の工事現場を見上げた。

 そこでは白いヘルメットを被った作業服の人が赤い鉄骨の上で忙しなく動いていた。



「朝から仕事なんてお互いつらいな……」



『朝っぱらから、お疲れ様です……』と心の中で声をかけ、急ぎたくもない先へ急ごうとすると。



 ミシッ……ギギィ……。



「……ん?」



 風に乗って微かに聞こえてきたのは金属が軋むような音だった。



 音源へと目を向けてみるとそこは先ほどの工事現場。

 頭上の高所クレーンが骨組みに使う赤い鉄骨を移動させている所だった。

 気になったので立ち止まり、少しの間クレーンの動きに注目してみた。

 クレーンは安定しているし、風はそこまで強くないので鉄骨もフラフラしていなかった。



「……金属が擦れあってるんだから音ぐらいするよな、気にしすぎか」



 最近はああいうところの安全対策は厳しくしなければ五月蝿い世の中になっているから大丈夫だろう。

 きっと自分が疲れているだけだ。



 そう思って工事現場から視線を外した。



 神経が過敏になっているのかもしれないな、と思いながら歩き始めた瞬間、頭上でバチンと何かが弾けたような音が鳴った。



 あわてて確認してみると、鉄骨がもの凄い速さで目前に迫って来ていた。

 おそらく鉄骨を吊っていたワイヤーが切れたのだろう。

 ゴォ、と空気を切り裂く音とともに降り注いでくる。



 明らかに、逃げる暇なんてなかった。



(あ、これは終わったな)



 頭のどこか冷静な所がそう判断していた。

 あまりに突然の出来事過ぎて、不思議と恐怖はなかった。



 鉄骨は勢いをそのままに地面に汚いサンドイッチを産み出す。

 全身の骨が砕ける感覚と強い衝撃が走り、俺の意識はこの世から失われた。



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