□ 奇妙な関係 □
そもそも、初めて彼に会った時からして変だったのよ……。
キーを叩く指を休めることもなく、Jは同室人が来た時のことを思い出していた。
男だったってことが最初の誤算で――それから何かが狂ってきたのよね。
プライベートルームはちゃんと別になってて、鍵もかかる。その他の生活空間が共同ってだけだから、こんなこともたまにはあるらしい。
頭文字が同じだと、その昔同じ言語圏で暮らしていた人種とみなされて、同室にされることが多いのだ。
生活習慣や食べ物の好み、宗教なんかが似てくるのでトラブルが少ないんだって。
まさに『古典世界』で習うことだ。
ともかくこれだけ広い空間だろうと一所に住むんだから、挨拶でもして交流を持とう、とか思うのが普通じゃない?
ところが、どうよ。
人がせっかく差し出してやった手を完全に無視してくれて、アイソもソッケもない挨拶しただけで、後は必要最小限のことしか口にしない。
おまけにあたしの半径1メートル以内に近付く時は、その度に許可を取らなきゃ気が済まなくて、そりゃ、一応、異性なワケだから、軽々しくしちゃいけないとは思うけど……
とにかくやりにくいったらないじゃない。
言葉の調子から見ても、もっと軽いおちゃらけた奴だと思うんだけど……
対処のしようが無いのよ。
何も聞かない。何も言わない。
極めつけはあれ。
今日も、ずっと――
『古典世界』の授業に限って、だから、多分この授業を見てるんだろうけど……
そんなに好きなら自分で授業を取ればいいのに。画面は見えても音は聞こえない筈だから、後ろから見てたって意味なんてない。
――つまりはそうなの。限界……なのよねぇ……
沈黙してるだけの生活も、見られてる生活も、限界――
本人が見られる側の気持ちを全然解ってないから困るわけで……
いっそ、同じように後ろから見ててやろうか。
あ。うん。いい。それ。そうしよう。
幾分気が紛れてくると、丁度2つ目の授業の終わりを告げる『To be continued』の文字が現れ、と、同時に絡みついていた視線も解けていく。
今度は無意識に溜息を吐いて、Jは3つ目の授業が始まるのを待っていた。
逆に見つめ返してやるというJの計画は見事に粉砕されてしまった。
Jが3つ目の授業を終えても、昼食を食べた後も、ずっと少年――J−10は授業用の個人用ブースに近付こうともしなかった。
その代わりに夏の陽射しが眩しいくらいに入り込んでいる窓辺によって、遥か下に見える森林公園を見下ろしたりしてる。
J−10はホバーボードを持っていて、時折このベランダから飛び出していく。
自分で整備や改造までやっていて、通常地面から5センチ程しか浮かない筈のその板を、何分かだけ自由に空を駆けられるようにしていた。
そんなことが出来るというのは、きっと優秀だからなんだろうとJは思う。
もう国から声がかかっているのかもしれない。
子猫が拗ねているような顔をしながら、Jは少し離れてJ−10を観察していた。
座り込んでいるので、丁度猫の視線のようなのだが、少年は一向に気付く気配は無かった。
――否。知ってはいるけれども、敢えてそれを確かめようとはしなかったのだ。
ふと、少年は気紛れでも起こしたかのように振り返って、スタスタと玄関を出て行った。
取り残されたJは当惑して――他人の為に自分の時間を潰してしまうのは惜しいような気がして――それでもぱたぱたと玄関まで駆けて行った。
当初の目的とは多少違うけど『後ろから彼を見つめてやる』のはこういうこと……でもあるわよね。
心の中で呟いて、Jはゆっくりと少年の後を歩き始める。
いつもと違う午後が、ゆうるりと流れ始めた。