第八話 ケビンの過去
第 八 話 告 白 2 − ケビンの過去 −
「実は、僕もマリエに話しておきたいことがあるんだ」
「なあに?」
マリエはハンカチで目頭をそっと拭くと落ち着きを取り戻して静かに聞き返した。
「僕には今、妻と二人の子供がいることは言ったけど、僕には離婚歴があるんだ。そして、前の妻との間にもう一人子供がいる」
「ふーん、男の子? 女の子? 今幾つなの? どこに住んでるの?」
マリエはさほど驚きもせず至極当然のように平然とそして矢継ぎ早に質問する。今や離婚歴のある男性はマリエの回りにもゴロゴロいる状態だ。決して珍しいことではない。ましてやアメリカの話だからもっと日常茶飯事的出来事だろう。それにケビンに子供が二人いても三人いてもマリエには全く関係のないことだった。
「女の子で、今年二十七歳になるかな。マリエより年上だ。カンザス州のウィチタに住んでいる。エミリーって言うんだ」
ケビンはジャケットのポケットから一枚の写真を取り出してマリエに見せた。そこにはエミリーの最近の姿が写っている。
「あら、かわいい人じゃない」
マリエが親近感のもてるタイプだ。
「彼女が二歳だった頃別れたから、悲しいことに彼女は僕のこと全然覚えていなかった」
「二歳じゃ覚えていないでしょうね」
マリエは当然のように相槌を打つ。
「それっきり会っていないの?」
「いや、会ったのは会ったんだけど・・・・・・」
「何かあったの?」
ケビンの曇りがちな表情を鋭く察してマリエが聞いた。
「ああ・・・・・・」
ケビンは言葉を捜しあぐねていた。独特の潮の匂いと寒風が入り交じり鼻腔を擽る。マリエは無言のまま車の窓を閉めた。
「僕は、当時、収入も無く、ボロボロの状態だった。だから、裁判で親権を剥奪され、自分の娘にも会うことを禁じられた」
ケビンはやっと言葉を繋ぐ。
「でも、彼女が大きくなったら必ず僕に会いに来てくれると信じてたんだ。遅くとも十八歳とか、二十歳とか、自分の意志で判断と行動出来るようになったら必ず来るとずっと待ってた。だからそれまで必ず立派な弁護士になって、前の女房を見返してやろうと決めたんだ。そしてそのことは今の妻にも話してきた。でも娘からは二十歳を過ぎてもなかなか連絡がこない。だけどやっと二年前、彼女が二十五歳になって初めて連絡があり、とうとう会いたいと言ってきた」
「良かったじゃない。じゃ、それからすぐ会えたんだ」
マリエは先走って素直にそして嬉しそうに言った。ケビンはマリエの反応にちょっと拍子抜けしたがすぐ真顔に戻って低い声で続けた。
「いや、それがそうじゃないんだ。そのときは僕も飛び上がらんばかりに嬉しくてすぐ妻に言った。『エミリーが会いたいって、やっと言ってきたよ』って。ところが、妻の反応はまったく意外なものだった」
「なんて言ったの?」
「エミリーと会ったらだめだって言い出したんだ。『会うなら私とわかれてからして』とまで言った」
「エーッ、どうして? 奥さんに隠してた訳じゃないのに」
「そうなんだ。僕はむしろ一緒に喜んでくれるとばかり思っていただけに、ものすごいショックを受けた」
「分かるわ。私だったら全然気にしないけど。あなただってこの日が来るのをずっと待ってた訳でしょう。お嬢さんだって実の父親に会いたいって思うのは自然な気持ちだと思うわ。あら、私ったら自分のこと言ってるわ」
マリエは声に出して笑った。ケビンも苦笑しながら続けた。
「何故妻がエミリーと会うのを反対するのか、僕にはよく分からない。ただ今の妻は、僕と結婚する前に、前の妻との間でいろいろ確執があった。その上裁判沙汰までなってすごく嫌な思いをしたことも事実なんだ」
それは、ケビンの前の妻キャサリンが娘エミリーを連れて家出同然で実家のカンザスに帰った後の出来事だった。
突然家族を失ったケビンは悶々と寂しい日々を送っていた。そこへ結婚前にキーウェストで知り合ったステファニーから連絡が来た。
「出張でロスに行くことになったの。よかったら食事でもしない?」
当時ステファニーはニューヨークでファッション誌の記者として働いていた。ケビンは懐かしさも手伝って彼女の提案を喜んで受けた。それから、月に2,3度ステファニーは出張でロスに来るたびにケビンと逢瀬を重ねる。宿泊もホテルでなくケビンのアパートに泊まるようになった。
半年ほど経ったある日、ケビンの留守中にキャサリンがカンザスからやってきた。帰ってきたのでなく荷物を取りに来たのだ。そこで彼女は部屋の中に他の女の存在を察知する。数日後、ケビンの元に聞きなれない弁護士事務所から一通の内容証明書が届いた。
《夫であるあなたの不貞により、離婚を請求する》
と言った内容で法外の慰謝料と養育費が書き込まれていた。ケビンは驚き、そして悩んだ。それを聞いたステファニーは渡りに船とばかりにケビンに自分との結婚を迫った。そのときのケビンのキャサリンに対する気持ちは完全に離れていた。だが心残りは娘のエミリーのことだった。娘と会えなくなるのは耐え難いことだった。
機を同じくしてステファニーのロス支店への転勤が決まった。ケビンとの暮らしが現実味を帯びてきた。だがその直後ニューヨークの彼女のオフィスに一本の電話が入った。
《お宅の社員が自分の夫を寝取った。慰謝料を求めて訴える》
というものだった。ステファニーは自分にこんな火の粉が降りかかろうとは夢にも思っていなかった。そしてそのためにケビンとの生活のみならず栄転の好機すら風前の灯になりかけている。
「ステファニーに嫌がらせをするのだけは止めてくれ。金は何とかする」
ケビンは見栄も外聞もなくキャサリンに懇願した。
「エミリーにも時々会いたいんだけど」
「虫のいいことばかり言わないで。そういう風にあなたはいつも自分勝手なのよ。いい加減愛想が尽きたわ」
キャサリンもケビンの元に戻る気はなかった。キャサリンの実家はカンザスの大牧場で、兄弟家族も多いが人手が足りなく出戻りでも片身の狭い思いをしないですんだ。
ケビンは駆けずり回って借金をし、やっとキャサリンとの離婚が成立した。もちろんそれ以来25年間エミリーと会うことは叶わなかった。
「きっとエミリーの出現で、そのことが思い出されるのがつらかったのかもしれない」
当時の悲惨な出来事を思い出しながら、ケビンは自分なりに慮ってみた。
「結果的に略奪婚だったのね。奥さんの気持ちも分かるような気もする。でも、だからと言ってその子供には全く罪はないし、関係ないじゃん」
怒ったように真顔になってマリエが言った。普段はおしとやかなマリエだがこのときは珍しく言葉に気丈さを出して。
「まぁ、そうなんだけど。どういう訳か、とにかくエミリーに会ったらだめだって、その後も頑として分かってくれないんだ。彼女は言い出したら聞かない結構頑固なところがあって」
ケビンは心底困った表情を見せた。この人は真剣に娘に会いたがっていたんだ、とマリエは理解出来た。そして彼女なりに考えを巡らした。
「よく分からないけど、きっと逆恨みというかジェラシーだわ。奥さん、あなたの娘さんにジェラシーを感じてるのよ、うん」
マリエは、自分の言葉に納得したように首を縦に振った。
「彼女を娘じゃなくて、女として見てるんだわ。もう立派な大人の女性でしょ。もっと小さいころ言ってくれば状況は違ってたんじゃないかな。今の奥さんは、あなたの気持ちが彼女の方に向いて過去に引き戻されて行くのが怖かったのね、きっと。でも、そんなの馬鹿げてるし、ナンセンスよ」
マリエは、急にケビンが狂おしいほど愛おしく思えた。そして今の奥さんの呪縛から解放してやりたいと思った。なぜだか無性にケビンの奥さんに対して腹立たしくなっている、そんな自分に少し戸惑いの色を浮かべた。
「私だったらあなたの娘さんを受け入れるわ。ケビンのこと本当に愛してるんだったらそうすべきよ。だってあなたの本当の子供でしょ」
珍しく興奮したように語気を荒げるマリエにケビンは少しうろたえた。だが真剣に自分の気持ちを理解しようとしてくれているマリエに強く心引かれるものを感じていた。
「女性ってそういうものなのかな。よく分からないけど、とにかくそれから妻との関係がなんだかぎくしゃくしてしまって。さらに悪いことに、その直後にちょっとした出来事が起きたんだ」
「出来事って?」
この上まだ何かあるのって言うような、呆れ顔でマリエは聞き返した。
「聞いてくれるかい?」
マリエのあきれたような表情を見てケビンは話そうかどうか逡巡した。
「もちろんよ。私って、友達に年の割りに考え方が結構古臭いって言われるけど、いいわ、聞いて上げる。さあ、話しを続けて」
マリエは何か楽しい話でも聞くかのように目を輝かせながら興味津々で身体をケビンの方に向けた。ケビンは意を決し、思い出を反芻するかのようにゆっくり声を押さえながら続けた。
「実は、そんなとき不幸なことに、僕の父親が心筋梗塞で急死したんだ」
「まぁ、お気の毒に」
マリエは真顔に戻った。
「エミリーにとってはお爺ちゃんだ。お爺ちゃんも孫である彼女に二十数年ぶりに会えるのを楽しみに待ってた。ところが会うことになっていた数日前に、突然亡くなってしまったんだ。エミリーもびっくりして、ウィチタから葬儀の場にいきなり勝手にやって来ちゃった。二十数年ぶりにこんな形でエミリーと再会するなんて思ってもいなかった。でもきっと、おじいちゃんが引き合わせてくれたんだと、むしろ僕は喜んだんだ。嬉しくてショーンとグロリアの二人の子にも、《君たちのお姉さんだよ》って紹介した」
ケビンは、年甲斐もなく照れ臭そうに小さく微笑んだ。
「ところがその葬儀の場で、妻は彼女の顔なんか見たくない、すぐ追い返してと気が狂ったように泣き叫び出したんだ。僕は妻とエミリーの板ばさみさ。どうしたらいいか分からなくなった。でも今の二人の子や親戚のいる前で、僕は苦汁の選択を迫られた。あの場では妻の立場の方を尊重するしかなかった。僕は二十数年ぶりで、やっと会えた娘にすぐここから立ち去るように言った」
ケビンは暫く言葉を失ったように絶句する。マリエも声をかけるのも憚られ、悲しい顔で見つめるのが精一杯だ。揺ら揺らと頭を左右に振りケビンは重い口を再び開いた。
「そしたらエミリーが言うんだ。『お父さん! どうして? 私のお爺ちゃんが亡くなったのよ。お父さんにもやっと会えたわ。もっとここに居させて』って、そして僕の言うことも聞かずなかなか帰ろうとしないんだ。僕は、エミリーに向かって『帰れ!』ってとうとう怒鳴ってしまった。大事な葬儀の場は完全に凍りついてしまったよ。彼女は泣きじゃくりながら帰って行ってしまった。彼女を抱き締めてあげることすら出来なかった。すぐに僕は、自分の娘になんてことをしたんだとすごく後悔したよ」
夢にまで見た邂逅が儚く藻くずと消えた。
一気に言い終わるとケビンはうっすらと目に涙を浮かべて深いため息をついた。思い出すたびにそのときの出来事はケビンの涙を誘う。
「せっかく会えたのにね」
マリエも急にしんみりして貰い泣きしたように目頭を押さえた。
「それ以来、妻に対してはエミリーの話はタブーとなってしまった。会話も途絶えぎみでますます妻とも気まずくしっくりいかなくなった。僕は大切なものを何もかもなくしたような絶望的な気持ちになった。それからはすっかり自己嫌悪に陥ってしまって・・・・・・」
ケビンは再び言葉を詰まらせた。
「つらかったでしょうね、どういう形であれやっと会えたのに。本当は思いっきり抱き締めてあげたかったでしょうね」
マリエは、SEDONAで逆の立場だった自分の経験を思い浮かべていた。吐胸を衝かれた思いで堪えきれずに涙で顔をクシャクシャにして。ケビンもうつむいて泣いているようだ。
マリエは卒然とまたケビンのことが愛おしくなった。そっとケビンの頭を持って抱き締める。ケビンも必死で涙を堪えるようにマリエにされるままにしている。マリエは自分の方からケビンと唇をそっと重ねた。鼓動が膨よかな胸の中で震える。
別れた娘を思う気持ちと実の父を思う切ない気持ちが、お互い逆の立場という微妙な形となってシンクロするように重なり合う。カタルシス的心の琴線に触れ年の差を超えた不思議な愛がこのとき芽生えようとしていた。
車の外では刺すような冷たい風が海から吹き上げてきて岬の木々を揺らしていた。ケビンとマリエの乗った車は、低く垂れ込めた雲の合間からさす月明かりに照らされている。その車の中の光景を、ちょっと離れた昏宴の闇に包まれた常盤木の茂みの陰から寒さに耐えながら赤外線の双眼鏡でじっと見ている黒い影がある。なんと防寒着に身を包んだ橘春樹だ。