第七話 出生の秘密
第 七 話 告 白 1 − ワン・ウィーク・ラブ (One week Love) −
師走の慌ただしさが始まったころ、ケビンはアメリカに帰る支度に追われていた。
ケビンがロスに帰る前の日、マリエとケビンはドライブがてら三浦半島の突端に位置する城ヶ島の相模湾を望む展望所までやって来た。夕空と常緑樹の緑、夕陽と寒風に新しく不気味な冬の海が交わる。マリエの愛車、赤のBMW・M3クーペを止め二人ともその中で水平線に沈む真紅の太陽を見つめていた。海には燦然と光芒が輝きを放っている。車は二人を呑み込んだまま師走の冷たい北風を受け、外では海鳥が空気を切り裂くように飛び交う。黒い岩には波の花が舞い上がって見える。
「この海のずっと向こうにケビンはもう帰ってしまうのね」
マリエはわずかな沈黙の後、夕陽と反対の蒼茫たる海を遠望しながら寂しそうにつぶやいた。
「実は私、本当の父が別にいるの」
「 何だって、いまなんて言ったんだ?」
あまりに唐突で思いもよらなかったマリエの言葉に、ケビンは自分でもびっくりするほどの驚きの声を上げた。
「きみには本当のお父さんが他にいるって今言ったのかい?」
「そう、私にはもう一人父がいるの」
ケビンは、夕陽に照らされたマリエの双眸を覗き込むように身を乗り出した。
「本当に? もう一人のお父さんって、どこにいるんだい?」
マリエは自らの出生の秘密を自分の心の内に封印したまま今まで誰にも語ることはなかった。ケビンが親より年の差のあるアメリカ人であり、明日は自分の前からいなくなってしまうという状況がマリエの堅く閉ざされた心の扉を開かせたのだろう。胸の痞えを吐き出す衝動に駆られている自分にふわりと戸惑いながらも言葉を続けた。
マリエは、東の方向を指さす。
「この海のずっと先。ケビンと同じアメリカ」
「えっ、アメリカに住んでるんだって!」
ケビンはまたまたびっくりした。
「その通りよ。だってアメリカ人ですもの」
「オー・マイ・ガッド!」
三度目の驚きは、大きなため息も一緒だった。どう見てもマリエの外見からは、外国人の血が混じってるとはとても考えられない。ただ言われてみると、黒くてつやのある緑髪と言うより、染めてもいないのにダークブラウンっぽい少しウエーブがかったしなやかな髪の毛を持っている。それに日本人には珍しいほど透き通るような白い肌をしている。ケビンは返す言葉が見つからず、ただ黙ってマリエの話しを一言も聞き漏らすまいと真剣な顔付きで耳を傾けた。マリエの出生の経緯は、当然母、由美子の過去に溯る。
◇
マリエは、栗人と由美子が結婚してほぼ十カ月で生まれた。栗人はハネムーンベイビーだと狂喜し、マリエを溺愛した。由美子も嬉しかったが一抹のある不安を感じないわけではなかった。マリエが成長するにつれ、表情のここかしこにリチャードの面影が見え隠れしていたからだ。由美子の不安はいつしか確信に変わっていく。その後栗人は、やはり家元の跡取りとしては《次は男の子を》と、早くも二人目を強く望んだ。今か今かと楽しみに待ち続ける。だがそれ以降、どうした訳か由美子に一向に懐妊の兆しは見られない。
マリエが中学に上がって間もないころだった。栗人はとうとう我慢できず医者に相談してみようと由美子に働きかけた。由美子は色んな理由をつけては頑なに拒絶し通した。だが栗人は妻の執拗な忌避に不可解さを感じつつ、黙ってとりあえず自分だけ検査を受けることにした。その結果、栗人は先天的に子供をつくる能力がないことを医者から告げられる。晴天の霹靂、愕然とした。だが、にわかに一見怪しげなその医者の診断を信用することは出来ない。マリエという立派な娘もいる訳だし、独身時代付き合っていた女性を妊娠させた経験もある。
「そんな馬鹿な! そんなことは絶対にあり得ない。なにかの間違いではないんでしょうか」
栗人は、その事実を自信たっぷりに泌尿器科専門のその町医者にかい摘まんで説明した。
「それはおかしいですな」
栗人の反論に、自尊心を傷つけられたように少しむっとした表情をその医者は浮かべた。「精液検査では、無精子症という結果がはっきり出ています。もう少し詳しく検査をしてみますか? 精液がほとんど透明ですし、たぶん結果は同じだと思いますが」
町医者は栗人の頬から顎を触診するようになで回した。そして目を見据えて自信ありげに言った。栗人の顔は、見るからに殻を剥いたゆで卵のようにつるんとしてすべすべだ。顎髭も年に数回しか剃らない。歌舞伎の女形にしても良いくらい色白で端正な顔立ちをしている。百八十センチ近くはあろうかという長身で、学生時代から女性には持てた。だが、医者の目から見ると、第二次性徴である発毛の悪いことは染色体そのものに異常があることの証しでもある。確かに栗人は自分の腋下の毛が薄いことを以前から気にしてはいた。
「後天的に精液を送るパイプが詰まる場合もありますので、睾丸の組織とホルモン検査をしてみましょう」
町医者はぶっきらぼうに言った。だが実質二回も女性を妊娠させている実績に、栗人は依然強い自信を持っていた。
数日後、再び診断が下された。
「FSHもLHも高い数値が出ているし、テストステロンの値は低い。染色体異常を示す典型的クラインフェルター症候群ですな」
怪しげな町医者は、カルテを翳しながら当然のように専門用語を口にした。どことなく見下したような口調だ。そして勝ち誇ったように査結果の資料を栗人の目前に突き出す。
「つまり睾丸内の精子をつくる工場にあたる精細管が全く機能していない。生まれつきの無精子症に間違いないな、こりゃぁ。失礼だが、子供がいるということは・・・・・」
一呼吸置いて、さすがに町医者は言葉を濁した。
驚天動地、《まさか・・・・・・》。もう疑う余地はない。栗人にはもう自分には子供が出来ないということもショックだったが、《では何故マリエは生まれたのか》という疑問が後から後から沸々と沸き上がって来ることを止めることが出来なかった。
栗人は家に帰るなり、激高する気持ちを抑えながら最初は務めて穏やかに由美子に問いただした。由美子は、最も恐れていたことが的中したことに自分自身激しく狼狽した。いずれはこの日が来るであろうことを予感してはいたものの。小さな肩が小刻みに震える。顔からスーッと血の気が引いていくのが分かる。しばらくして由美子は、観念したかのように泣きながらポツリポツリと話し始めた。
◇
由美子は大学を出て、両親の勧めで、事実上形式だけのお見合い後すぐに栗人との縁談がまとまった。直後、《世間知らずな自分に代々伝わる茶道の家元へ嫁いで務まるのだろうか》という激しい不安に襲われる。
結婚数日前、由美子が所属していた大学時代の茶道部の友人たちから、横浜でお祝いパーティーを開いてもらった。その二次回で、桜木町にあるパブに寄ることになった。マリッジブルーな心境にあった由美子は、その場で思いがけない事を酔った勢いで友人の一人である恒子から聞かされる。
「ねえ、今日、どうして幸子が来てないか知ってる?」
酒癖の悪い恒子が絡むように由美子に尋ねた。そういえば、マリエの中学時代からの一番仲の良い幸子が、このパーティーに姿を見せてないことを由美子は不可解に思っていたところだ。
その日、《どうしても外せない用事が出来ちゃって、申し訳ない》と、幸子は電話で由美子に知らせてきていた。最も祝福してくれるものと思っていた幸子が、由美子の婚約が決まってから妙によそよそしくなってきていたのには薄々由美子も気づいていた。
「幸子に何かあったの?」
由美子はなんの疑いもなく素直に聞き返した。
「あんたもよっぽど能天気ね。幸子、ショックで寝込んじゃったのよ」
「えっ、ショックって、どうして?」
「あんた、ホントに何も知らないの。これだからお嬢様育ちは困っちゃうのよね」
恒子は酷薄そうな一重まぶたの細い目をさらに細めて小馬鹿にしたように言う。
「ちょっと、恒子、もういい加減にしときいや」
鼻白んだように横で黙ってやり取りを聞いていた大阪生まれの尚美が、関西弁丸だしで見かねて口を挟んだ。
「いいのよ尚美。恒子教えて、幸子がどうしたっていうの」
由美子が尚美を振り切って真顔で恒子に問いただす。
「幸子はあんたに彼氏を奪われたのよ」
恒子は吐き捨てるように応えた。思いもかけなかった言葉に由美子は《エッ?》と言ったきり返す言葉が出ない。全くの寝耳に水だ。恒子は堰を切ったように尚美の制止も聞かず話し続けた。
「幸子はね、あんたの婚約者の、東森栗人の彼女だったの。彼と五年も付き合ってたんだから」
幸子は高校時代、茶道部の部長だった。確かに先輩であり茶道の家元の御曹司でもある栗人と親しくしていたことは、由美子も知っている。だがそんなに深い付き合いがあったとは全く気づかなかった。更に恒子は恐ろしい事実を口にした。
「幸子、栗人さんの子を、しかたなく堕ろしちゃったんだから」
由美子は頭が真っ白になった。なにか言おうとしたが言葉が喉に支え声にならない。思わず目の前にあった飲み慣れないカクテルを一気に胃の中に流し込んだ。
「由美子、大丈夫?」
今にも気を失いそうな由美子を尚美が気遣った。
「もうええやん。その辺にしときいな」
恒子を制しながら、尚美は椅子から崩れ落ちそうになった由美子を支えた。はた目にも分かるほど由美子の頬が痙攣している。だが由美子は気を取り直し震える声で恒子にもっと詳しく話してくれるよう頼んだ。
「去年、堺であった『利久の大お茶会』に、みんなで行ったこと覚えてるでしょ」
恒子は、サクランボのような丸くてぼってりした唇を尖らせ由美子を責めるような強い口調で続けた。確かに去年の秋、茶道部の合宿で大阪府の堺市の大仙公園で行われた千利休のお茶会に合宿の一環として一泊の予定でみんなで参加したことがある。
「そこに、東森栗人も来てたのよ。勿論、幸子と示し合わせて。夜はデイトを楽しんじゃったりして」
そういえば、その夜、幸子が宿舎に戻らず大騒ぎになったことを由美子は思い出した。朝帰りした幸子は、《大阪南の難波で飲み過ぎて終電車に乗り遅れちゃった》と、けろっとしていた。そのときは何事も無かったかのように一件落着した。
「だけど、その直後から栗人の態度が急に冷たくなったって、幸子がぼやき出しちゃってさ。そしたら半年もしないうちに由美子、あんたと婚約じゃん。そりゃぁ誰だってショックで寝込んじゃうでしょう」
要するに、利久の茶会で栗人は幸子と一緒にいた由美子を見初めて乗り換えてしまったのだ。その後、栗人は親を通じお見合いという形で結婚を前提として由美子に接近する。由美子の両親は振って沸いた良縁に狂喜し、本人に相談することもなく快諾した。柔順な由美子も親の言うなりに了承せざるを得なかった。おぼこな由美子は裏でそんな画策が行われていようなどとは夢にも思わず全く気づく由もない。
「幸子はそのときもう彼の子を身ごもってたの。彼女は彼をあんたから取り戻すために子供を産むつもりだった。だけど、彼が無理やり堕ろさせちゃった。幸子はその後手首を切って自殺を図ったけど死にきれなかった。そりゃぁ修羅場だったわ。今だって彼女の手首にはためらい傷が残ってるわよ」
「そいで最近どんなに暑うても、幸子はいつも長袖のブラウス来てたんや」
尚美も幸子の自殺未遂のことは知らなかったらしく、驚きつつも妙に納得したように相槌を打った。自殺未遂は事実だったが、《妊娠》は栗人を奪い返すための幸子の仕組んだ全くの狂言だったということにこのとき誰も気づくことはなかった。友人を含め周囲の人間は全て捏造された幸子の芝居に翻弄されていたことになる。最も衝撃を受けたその時の由美子の頭の中は、脳みそを引っ掻き回されたようにグチャグチャになっていた。聞き終わるとショックとカクテルの酔いも手伝って酩酊状態でテーブルの上に頭を乗せて意識を無くしてしまった。
どれほど時間が経っただろうか。宇宙の彼方から《由美子さん、由美子さん》と、誰かが自分の名前を呼んでいるような声が聞こえる。由美子は朦朧とした頭で目を覚ました。恒子や尚美にまじって一人の外人がしきりと由美子の背中を摩りながら、ぎこちなく耳元で名前を呼び続けていた。
「大丈夫ですか? 由美子さん」
自分の目の前に見知らぬ外人の男性の顔があって声をかけられたので、由美子はびっくりして反射的に立ち上がった。よろめいた彼女の身体を男はしっかりと抱きとめた。
「この外人さん、アメリカのネイビーやって。さっきから由美子のことえらい心配して、親身に介抱してくれてはったんよ」
尚美が、変な人じゃないみたいだから大丈夫と言うような仕草で彼のことを説明した。
「私はリチャードといいます。アメリカのネイビーです。休暇でこの店に来ました」
リチャードと名乗ったその男は、アメリカ海軍として横須賀に寄港し、仲間たちと一緒に一週間の休暇を楽しみにたまたまこの店に来ていた。ネイビーの帽子こそかぶっていなかったが、日に焼けた顔に純白のセーラーカラーのユニフォームが栄え、いかにも精悍で実直そうなアメリカ人だ。
彼は、由美子たちがこの店に入って来た途端心臓を鷲掴みされたような妖美な空気を感じた。それからは眩いばかりの光のオーラを身に纏った由美子に目を引かれてしまう。豊麗さ漂う慎ましく気品ある仕草。リチャードは清楚でモノトーンのシックなワンピース姿の由美子の一挙手一投足をずっと気にしていた。
「ありがとう、私は、大丈夫ですから」
由美子は無理に笑みを作りながらたどたどしい英語で答えた。そして尚美たちに支えられるようにふらつく足取りで店を出ようとした。リチャードはさりげなく由美子をエスコートして店の外まで送って来る。
「明日もここに来ています。休暇の間、一週間ずっとここに来ます。また会えますか」
由美子は朦朧とした頭でリチャードの叫んだ言葉が妙に脳の奥深い所に共鳴し、いつまでもこびりついて離れなかった。
二日後、自分でもよく分からないまま由美子の足は再び横浜の桜木町付近にあるその店に向かっていた。リチャードは一人カウンターでジャックダニエルの入ったショットグラスを前にして、物憂げにタバコをくゆらせている。彼は由美子の姿を認めると一転嬉しそうに人懐っこい笑顔を浮かべた。そしてたどたどしい日本語で話しかけた。
「二日酔いはもう治りましたか」
「先日はお見苦しいところをお見せしてすみませんでした。それに優しく看病してくださって、ありがとうございました」
由美子は照れ臭そうに答えた。
「随分、友達にいやな思いをさせらてたみたいだったから。良かったら、何があったか僕に話してくれませんか。あなたの力になりたいのです。あなたはとても魅力的な人だと感じたので」
一生懸命知っている限りの日本語を使っての、アメリカ人特有の単刀直入な口説き文句は、不思議と由美子をその気にさせていた。この場限りで他言の心配がないと思えた。
由美子は拙い英語を交えながら訥々と語り出した。知らなかったとは言え、親友を裏切ったようでこのまま結婚する気になれない煩悶する胸の内を率直に伝えた。リチャードは相槌を打つだけで、由美子の目を優しい眼差しで見つめたまま黙って話を聞いている。何故見ず知らずな外国人にこんなことまでしゃべっているのか由美子自身にも分からなかった。だがリチャードは由美子に話しをさせるだけの不思議な安らぎを与える雰囲気をどことなく兼ね備えていた。
それからは二日間続けて由美子はリチャードに会うため同じ店に足を運んだ。自分の話しに黙ってしかし真剣に聞いてくれるだけだったが、リチャードの柔らかい視線に包まれて由美子の傷ついた心は少しずつ癒されていくようだった。
「あさって、日本を離れます。明日、良ろしければ由美子さんと一緒に食事をしたいのですが」
由美子は、一瞬迷った。それが何を意味するのか。自分の今の不安定な気持ちが怖い。だが意を決して彼の誘いを受けることにした。
次の日、山下公園で待ち合わせて『ホテル横浜』のレストランで二人でディナーをとった。
「インド洋で訓練をして、一カ月後また横須賀に戻って来ます。そのときまでに、僕との結婚を考えておいて欲しい」
それは予期もしなかった突然のプロポーズだ。今まで経験した事な無いリチャードの積極的優しさに由美子は引かれ始めていた。だが一週間後には栗人との婚礼を控えている。それは由美子にとって決断の時だった。リチャードの気持ちを受け入れることで、自分の迷いにはっきりけじめをつけられるとその時思った。その夜由美子は、栗人との関係の終焉を決意して彼と一夜を共にした。
◇
一カ月後、リチャードは横須賀に戻り胸弾ませながらすぐ由美子の家に連絡を入れた。しかし意外にも由美子が既に結婚してしまったことを家人から聞かされる。
あの後すぐ由美子は栗人との婚姻を破談にすべく両親に事情を話した。だがそれは到底今更受け入れてもらえるはずもなかった。そして由美子は一週間後、不承不承とはいえ予定通りに栗人と結婚してしまった。リチャードは大きなショックを受け悩みに悩んだ。諦めきれず何度も何度も由美子と連絡を取ろうと試みた。だが一方通行のまま無常にも時は過ぎてしまう。
合縁奇縁の境地で結婚した由美子は二度と彼に会うまいと心に誓っていた。その後十二年ほど経った1992年のある日、湾岸戦争で足を負傷したリチャードから 《退役して、アリゾナ州の出身地のフェニックスに近いSEDONAという町で不動産屋を始めた》 という手紙と写真が実家に届いてから、彼からの連絡も途絶えた。
由美子似のマリエは確かに自分に似たところはないように栗人は感じてはいた。だが血液型はマリエも由美子も同じO型であり、よもやマリエが自分の本当の子ではないなどとは夢にも思っていなかった。栗人は由美子のことを本当に愛していた。それだけに事情を由美子から聞いたときの栗人のショックは相当のものがあった。
「私もお前も、幸子の芝居にまんまと引っ掛かってしまったんだ。全部私の身から出た錆びかもしれない」
そう言いながらも栗人はそのとき由美子を一時的に激しく責め立てた。だが今更どうなるものでもない。自尊心が強く矜持高い栗人は無理に自分を押さえ込んだ。
由美子もそのとき親友と信じていた幸子の企みを初めて知って激しい衝撃を覚える。だがそれ以上に事実を知った栗人のマリエに対する態度が変わるのではないかと強い危惧を抱いた。しかし栗人はマリエには一切その事実を自ら語ることはせず、掻き毟りたいほどの心の中に封印してしまう。由美子同様、才色兼備なマリエは栗人の自慢であり目の中に入れても痛くないほど愛してきた。そして今までどうりマリエを愛し続けた。だが、そのころからか中学生だったマリエに対する躾の端々は獅子の子落としのように厳しさを一層増していく。栗人にはそういう形でしか押し殺した感情のはけ口を見つけることが出来なかったのかもしれない。
このとき偶然廊下で立ち聞きし、自分の出生の秘密を知ってしまったマリエも自分の生い立ちをかき消すかのように栗人の厳しい躾を真っ正面から受け止めようと必死で努力をした。そうすることがせめてもの母の償いの一端を背負うことになると自分に言い聞かせるかのように。その後マリエが二十歳になって母の方からあらためて打ち明けてくれるまで、決して自分から問いただそうとはしなかった。しかし母から実の父の写真と住所が書かれれたメモを渡された後は、《自分の実の父に会いたい》 という思いが日に日に募っていった。そしてこの春、やっと本当の父親に会うためSEDONA行きを実現させたのだ。
◇
マリエは、当時母の由美子がとった行動を自分の気持ちを交えて知っている範囲でケビンに話して聞かせた。
「今の父も母と結婚する前女性関係がいろいろあったらしくて、結婚直前に母もだいぶ悩んだらしいの。特に当時の親友の嘘に翻弄されて。きっとマリッジブルーっていうやつね。だから横須賀に来ていたアメリカのネイビーに優しくされ、一晩だけ一緒に過ごしたらしいわ。それで私が出来ちゃったって訳。そしてその一週間後、母は今の父と結婚したの。だから私が生まれても父はなんの疑いも持たなかった。でも、母はすぐ分かったらしいの、私がだれの子かって。でも嬉しそうな父の顔を見て、とても打ち明けられなかったらしいわ。このまま分からなければ、そのほうが父も私もみんな幸せだって」
ケビンは、あまりの皮肉なマリエの出生の秘密に眉間に皺を寄せ苦しそうに聞き入っていた。
「母もだいぶ苦しんだらしいけど、決して遊びじゃなかったのよ。たった一週間の間の出来事だったらしいけど、お互い真剣に愛し合ったらしいの。今の父との婚約を破談にしてでも、彼の所に飛び込んでいこうと一時は決心したらしいわ。でも結果的に出来なかった。彼もずっと母のことを思い続けてたらしい。私が二十歳になるとき、母は泣きながらそのことを私に打ち明けてくれたの。私、母の気持ちが痛いほど分かった。私が母の立場だったら、きっと同じことになってたと思う。それから母は、本当の父が写ってる写真と住所が書かれたメモをくれたの。アリゾナのSEDONAって所に実の父が住んでるって」
「SEDONA」
今にも海に沈もうとしている唐紅の夕陽を見ながら、黙ってマリエの話を聞いていたケビンがオウム返しに言葉を挟んだ。
「知ってる? SEDONA、アリゾナ州の。行ったことある?」
「いや。でも名前だけは聞いたことがある」
「その後、ずっと本当の父に一度は会ってみたいって思っていたの。でも会うのも怖かった。会ってくれるかどうかも分からなかった。育ててくれた訳でもないし、まして私のこと愛してくれてるなんて考えられなかったし。でも、春休みに思い切って行ってきちゃった」
「それで、彼に会えたの?」
「ええ」
「で、どうなったの?」
「最初はすごく驚いてた。私が誰だかすぐ分かったみたい。母からの知らせでわたしの存在は知ってたらしいの。そっと抱き締めてくれたわ。でも彼には家族があったし、子供もいた。私の腹違いの弟よ。でも、彼の奥さんには、私のことはなにも話してなかったらしく、もう来ないでって彼女にすごい剣幕で追い出されちゃった」
二人の間にしばらく沈黙が続いた。車の外は暗くなりかけている。岩に激しくぶつかる波の音だけが聞こえている。遠くで船の汽笛が鳴った。
「かわいそうに」
ケビンはしばらく言葉を失っていたが、かすれるような声でつぶやいた。
「私、彼の気持ちは分かるの。自分の子供と言ったって、一度も育てた訳でもないし、まして生まれて一度も見たこともない子供よ。彼には家族もいて、幸せそうだったし。平和な家庭をかき回したようでかえって悪いことしちゃったみたい」
マリエは自分に言い聞かせるようにきっぱりと言った。
「いや、そんなことはない。きっと彼は嬉しかったと思うよ。マリエがわざわざ訪ねてきてくれて。むしろマリエが会いに来てくれるのをずっと待っていたのかもしれない」
ケビンは慰めでなく自分の境遇と重ね合わせて心底そう思った。込み上げて来るものを抑えようとしながら。
「いいの、それはもう終わったことだから」
マリエは突然ケビンの方を振り返ると、意外にもさばさばとした表情で嬉しそうに叫んだ。
「でもそれが私の運命を変えたのよ!」
「運命が変わったって? どう変わったの?」
一転、マリエの弾むような声にケビンは堪えていた涙で潤んだ目を見開いた。
「だって、ケビン、あなたとこうやって巡り会えたじゃない」
「でも、僕とマリエが出会ったことは、それとは関係ないことでしょう」
「それが大ありなの。あなたを鎌倉の禅寺の本堂で初めて見たとき、すっごく驚いたんだから」
マリエは、得意げに眼を輝かせてケビンを見つめた。
「どうして? たしかにあの時、マリエは僕のことじっと見てたね。変な外人がお寺にいたから?」
「そうね、それもあったかもね」
マリエは今度は意地悪っぽくちゃかしてみせた。
「ううん、ウソ。そんな事じゃ驚いたりしないわ。あなたはね・・・・・・」
マリエはもったいぶってちょっと間を置いた。
「あなたは、SEDONAの私の本当の父に、そっくりなの」
「なんだって?」
「どう、びっくりした? 私、あのとき、本気で鎌倉の禅寺に、その父がいるのかと思ったくらいだったもの」
「それで、マリエのお母さんも僕を見てびっくりしてたんだ」
「そうなの。分かるでしょう、母の驚きようが。二人は親戚じゃないかって言ってたくらいだもん」
「まさか」
二人は顔を見合わせて涙目になるくらい大笑いをした。
「でも、やっと分かった。マリエは僕の中にお父さんを感じているんだ。だから僕みたいな死に損ないのオジサンを相手にしてくれているんだ」
ケビンは、すねたように少し投げやりになった。
「違うわ! 確かに最初は、そうだったかもしれない。でも、ケビン、あなたは私のお父さんなんかじゃない。それ以上・・・・・・かも・・・・・・」
最後は小声になっていた。胸が高鳴り、泣きそうになる顔を見られまいとケビンと反対の方を向いた。
「それ以上って・・・・・・、マリエ・・・・・・」
しばらく不自然で重苦しい沈黙が車の中に流れる。だがマリエは今まで誰にも語ったことのなかった真情を吐露したことに一種の爽快感を覚えていた。ケビンは車の窓を少し開けた。満月の明かりがこうこうと海を照らしている。開けた窓から冷たく乾いた潮風が潮騒を連れて入り、上気して火照った二人の頬を気持ち良く撫でていった。