第四話 横須賀 − お屋敷 −
第 四 話 横須賀 − お屋敷 −
「あっ、パパ? マリエだけど。今日これから帰るんだけど、実は、お客さん連れてっていい?」
「お客って?」
「外人さんなの。お寺で修行してる人。家でちょっお茶したいんだって」
「別にいいけど、しかし私は、今日は予定が入っているからお構いできないよ」
「いいわよ、ぜーんぜん気にしないで。わたしが作法するから」
携帯電話を片手にマリエは内心ほっとした。小さい頃から父の東森栗人には厳しい躾を受けている。茶道は既に家元級の腕前だ。が、師匠でもある栗人に居られると未だにやはり緊張してしまう。
「あっ、それから泊まっていくかもしれないから、お食事とお部屋用意しといてって、お母さんに頼んでもらえる?」
マリエはいつもより甘えた口調で父に言った。栗人は電話口の向こうのマリエのいつもとは違う弾んだ口調に軽い戸惑いを覚えていた。
栗人は日頃からマリエの躾には人一倍厳しい。だが一人娘であり跡取りでもあるマリエを目の中に入れても痛くないほど溺愛した。数年前、あることからマリエが自分の実の子供ではないということが分かってからも、栗人に微妙な心の変化はあったもののマリエに対する姿勢は殆ど変わることはなかった。
マリエにとっても実の父親ではないとは言え、生まれたときから何不自由なく育ててくれた父であり師匠であることに変わりはない。ただ、威厳や恐れというよりどこか気を使うようなところはどうしても否めなかった。マリエの記憶の中では、小さいころ栗人に誉められたり抱っこしてもらったことは殆どなかった。
《父に思いっきり抱き締めてもらいたい》
今更とても声に出して言えたものではない。が、心のどこかで父の本当の温もりや優しい愛を求めていたのかもしれない。
◇
「ただいま」
弾むような声でいつもより元気良くマリエは玄関を入った。
二泊三日のプチ出家の断食修行をマリエは思いがけず楽しく過ごした。鎌倉で横浜方面へ帰るレイナとメグミの二人と別れると、マリエはケビンと一緒にJR横須賀線に乗って家まで帰って来た。
マリエの家は三浦半島のほぼ真ん中に位置する大楠山の中腹にある。標高百メートル程の小高い丘の上にあり、観音崎の先の浦賀水道から房総半島まで見渡せる絶景の場所だ。約三千坪の広大な敷地は、海風を遮る防風林とも言える松林に囲まれ閑静でそこだけ他の住宅とは掛け離れた異次元空間の佇まいを醸している。
玄関からマリエが後ろを振り返った。一緒に来ていたはずのケビンの姿がない。彼はまだ漆喰の土塀づたいに見通しのきかない鍵曲りの路を抜けた門の前で立ち止まっていた。圧倒されたようにポカーンと口を開けたまま。それもそのはず、門といっても東森家のは普通の家には殆ど見かけない櫓門になっている。つまり苔むした石垣の上に小さな蔵が乗っている状態なのだ。瓦は白漆喰を使って止められ、姫路の白鷺城を彷彿とさせる。それだけでも十分美しい。約百八十年前の小田原の商人の豪邸だった古民家を移築したこのお屋敷は、江戸末期の商家というよりむしろ古刹か城塞跡に近い風情だ。ケビンはタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥っていた。
「早くいらっしゃいよ」
マリエは、わざと少し意地悪っぽい笑みを浮かべながら叫んだ。ケビンは我に返って、恐る恐る石畳の上を踏み締めるように歩いてきた。そして回りのきれいに刈り込まれた垣根を見回しながらやっと玄関までたどり着く。唐破風板が施された切り妻造りの独立した玄関棟に入るや否やケビンがマリエの真似をして「ワオーッ」と嬌声を上げた。
「すばらしい、信じられない!」
見事に磨き上げられ鏡のように黒光りした大きな梁が天井を真横に貫く。格子天井になっている梁と梁の間の天井板には、見事なまでの鮮やかな花を模った天井絵が一枚一枚施されている。入母屋造りの大広間を持つ本殿とも言える母屋はどっしりとした平屋だ。吹き抜けのロフトにはぐるりと飾りバルコニーが取り付けてあるが、余計な装飾性をうまく押さえて嫌みはない。欄間にはシンプルでアンティークなステンドガラスがはめ込まれ、素朴なシャンデリアが各部屋ごとに下がっている。部屋の壁は梁や柱を見せる真壁で小舞下地の土壁漆喰仕上げと、日本古流の工法に忠実に造られていながら質朴な和の中に洋がうまく取り入れられている。不思議と全く違和感を感じさせない。
木材は殆ど桧だが、上框には欅、土台の大引きには栗の木が使用されているといった懲りよう。縁側の回り廊下からはひさしが二間ほど突き出し自然石の上に立てた桧の柱で支えがしてある。その先の築山を持つ庭園には小さな五重の灯籠がガス灯の照明器とともに建っている。見事なほど気品と古格を兼ね備え、外国人でなくても驚愕させられる造りだ。
しかし、インテリアは一変してロココ調のアンティックが多く、シンメトリックな絶妙なバランスを保っている。
「父が横浜の外人さん達にお茶を教えにいって譲ってもらったものが殆どなの。だからバロック調からアール・デコまで種類はバラバラ。でも椅子やテーブルも猫足の漆塗りが好きみたい」
マリエは満更でもないように蘊蓄を傾けた。たしかに重量感より流れるような線の美しさが強調されている。ケビンの知るアーリー・アメリカンやコロニアル様式とは一線を画するようだ。
マリエの部屋に案内されたケビンはさらに驚きを隠せなかった。部屋の中央には天蓋つきのキングサイズの見るからにふかふかのベッドが余裕を持って置かれている。ドレッサーやチェストなどは、やはりロココやビクトリア調にコーディネイトされたのアンティーク仕様だ。隣の部屋には純白のグランドピアノがデーンと据えられている。
圧巻は、これもアンティークな猫足のバスタブが備え付けられた彼女専用の浴室だった。一部が嵌め殺しになっている大きな窓から相模湾が一望出来る。ケビンは以前観光で訪れたベルサイユ宮殿の中の一室に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせられた。なんとなく違和感を感じているようなケビンの表情を察してか、マリエは、《自分の好みではないけど、父の趣味なのよ》と、言訳混じりに照れ臭そうに笑った。
確かにマリエは、鎌倉で出会ったときにはこんな立派なお屋敷に住んでいるお嬢様だなんてみじんも感じさせなかった。家や部屋からは想像も出来ないくらい清楚で質素な印象だった。服も同じ年頃の女性に比べて、ブランドにこだわらずデザインも色合いも地味で実にシンプルだ。ただどことなく上品なドレッシーさを漂わせている。
アクセサリーと言えば、ピアスはしているものの目立たない小さなものでストレートに下ろした長い髪を上げても殆ど分からなかった。指輪も小さな小指にプラチナの飾り気の無いピンキーリングをつけているだけで、ネックレスもよく見ないと分からないくらい小さなハート形の飾りのついた細みの二十四金のこざっぱりしたものだ。
性格も全く家柄から想像出来ないくらい素直でおしとやかな中に、はつらつさを兼ね備えている。お高く止まったような気取りは全く見られない。
◇
「おかえり。お客様も一緒なの? 一応、お部屋の用意はしておいたけど」
いつも通り清楚な和服姿の母の由美子が客間で出迎えた。慎ましく気品に満ちた仕草は若いころと全く変わっていない。やや下膨れだが黒髪に縁取られた白い顔が魅力的な陰影と奥行きを作り上げている。
由美子の実家は、横浜の東横線沿いの山の手にある。地味でまじめ一筋の公務員の父と、東森家の流れを汲む茶道の教室を営む昔気質の母の間に生まれた。上に妹思いの兄が一人いる。苦労もなく穏やかに箱入り娘として育つ。茶道の関係で、当時、東森家から明眸皓歯な由美子に栗人との縁談の話が持ち込まれた。降って湧いたような幸運に由美子の両親は相好を崩し二つ返事で受諾した。そのときまったく世間知らずだった由美子本人の気持ちは殆ど考慮されることはなかった。
「ケビン入って」
マリエは、廊下でもじもじと落ち着かない様子のケビンに涼やかな声で呼びかけた。
「こんにちは。はじめまして」
照れ臭そうに挨拶するケビンの顔を見るや、由美子は凍りついて一瞬息が止まりそうになった。
「どうかしましたか。マリエも最初そうだったけど、私を見て二人ともどうしてそんなにびっくりするのですか。私の顔になにかついていますか」
ケビンも、由美子の表情を見て逆に驚いたように聞いた。
「いえ、別になんでもございません。ようこそいらっしゃいました。むさ苦しい所ですが、どうぞゆっくりなさっていって下さいませ」
由美子は慌てて笑みをこしらえようとしたが口許が引きつっているのが自分でも分かった。同時に今にも破裂しそうな心臓の鼓動を感じた。薄く頬を染めた母の狼狽振りを見てマリエはケビンに気づかれないようにいたずらっぽく笑った。
ケビンを客間に待たせ台所に行った由美子にマリエはしてやったりとばかりに笑いながら言った。
「どう、びっくりしたでしょう」
「びっくりしたわよ。まさかと思ったけど、よく似てるわね」
「そっくりでしょ。とても他人の空似とは思えないくらい」
「ひょっとして親戚とかだったりして?」
「まさか」
「冗談よ」
由美子は普段余り見せないいたずらっぽい表情を浮かべ顔が明るく溶けた。
「でも年齢的にはSEDONAで会った父とそう違わないのよ。違うのは髪の色と目の色ぐらい。ケビンは今スキンヘッドだけど、頭髪はきっとブロンズ系よ。目の色もブルーでしょ。リチャードは両方とも黒っぽかったわ。あらごめんなさい、余計なこと言っちゃったみたい」
マリエも負けじと茶化す。
「いいのよ、本当だから。でも、いいおじ様だけど、彼は幾つなの?」
「たしか、五十三、四よ」
「えっ、じゃあお父さんより年上じゃない。それにあなたより三十以上も上よ。あらいやだ、やっぱりかなりのオジサンだわ」
いつも控えめな由美子が手の甲を軽く口に当てながら珍しく声を出して笑った。
まさかこの二人に宿命的な顛末が待っていようとは、この時彼女はみじんの想像すら出来なかった。
「ほら、いつまでお客様をほったらかしにしておくの。お点前見せてあげるんでしょ」
「そうそう、お茶でした。着替えなくっちゃ」
由美子は久しぶりにマリエの明るく嬉れしそうにはしゃぐ姿を見たような気がした。同時に、自分自身も耳たぶまで熱気を感じるほど最近味わったことのないような気持ちが華やいでいるのを覚えていた。