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第三話 鎌倉 − 禅寺 −

第 三 話   鎌 倉   − 禅 寺 − (2002年6月)


《バシッ!》

 『警策』と呼ばれる修行僧に注意を与え奮起を促すための僧侶の持つ入魂棒が振り下ろされた鋭い音が僧堂に木霊した。同時に、樹齢七百年以上は経とうかと思われる境内の萌黄色の柏の木からいっせいに数羽の鳥が軋むような声を上げながら飛び立った。

 家族と主治医の反対を押し切ってケビンが鎌倉の禅寺に来て、早三カ月近くが経とうとしている。

 ケイトの調べで、鎌倉で最も古い禅寺の一つに下宿しながら修行が出来るところがあることを知った。早速ケビンはその禅寺に連絡を取り事情を説明し住み込みで療養を兼ねた修行をさせてもらうことが出来るようになった。


 そこでは、座禅を通じて瞑想と気功の組み合わせによる修行が主となる。座して気を感じ自らその気を養うことで生命エネルギーとして体内で循環させる。中医学では自然界を大宇宙、人間を小宇宙と言い、その相関関係を理解し体内宇宙との対話を通じて生命を守る。宇宙の膨大なエネルギーの流れに自分を合わせて気を取り込む。言うのは簡単だがそれによって病の緩和や治癒に繋げるには並々ならぬ修養が必要とされる。ケビンは、自然の持つ気を練ってボール状にイメージし身体の中に取り込み、調身、調息、調心を目指した。無限の宇宙を動かすようにイメージして半眼に目をつぶる。ゆっくりと腹式呼吸をすることによって意識を穏やかにし気持ちを静める。鼻からゆっくり息を二回吸い、数秒止める。そして時間をかけながら同じく鼻から一回で息を吐いていく。ケビンは歩くときもこの方法を心掛けた。まずは自分の健康を回復させ精神力を養うための内なる気を調えることが大事だと思った。


 ケビンの体力は少しずつ復調の兆しを見せていた。顔色も心なしか赤みを取り戻して。抗ガン剤の副作用もあるが、スキンヘッドにした袈裟姿もすっかり板に付いてきている。ケビンは静謐さに身を沈めていた。丁度夕刻の座禅の修行が終わろうとしていた時、その場には相応しくない嬌声がケビンの耳に入ってきた。

「ねえねえ、座禅ってどうやるんだっけ?」

「あぐらみたいに足を組むらしいけど、結跏趺坐って言って結構きついんだってよ」

「そんなことして、本当に痩せるのかなぁ?」

「だって断食だもん。食べなきゃ痩せるに決まってんじゃん」

 三人の女子大生が、私語厳禁にも拘わらず口々に好き勝手な事を言いあいケラケラ笑い転げるように僧堂の廊下を歩いて来た。まるでリゾート気分だ。そしてはた目も気にせず騒々しくケビンのいる広間に入る。マリエと、彼女の大学の茶道部の友人、レイナとメグミの三人だ。彼女らは、雑誌に載っていた最近流行のダイエット目的のプチ出家の記事に釣られて面白半分にここを訪れてきていた。本当は、失意の中でSEDONAから日本に帰って来た後ふさぎこんでいるマリエを見かねて、レイナとメグミが気晴らしになればと思い彼女を誘ったのだ。三日間の断食座禅修行が主なメニューとなる。彼女たちは座禅を終えた数人の僧侶たちの姿を見て場違いな自分たちにやっと気づいた。そして一瞬のうちにしおらしくなった。

 そのとき、なかなか立ち上がれずにいる一人の修行僧に三人は目を留めた。

「大丈夫かしら、あの人」

「あら、外人さんみたいね」

 レイナが笑いを押さえて小声で言う。やっとのことでその修行僧は立ち上がり痺れた足を引きずりながらその場を去ろうとした。そのときチラリとマリエと目が合った。修行僧は軽く会釈をしてそのまま立ち去る。その瞬間、マリエは背筋をピリピリと電流が走るような戦慄に似た鋭い衝撃を覚えた。そして驚きのあまり大きな目を開けて立ち尽くしてしまった。まるで金縛りでもあったかのように身動きが取れなくなって。

《まさか、そんなことあるわけないわ》

 独り言のようにつぶやいた。

「どうしたの? マリエ、知ってる人?」

「ううん、なんでもない。他人の空似だわ」

 やっとの事で返事をしたマリエの脳裏には、三カ月前のSEDONAでの出来事が駆け巡った。マリエはそっと誰にも見られないように一枚の写真を黒のコーチのバッグから取り出してじっと眺めた。そこにはその修行僧と同じ顔をした男の顔が写っている。痺れでびっこぎみの後ろ姿がリチャードのそれとダブって見えた。

 SEDONAで自分を拒絶した本当の父が、まさかこんなところに来ている訳はないと分かっている。それにしてもこんなにそっくりな人がいるなんて。マリエは最初は信じることが出来なかった。そして、せっかくSEDONAでのことを忘れるために気晴らしにと思って来たのに、かえって古傷を思い起こさせるようなことに出くわしてしまったことに、半ば呆れ半ば苦々しさを覚えた。



 次の日早朝、東の空がやっと白み始めたころ、振鈴のけたたましい音とともに廊下をバタバタと一人の僧侶の走る音が僧堂中に響き渡った。『開静』と呼ばれる起床の合図だ。マリエとレイナとメグミの三人は、眠い目をこすりながら渋々布団から起き上がった。八人ほどで寝ている相部屋なのにやけに孤独な気分に襲われる。


 『朝課』と言われる早朝の座禅修行の時間、マリエたちはお寺の修行僧たちと並んでゆうに二百畳ほどもあろうかというだだっ広い本堂の一画に神妙な顔付きで座っていた。左の手のひらを右の手のひらの上にのせ、親指をかすかに触れる程度に合わせ両手で楕円形を作るようにして組んだ足の上に置く。鼻からゆっくりと丹田呼吸を繰り返す。


 どうやら夜半に静かな雨が降ったらしい。たっぷりと小糠雨の水分を吸い凜として生気に満ちた赤紫や藍色の紫陽花が咲き誇っている。雨上がり気持ち悪いぐらいの静けさの中、馥郁とした香りだけが境内に漂い鼻孔を擽る。だがマリエはその数百本の満開になった手鞠のような紫陽花より、斜め向かい側でさっきから足の組み方を気にしてもじもじと落ち着かない仕草の昨日の外国人の修行僧がどうしても気になっていた。

《どうしてここまで来て、実父の妄想に悩まされなければならないの》

 マリエは心の中で、むしろ彼の存在が半ば憎らしく思えていた。

 咳払いひとつ出来ないような静寂の中、マリエの半眼に閉じた目線の端はその思いと裏腹に必死で彼を捕らえよと全神経を集中させているかのようだった。

《バシッ!》その時、静寂をつんざくような警策の乾いた鋭い音が僧堂に轟渡った。と同時に外国人修行僧の体が前に崩れ落ちるように見えた。彼はあわてて体勢を立て直し無理に足を組もうとしてとうとうひっくりかえってしまった。マリエは見るに見かねて必死に笑いをこらえる。何とか足を組み直した彼は、同じ失敗を繰り返さないように肩に力が入りかえってごちごちに固まっているようだ。

《ゴクッ》、誰かがじわっと口の中に溜まった唾液をのみこむ音がした。同時に、どこからか《クーッ》とおなかがなる音も聞こえる。毎食お粥では仕方ない。もうマリエの笑いの我慢も限界だ。そっと開いた薄目の先に同じように薄目を開けて笑いを必死で堪えている外国人修行僧の目があった。目を合わせた二人の顔から思わず密かな笑みがこぼれた。彼のそれは少し引きつっていたがマリエの彼に対する気持ちが一気になじんだ。


 約四十分間、足首の痛みと雑念ばかりが浮かんでは消える拷問にも似た座禅の時間はようやく終わった。昨日の夕方と同じように地獄からはい上がるかのように痺れで立ち上がれずあがいているその修行僧にマリエはゆっくり近づきそっと手を差し出した。

「サ、サンキュ」

「どういたしまして。私、マリエです」

余りの彼の仕草の滑稽さに笑いをこらえるため片方の手を口許に当てながら名乗った。

「私はケビンです。恥ずかしいけど毎回この調子なのです」

「毎回って、初めてじゃなかったの」

「はい、もう三カ月近くも同じことをやっているのに、未だに結跏趺坐はどうしても苦手です。半跏趺坐ならなんとか出来るようになったのですが」


 結跏趺坐とは、お釈迦様が悟りを開いたときの姿と言われ正式な座禅の足の組み方になっている。両足の足の裏を見せて脚を組んで座る。ただ結構きついので初心者には無理な場合がある。その場合、左右どちらか一方の足を太ももの上に引き上げ、もう一方の足を引き上げた足の下に入れる『半跏趺坐』でも良いことになっている。

ケビンは必ずといっていいほど毎回痺れを切らしていた。


「でもあなたは英語がとても上手ですね」

 やっと立ち上がったケビンはマリエの流暢な英語に驚いたようだ。

「ありがとう。でも三カ月もって、いつまでここにいるのですか」

「クリスマスには帰ろうかと思っています」

「どちらに?」

「アメリカです。ロスに家族がいます」

「そう。でもどうしてここに?」

「療養に来ました。病気の療養を兼ねて。それに日本の文化にもとても興味があって」

「病気って・・・・・・?  あっ、ごめんなさい余計なこと聞いちゃって」

 答えに詰まっているケビンの様子を見てマリエは話題を変えた。

「日本の文化に興味がおありなんですか? どんなことに?」

「いろいろあるけど、たとえば茶道とか・・・・・・」

「ワーオッ」

 マリエは思わず地が出てしまったようで、自分の吐いたちょっと下品な反応に《しまった》と苦笑いを零した。しかしすぐ開き直ったように得意げにふざけて見せた。

「私、ちょっとお茶の心得、あってよ。良かったら今度、お茶しません? なんて、冗談だけど、私の家、お茶できるから」

 マリエは急に打ち解けた口調になった。

「マリエさんの家、コーヒーショップですか」

「コーヒーショップ? ふふふ、そうね。いえ、そうじゃないけど。まぁ来れば分かるわ」

「本当ですか。マリエさんの家、どこですか」

「横須賀ってとこ。知ってる? ここからそんなに遠くないわよ。電車で二十分くらい。よろしければお休みの日にでも来ません? あら、でもお休みってあるのかしら」

「あります。二日後、休みがもらえます」

「ワーオッ! 私の帰る日と同じじゃない。じゃ、一緒に横須賀まで行きましょうよ」

 マリエはまた嬌声に似た声を上げ、甘えるようにケビンの手を引っ張る仕草を見せた。

「エッ、いいんですか」

「勿論、大歓迎よ。でも、お休みはその日一日だけなの?」

「いえ、早朝の修行が終わってから、次の日の夕刻のお務めまであります」

「ワーオッ、じゃあ私の家に泊まっていきません? いえ、家には父も母も居るし、それに部屋も沢山あるから。誤解しないでね、ぶしつけにこんなこと言ったからって。でも、お茶以外にも日本の文化、沢山教えてあげるから」

 マリエは、なつっこい笑顔で早口にまくし立てた。だが、いきなりこんな誘いをした自分の発した言葉に内心驚き同時に胸の高鳴りを感じていた。

 かわいらしさと美しさを兼ね備えスタイルも良いマリエは小さいころから異性の関心を集めるのに十分すぎるぐらいだ。今までボーイフレンドも少なからずいた。しかしこれまで一人として自分の家に招いたこともなかったし、ましてや泊まるように誘ったことなど一度もなっかった。


 それから二日間、地獄の特訓のような修行が続いた。朝晩二回の座禅のお務めに僧堂の掃除と読経、禅問答、写経、それに『粥座』といわれるおかゆと梅干しだけの味気無い精進料理の日々。だがマリエにとってはケビンの存在がその苦痛を打ち消していた。二人の会話も不思議と三十歳以上の年の差をさほど感じさせない。それはいい年にしてはまるで少年のような稚気をどことなく漂わせるケビンと、同じく年の割りにそして見かけよりも物腰に落ち着いた秩序があり、いささか古めかしい考えのマリエによるもののようだ。


「どうしちゃったのかしら、マリエ。変な外人オジサンと仲良くなっちゃって。よく話し合うわよねー」

「マリエって、ああ見えても考え方がちょっとババ臭いじゃん。オジサンたちと結構気が合うんじゃない」

 一緒にプチ出家の断食修行に来ているレイナとメグミも冷やかし半分怪訝そうに言い合った。


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