第十三話 秘境 1
第 十三 話 秘 境 1 − 新世界の夢 −
そこはフレッドの言うとおり、いや想像以上に素晴らしい楽園とも言える秘境だった。壮麗な自然に囲まれたこの僻遠の地は、大きな滝がありエメラルドグリーンの幾層にも重なる小さなダムやプールが大自然の営みの中で形成されている。その先は澄み切った水が蕩々と流れ出ているオアシスだ。ここまで大変な思いをして来ただけに地球上にまだこんなユートピアな世界が残されていることが不思議な気がするくらいだった。ケビンとマリエはしばらく言葉を忘れて感激にひたっていた。隔絶の世を生きたネイティブ・アメリカンには最高の場所だったのだろう。まさに隔世の感は拭えない。
そして、そこから程近い森の中に確かにフレッドが言っていた古びた一軒のログハウスが忽然と佇んで建っていた。末口三十センチほどはあろうかという大きなダグラスファーを斧一本で作り上げたような手作りの重厚なフルログ。一見ネイティブ・アメリカンにしては不釣り合いな建物だ。スエーデンの入植者が来て一緒に建ててくれたと言っていたフレッドの言葉が理解出来た。湿度が少ないせいか百年以上も経っている古さにしては腐れや痛みは殆どきていない。約やかな暮らしにはうってつけだ。
二人は草生したドアーを恐る恐る開けた。中は暗く、二人とも咳き込むほど埃とクモの巣だらけだ。マリエは不安げにケビンの腕にしがみついたまま離れない。それほど大きくないリビングには使い込まれススに塗れた石作りの暖炉があった。殆ど灰と化した燃え残しの薪の上には錆びたダッチオーブンがかけっぱなしになっている。両サイドの黒く焦げた重厚な柱には使い込まれたフライパンがぶら下がったまま。天井からは数十本の黒ずんだ手作りのキャンドルが紐で結ばれて簾のようにぶら下げられている。キッチンの壁に取り付けられた埃塗れの棚には一通りの調理器具がそろっているようだ。そしてその奥には小さなベッドルームもある。クモの巣を払い窓を開け放つ。明かりが一斉に跳びはねるように床を覆った。
「これ何かしら」
マリエは、部屋の片隅に埃塗れの布で覆われたやや大きめの箱型の物に目をやった。そっと布を指先でつまみながら捲って見る。
「ケビン、これピアノじゃない?」
ケビンも驚いた。何故こんなところにピアノがあるのか。『スタインウェイ』という刻印がされた小型の縦型ピアノだ。マリエは埃をフッフッと息で飛ばしながら蓋を開けた。
「すごい、象牙の鍵盤だわ」
ポロンとたたいてみる。焦げ茶色に変色した鍵盤が年代を感じさせる。当時、白人から手に入れた戦利品かもしれないとケビンは想像を巡らした。マリエがドヴォルザークのユーモレスクを弾き始める。調律の狂いをマリエの技術がカバーする。つかの間、時間を忘れかける。
「大丈夫だ。修理して、掃除をすればまだじゅうぶん住める。それにここなら誰にも見つかりっこないし」
ケビンが我に返って言った。
「うん、わたしケビンと一緒ならどこでも大丈夫。まるで『大草原の小さな家』ね。わたし、一度こんな生活してみたかったんだ。さあ、すぐお掃除しましょ」
マリエはピアノの蓋を注意深く閉めながら弾けるように笑った。
ケビンは、さらに苛酷になるこれからの生活にマリエが本当に堪えられるだろうかと心配していた矢先だっただけに、少し安堵して胸をなでおろした。また同時にマリエの言葉に閃光が走った。ケビンが少年のとき読み耽ったローラ・インガルスの『大草原の小さな家』に深い感銘を覚えたことを思い出したのだ。この本こそが彼に放浪癖を生み付けてしまったのだから。
ケビン自信も本当は半信半疑だった。ロスのごくありふれた中流家庭の長男として生まれ、ロスで育った生粋の都会っ子だ。ただ父親の母に対するDV(家庭内暴力)を目の当たりにしながら成長した。子供のためにと必死に耐え抜いた母の姿が焼き付いて離れない。父を反面教師に正義を貫き弱者の立場に立つことを夢見た。それが弁護士の道を目指すきっかけだった。だが現実とのギャップは余りにも大きすぎた。
豊饒的物質文明を満喫しステイタスや資産も手にした。だが、何故かいつも物足りなさを感じていた。殷賑を極めた大都会の無機質さは自分の求めていたものと《何かが違う》と。そう言ったジレンマが募りに募ってストレスとなりケビンの病を引き起こしていたのかもしれない。
ケビンはもともと生活力、生命力併せて性欲旺盛で一所にじっとして居られない性癖を持っている。それが彼を放浪の旅に駆り立てたり、家庭運の薄さを滲ませたりしているのだろう。そもそもエピキュラスな思考を身につけている。だが自ら病を患ってからは、健康と環境を重視したロハス(LOHAS)という価値観とライフスタイルを標榜するいささかストイックな世界観に快感を覚えていた。
フランスの画家、ゴーギャンが、やはり近代文明を捨てて《野生》に憧れ《野生》を描き出すため地上の楽園を求めて旅をし、南太平洋のタヒチに行き着いたように、ケビンも現実と幻想が入り交じりスピリチュアルなものを求めていたのだろう。
《マリエと生きよう》
ケビンは、眠っていた自分自身を取り戻しもう一度《風》を吹かせてみようと、水を得た魚のように思わず心の奥で小躍りした。
◇
再び生き甲斐を見いだしマリエとの生活を夢見る中で、ケビンは新たな夢を芽生えさせていた。至福に酔いしれ一時の甘い生活にいつまでも溺れている訳にはいかない。不遇のときには悲嘆に暮れるが、蔓延とした幸せには倦怠が伴う。奔放な中にも綿密な生活設計は保たなければならない。ケビンはもともと敬虔なカトリック信者だ。しかしここへきて、自然界の万物に精霊が宿るというアニミズム的自然崇拝の念を抱きつつあった。
「今、僕には新たな夢があるんだ」
ケビンがボソッとマリエに呟いた。
「えっ、どんな夢?」
マリエは虚を突かれたようにケビンの方を振り返り首を傾げた。
ケビンは弁護士になって常に数十件の事案を抱えていた。処理能力には絶大な自信があった。だが思いとは別に、急速な情報化の中でデジタル社会の不連続な時間に追いかけらている。距離や時間を少しでも縮めようとする強迫観念にいつしかとらわれていた。
正義とは無縁な情けを伴わない仕事。薄い共同体に支えられた帰属意識に乏しい希薄な人間関係。乾いて冷たい砂の上に築く礎。生活全体に宙づりにされたような不可思議な浮遊感が漂う。奥行きを失って平面化した時空間の中で、直線的時間に追われひたすら前に進むことだけにしか見いだせない価値感に支配され埋没していく日々。目の前を通り過ぎる現象にのみ目を奪われ本来の人間性を見誤ってしまう。モラルという最も大切なものを否応無く削ぎ落としながら。膨張を続ける宇宙のようにブロードバンド化するユビキタス時代にはその傾向はますます加速する。その流れをせき止めるのは至難の技だ。
マリンスノーが音もなく深海に降り積もるように心の奥底に静かに沈殿していく。やがてある堆積を超えると密かな化学変化をもたらす。常にさらに上へ上へとはい上がろうとして《生き急いでいる》と感じたときには既に身体は悲痛な叫びを挙げていた。自然の四季や月の満ち欠けのように円環的時間の流れが必要だった。ケビンの身体の中で時間が揺らぎ秩序が失われた。だが揺れ戻しの中で踏ん張っていた軸足を変えることによって、精神的に満たされない人生の価値観の再構築を行うことにやっと気づいた。新たなアイデンティティーの創生を求めて。
「今まで、弁護士試験に何度も失敗したり、離婚問題で訴えられたりしてほんの少しだけ人生の辛酸を嘗めてきた。その都度僕は、どうして自分だけがこんな逆境を味わわなければならないのか、自虐的になって逃げてきた。そのとき僕の周りはいつも鼓舞激励するか、ただ憐れんだり蔑んだりするだけだった。それでも順風満帆とは言えないけど、たとえ底辺を這いずりながらでも、いつも勝ち組にいなければと必死で自尊心を維持しようとしてきた」
半世紀に渡る光と影の軌跡があざなえる縄のようにケビンの心の中に蘇る。
「誰だって多かれ少なかれそうして生きてるんじゃない? みんなそんなに強くないと思うわ。常にスーパーマンを目指す必要はないのよ。自分で言うようにちょっとあなたは焦り過ぎ。もっとのんびり構えたら」
ケビンはマリエの慰めの言葉に深く頷いた。いままで自分にこんな言葉を吐いた者はいない。今まで負っていた重荷が一気に降りたような気がした。
「まさか自分がガンや鬱になるなんて考えてもみなかった。健康には人一倍自身があったんだ。恥ずかしいことだけど、自分が病気してみて初めて分かった。他人の痛みというか、世の中には苦しみや悩みを抱えている人が大勢いるということが。また同時にそれを自分の心の持ちようで治す能力を多くの人が持ち合わせているということも」
意欲の回復と共にケビンは生き甲斐の萌芽を感じ始めているようだ。
「気は持ちよう。いわゆる自然治癒力っていうやつね」
「そう、その自然治癒力を引き出して高めるには、生きようと思う強い意欲が必要なんだ。それは生き甲斐だと思う。何のために生きるのか。それは人によって違う」
「そうね。ある人は、お金のため。またある人は、地位や名誉のためかもしれないわね。家族のため、愛する人のため、子供のため、仕事のためとか。世のため人の為ってのは難しいわね。綺麗事かもしれない。本音は自分自身のためかも。なんだか難しくてよくわかんない」
マリエはほっぺを膨らまして《フーッ》とため息混じりに息を吐いた。まだ幼さが残る。「何故僕はガンに犯されたのか。どうして鬱を患ったのか。そしてもし神に許されるならこれからどう生きれば良いのか」
くそ真面目に訥々と語るケビンの顔をマリエは大きな目を見開いて優しい笑みと共に下から見上げている。
「マリエが僕の前に現れるまで、僕はほとんど自分の人生を諦めかけていた。いつも自虐自嘲の繰り返しの中で、何かが違うと思い続けながら、毎日の生活の惰性に流されながら生きていた。自分に自信を失いかけていた。ガンに犯され、余命一年と宣告されて、正直ある意味ホットした自分がそこにいた。やっと死ねる。これで楽になれるって。自殺願望が僕の心の奥底でマグマのようにうごめいていたのかもしれない」
落胆と安堵の同時進行。明るい未来像に違和感を持ちむしろ虚構やパラドックスに引かれていた当時の自分を回顧するかのように、ケビンは陶酔した表情で語った。
「あなたはそんなに自分を責めたり追い詰める必要はないわ。当時はきっと強い鬱のせいだったのね」
「マリエと出会いそして愛を知って、まだ死ねない死にたくないと思った。強く生きたいと思った。マリエと一緒に生きていたいと思った。自分にこんな生きる意欲がまだ残っていることに驚いた。生をマリエを通じて神からもう一度頂いたと思う。マリエと暮らす夢と、現実の生計手段の接点を見据えながら残った僕の人生を何かに役立てたいとも思った」
「生きがいを感じるって最も大切なことね。それがケビンの新しい夢なの?」
「ああ、そうだ」
「聞かせて。もっと詳しく、その夢を」
マリエの表情が柔らかい輝きに飾られている。
「牧場を作るんだ」
「牧場? 牧場を作って牛とか馬とかを飼うの?」
思いもかけないケビンの唐突な言葉に、マリエは一転意表を衝かれた戸惑いの色を見せまた首を傾げた。お構い無しにケビンは希望に目を輝かせ真顔で続ける。このときケビンの脳裏にはユタ州で牧場を営んでいたスティーブン・ハミルトン一家の姿がありありと映し出されていた。
「ああ。だがただの牧場じゃない。そこで僕のような末期ガンやストレスなどで生きる気力をなくした人達に、再び生きる力を取り戻す手伝いが出来ればと思う」
「ホスピスみたいなとこ?」
「いや、違う。不安や苦しみ、痛みといったものを単に和らげ死をただ待つだけじゃない。生きて行くうえで避けられない挫折や哀しみを受け入れ、積極的に生きる意欲を取り戻すための場所だ」
「何だかよくわかんないけど、具体的にどういうこと?」
今度はマリエは小さく首を捻った。
「今まで僕が鎌倉やSEDONAでやってきたことを実現出来る場所を作る。座禅や気功などの東洋医学とネイティブ・アメリカンのヒーリングを取り入れる。マリエの茶道やホースセラピー、それにアロマも取り入れる。いわゆるイマージョン・キャンプの出来る牧場だ。観光牧場とイマージョン・キャンプを組み込んだセラピー牧場とでも言うのかな」
思いが燎原の火のように口をついて出る。はるかな未知なるものを望む少年のような強い光を眼差しに宿らせながら。ケビンは蓋をされた煮えたぎるナベから勢いよく吹きこぼれるように、意識下に秘めていた熱い情熱を存分に爆発させて一気にまくし立てた。
「一種のコラージュね。それに”イマージョン”って没頭するとか夢中になるって意味でしょ。日本でもイングリッシュ・イマージョン・キャンプってのがあることを聞いたことがあるわ。英語の習得のために英語だけを使う環境の中にどっぷり浸って生活することね。日本人の苦手な英語力向上にはけっこう効果的みたいだわ」
「そう。英語やコミュニケーションが苦手な日本人にはそういう意味でも役に立つかもしれない」
「面白そうね。確かパッチアダムスって人がユーモアや笑いで免疫力を高める療法を取り入れた診療所をつくって、映画にもなったわ。笑いは血糖値の上昇を抑えたり、ストレスホルモンを減少させるんですって。ピエロの格好した『笑い療法士』が日本にもいるそうよ」
マリエも再び目を輝かせながらおどけた顔を見せた。
「僕は弁護士だけど医者ではない。だから治療行為は出来ない。だけど今まで僕が培って来た経験を生かしたい。世の中の多くの人達が心身に苦悩を抱えて悩んでいる。そしてその殆どの人達は、その悩みを打ち明けたり必要な情報を得たり出来る場所を欲している。心に不安を感じた段階で気軽に駆け込める場所を」
「それって駆け込み寺、いえ、駆け込み牧場?」
あくまでもマリエは茶目っ気を保つ。ケビンの余裕のないガチガチの心を少しでも解き放つように。そんなマリエの気持ちが分かってか分からずか、ケビンはおかまいなしに続ける。
「日本にいて気づいたんだけど、夢や希望を無くしストレスを抱えた若者や中高年が多いような気がした。そういった人達にもきっと積極的な生きる力を取り戻すのに役に立つと思う」
「ニートとか引きこもりとか言われる人ね。自然のエネルギーをもらえる環境がここにはある。乾いていく人々の心に潤いを与えてくれる力が」
マリエにもケビンの意図することが、ほんの触りだが分かってきたような気がした。今、地球上に砂漠化がどんどん進行しているように人々の心にも乾きがアメーバーのように浸透している。
「西部開拓時代のアメリカンスピリッツを標榜するような牧場というハードな器に、武士道に代表されるようなオリエンタルな精神を吹き込もうという新たな試みね。まさにケビンが今まで苦労して築きあげてきた《ケビン・メソッド》とも言えるものだわ。きっとアメリカ国内だけじゃなくて日本、いえ世界中から私たちの夢を求めて人々が来るようになるわ」
マリエは興奮の余り、両手を広げて宇宙を包み込まんばかりに空を鷲掴みにするような仕草を見せた。マリエは将来茶道の家元を継ぐことに吝かではなかったが、伝統に縛られ単にしきたりを踏襲するだけには物足りなさを感じていたところだ。高揚を静めるように《フーッ》と息を吐いた。そして言葉を続ける。
「ケビン、あなたが鎌倉で修行した禅とフレッドの教えはとっても共通した面があるわ。それに『茶禅一味』といって茶道と禅の世界も千利休の時代から深い繋がりを持っているのよ。利休の名も《名利共に休す》という禅の言葉からもらったの」
「確か、禅問答で聞いたことがあるけど、どういう意味なんだい?」
「《名利》は名聞つまり名誉と利養、これはお金や財産という意味なの。つまり名誉やお金に捕らわれてはいけないという戒めね」
得意の蘊蓄を付け加える。
「人のことは言えないけど、お金や名誉に縛られている人が多すぎる。日本には清貧の思想というものがあったと聞いたけど。《名もなく、貧しく、美しく》とか。たとえ貧しくても誇りや夢をもって生きる。それにしても詳しいね、マリエは」
「聞きかじりだけどね」
マリエは俯き加減にいじらしいはにかみの表情を浮かべる。
「日本に行く前、日本人は質素で倹約的で勤勉だというイメージがあった。でも現実はちょっと違ってた。道徳的な面が欠如しているように思えた。多くの人が心を病んでいるようだ。幸福の指標というか、価値観の基準が変わってしまったんだろう」
「あなたの言う通りだわ。夢や希望を取り戻し、世界中の心を病んでる人達を救う」
「それには、みんなを包み込むような大きな愛が必要だ」
「壮大な夢ね。でも、私に出来るかしら」
「大丈夫さ。僕たちが力を合わせれば」
「そうね、私も日本の茶道とネイティブ・アメリカンの薬草を組み合わせた新たな茶道を作り出そうかしら」
「それは面白そうだな。それに英語の禅問答でコミュニケーションを図るというのも妙案かも」
「いいわね。これからはグローバルな意味でコミュニケーションがもっと大切になるわ。それで名称はなんてするの?」
純真な思いに突き動かされ、ケビンの気の早さがマリエにも伝染したかのようだ。
「そうだな、マリエのMと僕のKをとって、MKセラピー・ランチ(療養牧場)なんてどうかな」
「MK療養牧場? いいわね。でもたしか昔の西部劇で『OK牧場』ってのがあったんじゃない。そうそう日本の元ボクシングチャンピオンで今タレントがギャグで使ってたわ」
「それはもともと十九世紀末にあった『OKコラルの決闘』のことだよ」
マリエは面映ゆげに笑みを零した。ケビンも苦笑する。諧謔を弄ぶ余裕はない。こんなときケビンとのジェネレーションギャップを感じてしまうのも無理はない。だが明らかにケビンにも強い張りのある声と希望に輝く瞳が帰ってきた。眠っていたDNAが揺り動かされたかのように、マリエが今までに見たこともない生気に満ち紅潮した表情を見せていた。脳内から勢いよくドーパミンが吹き出したようだ。洗い落とした真っ白なパレットに新しい絵の具を落として
再び奔放な絵を描き始めるらしい。ケビンの語る夢は時には西の空が白み始める明け方まで延々と続いた。迂遠さと共に心の片隅にロスに残している家族の余燼の燻りを感じつつ。
◇
二人だけの新たな生活が輪唱し始めた。自給自足を強いられるいわゆるスローライフだ。と言っても実際は獅子奮迅の働きを強いられる。幸い亜熱帯に近い温暖な土地柄だったので豊饒とは言えなくても野生の豆類やウリ、桃、イチジク、アンズやネクタリンなどがたわわに実っている。ケビンは同時にネイティブ・アメリカンの生活を聞きかじっていたことから、昼夜を問わず見よう見まねで厭わず挑戦した。トウモロコシの種を蒔いたり、ウサギなどの小動物を狩猟したり、マスを釣ったり。毎晩キャンドルの灯りでマリエの手作りの夕食をとった。
マリエは開眼したように喜々として南部料理に挑戦した。といっても入手しやすく保存が効くコーンミールをベースにした至極シンプルなものだ。あとはフラワー(小麦粉)にベーキングパウダー、塩、卵、ミルクそれに油があればいろんなバラエティーが楽しめる。混ぜて焼けばコーンブレッドができる。ベーキングパウダーを加えればコーンケーキ。ガーリックパウダーに変えればハッシュ・パピー(名前の由来は、焚き火の周りを走り回る猟犬に投げ与えて静かにさせたことからきている)と呼ばれる、元々ハンターの手弁当の付け合わせにした揚げ物ができあがる。コーンチャウダーやシチュー、コールスローといった簡単だが心のこもったマリエの手料理がテーブルを飾った。
ログハウスの修理も急ピッチで進めた。ケビンは、学生時代放浪の旅をしていたころ、カナディアンロッキーのジャスパーという町から入った山奥でログキャビン作りを手伝ったことがある。飲み込みの早い彼はチェーンソー片手に一端のログビルダーとしてならした。当時を思い出しながら喜々として作業を進めていった。丸太の透き間には苔を埋め込み、雨漏りのする屋根にはスプルースの木の皮を張り付ける。壊れていたベッドやテーブルやドアーも直した。外に小さなテラスも作った。マリエも慣れない手つきで手伝いながら、汗にまみれて働くケビンを頼もしく思っていた。
夜はいつも軋むベッドの上で愛を確かめ合った。
ケビンの汗の匂いとマリエの花びらから放つ馥郁とした芳香が入り交じり微妙な刺激を誘う。同時に安らぎに満ちた匂いだ。三日と開けず二人は激しく求め合い一つに溶け合った。あるときは月明かりの下で、またあるときはキャンドルを灯して。
合気道で鍛え上げられたマリエの身体は、筋肉質とまではいかないが適度な引き締まりを見せている。それでいて全体的にはふっくらとした妖美な柔らかさを保つ。 胸もケビンの手のひらにすっぽりと納まるほどの程よい膨らみだ。ヒップは、エアバスの尾翼のように下の括れがツンと上がって程よい張りがある。よく見ると両方の尾てい骨の所が微かに黒ずんでいる。小さいころからの乗馬の鞍擦れの跡が残っているようだ。
マリエはケビンに少し触れられただけでピクンと痙攣するように反応した。ケビンはその都度欲情をかき立てられる。マリエはいつもケビンをそのまま受け入れた。ケビンは横向きに後ろからの姿勢を好んだ。年齢的にこのほうが楽なのだ。それに同時に果てた後もマリエの芳醇な滝壺にケビン自身を残したまま危ういけだるさに身を委ね深い眠りに落ちていく。だが萎えると朝には自然にマリエの中から離れてしまう。それでもマリエは決まって後ろ向に小さく身体を丸め、ケビンの腕枕と広くて分厚い胸の中で子供のように蹲り安心しきって眠りにつく。そして満足げに朝を迎える。それこそマリエが小さいときから夢に描き続けていたことだった。
勿論ケビンは日々の療養の瞑想も欠かさなかった。岩の上で座禅を組み、垢離のためマイナスイオンに満たされた滝に打たれる。マリエもフレッドから教わった薬草を煎じて献身的にお茶を立てた。
マリエとの毎日の他愛ない会話もケビンを癒すのに十分だった。ある日、頭上高く大空を優雅に舞うアメリカン・イーグルを見上げながらマリエがうっとり呟く。
「わたしの前世はきっと鳥だったんだわ」
「えっ、ホント? どうして?」
ケビンが面白がって聴く。
「分かんないけど、なんとなくそう思うの。ケビンもきっと前世は鳥なのよ。自由、気ままに飛び続けて」
「僕の前世が鳥だって? 高所恐怖症なんだぜ、僕は」
「いいじゃない、高所恐怖症の鳥がいたって」
マリエは即座に返す。ケビンは困惑気に微笑みを投げかけた。こうしたおどけた所作と不可解な無頓着さがケビンを和ませる。マリエとの暮らしは生き生きとした張りのある潤いを与えケビンは前にも増してみるみる健康を取り戻していった。マリエは慣れないことばかりで失敗を繰り返していたが、瑞々しい微笑みを漂わせ毎夜寝物語に二人の将来の夢とロマンを語り合った。そして楽しくて仕方がないような明るく溌剌とした表情をいつも見せていた。だが容赦なく時間は過ぎていく。
そんなおり、春樹は二階堂と一緒にSEDONAの占い師、パティの家を再び訪ねようとしていた。