第十一話 大寄せ茶会
第 十一 話 横須賀 2 − 大寄せ茶会 −
飽かぬ別れを強いられたった二泊でSEDONAから日本に帰って来たマリエは、ケビンの言葉に不可解さを抱きつつ泣きの涙で失意の日々を送っていた。ケビンへの思いを振り切ろうと思えば思うほど、ケビンとの思い出がマリエの脳裏に頻繁に現れては心の中心に居座り続ける。
「マリエ、大丈夫?」
つくねんとして部屋から出ようとしないマリエを心配して由美子は声をかけた。マリエはけだるい物憂さに身を委ねながら手にした携帯電話をじっと眺めていた。そこにはストラップ代わりにハート形のドリームキャッチャーがついている。マリエは 《うん》と、ちょっとお座なりの返事を返した。
「横浜に、なんかおいしいものでも食べに行こうか」
由美子は敢えて能天気に振るまう。SEDONAで母にも言えない何かしらつらい出来事が起こったことは暗に想像出来た。だがそれには一切触れようとはしない。マリエにとってはむしろ鬱屈した陰りを微塵も感じさせない母の気遣いが嬉しかった。
「うん、行こう。でも今日はお母さんの奢りよ」
マリエは携帯電話を大事そうにコーチのバックにしまいながら、魔物をふっ切るかのように無理に明るく応えた。
◇
東森家では、家元の一大イヴェントである大寄せ茶会を間近に控えその準備に追われていた。
「春樹君、マリエとのこと、そろそろ具体的に話を勧めたいんだが、どうかね」
東森家の将来を真剣に考えなくてはならない。一人娘のマリエの婿になり跡取りとしてふさわしい人物でなくてはならない。帝王学を身につけさせるにはそれなりの時間が必要だ。孫の顔も早く見たいという飛躍した焦りを栗人は日毎重ねていた。
「はい、私の方は・・・・・・」
春樹は満を持して待った目的がいよいよ達成される喜びを隠すかのように、下唇を噛み締め笑いを殺しながら言葉を濁した。
「君とマリエのことはもう周知の事実だし、今度の大寄せ茶会の席でひとつ皆さんに正式に発表しても良いのではないかと思っとるんだが」
「はい、ありがとうございます」
春樹は慇懃に深々と頭を下げ畳みに顔をつけるようにほくそ笑んだ。
数日後に大寄せ茶会が迫っていた。大寄せとは普段の小人数の茶事や茶会とは違って、大勢の人が訪れお茶の世界を知って頂こうという趣旨で催されるものである。それだけに普段の準備や作法と違った入念な用意が必要とされる。春樹は初めて今回の茶会のすべての責任を任された。
「師匠、今回の掛け軸のテーマでございますが、『日々是好日』でいかがでしょうか」
「目出度い席でもありうってつけだの。ところでお茶菓子の手配はどうなってるかな。ひとつ抜かりのないように」
「はい、心得ております。濃茶用と薄茶用で用意致しております。一般的な茶巾絞りは欠かせないかと。あと、今回は有平糖も準備しております」
「口の中で蕩けるような上質なものを頼む。今回は今までにない盛大な茶会にしたい」
臆面もなくもったいぶった春樹の口調にも、いつもになく栗人は上機嫌だ。
「ところで・・・・・・」
一転、栗人は押し殺した小声になり春樹に近づいて糾した。
「その後、あの外人の方は大丈夫だろうな」
「はい、先日マリエお嬢様をアメリカから連れ戻しましたとき、徹底的に痛め付けておきましたので。余命いくばくもない妻子持ちですし、これ以上マリエお嬢様の前に姿を現さないように念を押して置きました。心配されなくても、そのうち勝手にくたばってしまうんじゃないですか」
春樹はいつものか細い声と裏腹に周囲に憚ることなく得意げに不適な笑いを浮かべながら豪語した。
「しっ、声が大きい。しかしマリエも困ったものだ。あんなどこの馬の骨かも分からない奴にのぼせ上がるなんて。そっちの方もちゃんと頼んだぞ、春樹君」
「はい、お任せください」
春樹は一瞬背筋が凍るような冷酷な表情を見せ含み笑いを浮かべた。
丁度外出から帰り、仕立て上がった茶会用の着物を見てもらおうと父の元を訪れたマリエは漏れ聞こえてきたこの二人の会話に思わず廊下で立ち止まった。全身が耳になったように全神経を集中させた。合わせた両手を口に当て飛び出しそうになった声を必死で抑えようと肩が震える。マリエは驚きやショックもさることながら込み上げてくる激しい怒りを必死で抑え込んだ。そして唇を噛んでどう行動すべきかぐるぐると考えを巡らした。
その夜、昼間マリエの家に茶会の準備の手伝いに来ていたレイナからメールでなく珍しく一本の電話が入った。張り詰めた声だった。レイナはいつものおっとりした様子から一変して早口になって興奮した口調でマリエに告げる。
「ねぇ、ねぇ、聞いて、聞いて。分かったわよ」
「なにが?」
マリエは父と春樹の会話を偶然耳にしてしまった後、ベッドの上で錯綜した頭のままボーッとしている。なにか他人の夢の中に入り込んでしまったかのような心もとなさを感じつつ、レイナに曖昧な生返事をした。
「お宅のお弟子さんの春樹って奴よ。どうも以前、どこかで会ったことあるような気がして、ずっと気になっってたけど、今やっと分かったのよ」
「ふーん。それで?」
マリエは内心 《そんなことどうでもいいじゃない》 というようにあまり関心を示さず気のない相槌を返した。
「ニューヨークよ。ニューヨーク」
「ニューヨークがどうしたの」
「ワシントンスクエアーで、ナンパしてきたいやらしい男がいたじゃん」
マリエは朦朧とした頭で必死でそのときのことを思い出そうとした。
「あいつよ、あいつ!」
「えーっ!」
マリエは頭から水を掛けられ突然目が覚めたように大声を上げた。
「まさか! でもどうして分かったの」
「メガネよ、メガネ。今日、マリエんち行ったとき、あいつがメガネ外して汗拭いてるとこ、偶然見ちゃったのよ。ニューヨークじゃメガネしてなかったから分からなかったけど、間違いないわ。あの顔は二度と忘れない。きっと最初から計画的にマリエに近づいたのよ」
レイナは同じ言葉を反復させながら鬼の首でも取ったかのように誇らしげに言った。
「そういえば、いつからメガネかけてるんですかって聞いたとき、アメリカ留学中はコンタクトしてたけど、度が進み過ぎて日本に帰ってからメガネに変えたって言ってたわ」
マリエは悍ましさに背筋がぞっとして身震いした。同時に畳み掛けるように今まで味わったことのないような憤然とした感情の沸騰を覚えた。そしてその瞬間ふっ切れたように臍を固める。
「ねぇ、レイナ、ちょっと頼みがあるんだけど」
◇
東森家では大寄せ茶会の当日、早朝から慌ただしくみんな動いて招待客の受け入れの仕上げに余念が無かった。
「マリエはどこにいる」
朝からマリエの姿を見ていない栗人が由美子に聞いた。
「まだ寝てることはないと思いますけど、ちょっとマリエの部屋を見て参ります」
そういえば、昨日の朝、《横浜で友達に会い、帰りは遅くなるので食事の心配はしないでいいから》と言って出かけたっきり由美子もマリエの姿を見ていない。大寄せ茶会の準備の忙しさで全く気にする余裕もなかった。由美子は胸騒ぎを覚えた。
「あなた、マリエの姿がどこにも見当たりません。どうしましょ」
由美子は慌てて戻って来ると震える声で言った。
「こんなときに、何を考えておるんだ。もう時間がないからほっときなさい。春樹君との婚約発表はとりあえず延期だ。お客様にはマリエは病気だと申し上げなさい。けしからん」
栗人はぶつぶつ言いながらも否応無く来客の応対に追われていた。
大寄せ茶会も無事盛況のうちに終わった。
次の日の朝、春樹は栗人に呼ばれた。
「春樹君、マリエがいなくなったが、どうなってるのかね」
「私にはさっぱり」
栗人の憮然とした面持ちに春樹は泣きそうな顔をして気弱に答えた。
「あなた、警察に届けを・・・・・・」
由美子も気が動転し今にも泣き出しそうになっている。
「馬鹿なことをいうな。そんなみっともないことが出来るか」
栗人はイライラしたときに決まって見せる貧乏揺すりを一段と激しくしながら焦燥感を爆発させた。
「でも、もしものことが・・・・・・」
傲然として世間体を何よりも重要視する栗人に対し、それ以上だれも何も言えずしばらく沈黙が続く。
「旦那様、マリエお嬢様からのお手紙が」
そのとき、お手伝いの女性が不安顔で廊下を小走りに一通の手紙を持って来た。
栗人は引ったくるように取ると急いで封を切った。
『お父様、お母様、しばらく一人になりたいので旅に出ます。温泉にでもつかっていろいろと考えたいと思います。どうか心配はなさらないで下さい。そして私のわがままをお許しください』
といった内容だった。消印は横浜になっている。レイナがマリエに頼まれて、マリエが日本を離れた次ぎの日に投函したものだ。
「全く、こんなときに家出するなんて、けしからん。春樹君、心当たりの温泉場を捜したまえ。いいか絶対、警察ざたなどにはしてはならんぞ」
「はい!」
春樹は栗人の苛立った口調にいたたまれず逃げるようにすっ飛んで行った。
由美子は何故かそのとき《ふっ》とケビンの顔が脳裏を過った。怒りと不安が入り交じった栗人の張り詰めたような様子とは裏腹に、由美子の心のざわめきはマリエの真意を察してか夜の鶴のような不思議な安堵感に包まれていた。
マリエの所在が分からないまま一カ月近くが経った。
「殆どの温泉場の旅館やホテルをくまなく当たって見ましたが、マリエさんはどこにも・・・・・・」
春樹が恐る恐る蚊のなくような声で栗人に言った。栗人は従容を装い腕を組んで鬼のような形相で黙って庭を睨みつけている。池の鯉がパシャッと音を立てて跳ねた。彼は思慮深そうな面持ちでゆっくりと煙草に火を付ける。
「春樹君、私は君のことを少し買い被っていたようだ。どうやらマリエとのことは考えなおさなきゃならんようだな」
栗人は激情を抑えたような声色で威圧的に告げた。人一倍プライドの高い春樹は、悲憤慷慨した栗人の思いがけない言葉に今までに味わったことのないような激しい屈辱感を覚えた。これまで積み重ねてきた緻密な計画を何が何でもここまできて絶対に頓挫させる訳にはいかない。叱られた子犬が買い主を媚びるように上目使いに栗人を見据えた。そして怒気を抑え耐え兼ねたように恐る恐る言いかけた。
「あのぉ、まさかとは思うんですが・・・・・・」
春樹の消え入るような言葉を阿吽の呼吸で栗人が遮った。
「あいつのところか。国外へ出たのなら、出入国管理事務所に問い合わせれば分かるはずだ。すぐ弁護士に連絡して調べさせなさい」
「はい!」
春樹は栗人の仏頂面を一刻も早く逃れたくて飛ぶように走り去って行った。
既に疑う余地はなかった。栗人は怒り心頭に達し《何が何でもあんな男にマリエを渡してなるものか》と、こめかみに青筋が立つほどむきになっていた。
反面、栗人の心の中では憤りとは正反対の呻吟と後悔に似た感情が見え隠れしていた。後継者選びの焦りとケビンへの憎悪から、春樹をマリエのフィアンセにしようとしたことがあまりに性急すぎたのではないだろうか。冷静に考えれば長口舌を振るう春樹の一見造詣の深さには空疎で軽佻浮薄な一面が窺える。どうも彼の危ういトリックに惑わされていたのかもしれない。薫陶を施すにも程遠い気がする。思えば彼の言うなりでちゃんとした身辺調査すらしていない。栗人は狭窄的視野で一種のパラノイアに陥っていた自分を悔いた。
だからといってケビンを正当化する理由は全くない。後継者選びをもう一度考え直すにしても、むしろ今はケビンからマリエを取り返すことが焦眉の急であることに変わりはなかった。
《あの野郎、ぶっ殺してやる》
一方春樹は春樹で目を真っ赤に充血させ、歯の根を鳴らすほどケビンに対する憎しみに満ち溢れていた。
《あんな奴にここまで来て俺の計画を潰されてたまるか。なにがなんでも必ずこの計画を成就させてやる》
という決意と共に殺意すら窺わせる敵意を露にした。