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第十話 SEDONA 3

第 十 話   SEDONA 3             (2003年3月)


 大学を卒業したばかりのマリエは、ケビンのことを振り切るかのように跡取りとして茶道の道に没頭していた。そんなある日、郵便受けに彼女宛の一枚の絵葉書を見つけた。それは壮大なレッドロックの山々に沈む夕陽を写したものだった。マリエは瞬時にそれがSEDONAだと分かった。 

《父のリチャードからだわ》

 とっさにそう思い込んだマリエは、驚くと同時に感激に胸を膨らませた。そして短い文面に目を通した。

『SEDONAのきれいな夕陽を見るたびに、マリエのことが思い出されます。SEDONAの自然のパワーに癒され、再発した病からもまた解放されつつあります。今、ネイティブ・アメリカンの居留区で生活しています。きみが恋しい。ケビン』

「ケビン! ケビンからだわ。どうしてSEDONAにいるの。再発って、身体の具合は大丈夫なのかしら」

 マリエは、まさかケビンが実父、リチャードの住む同じSEDONAにいるなんて思いもよらなかった。今までのケビンと一緒に過ごした日のことが次から次に思い出され、波紋が広がるようにどんどんと空想が膨らんでいく。

 そういえば、リチャードに会いにSEDONAに行ったとき、観光さえせずに逃げるように帰って来たマリエが感じた不思議なパワーに似たエネルギーのようなものは一体なんだったのか。そこにはケビンを癒すパワーが潜んでいるというのか。こんな誂えたような偶然が本当に起こり得るのだろうか。ふたたびマリエの頭の中に、意識的に忘れようとしていたSEDONAの思い出が再びズームアップされた映像のような強烈な膨らみを見せ始めた。胸の鼓動が早鐘のようになるのを感じ居ても立ってもいられなくなっている。

「どうしよう、行かなければ。ケビンの所へ、今すぐ行かなければ」

 意に反してマリエの思いは際限なくどんどん膨らんでいった。


 ケビンが日本を去ってから春樹はすっかり安心しきっていた。レイチェルとの逢瀬を重ねる一方で、それまで以上にねちねちと露骨にマリエに迫るようになった。《師匠の栗人も完全にその気になってくれている》、マリエと東森家を手に入れるのは《後は時間の問題だ》と春樹は高をくくっていた。マリエも父の手前、疎ましさを感じつつ春樹と食事をする程度の気乗りしないデートには応じざるえを得ない。ケビンのことはずっと頭から離れなかったが、一緒に撮った写真を眺めるぐらいでロスの家族の元に帰った彼をどうすることも出来ない。そんな折りの思いがけない絵葉書だった。

 自分の部屋に戻るとマリエは無意識のうちにスーツケースを開いていた。だが栗人に何と言って許しを乞おうか。いや言ったところで許してもらえる訳がない。加えて、阿漕なまでの粘着性的性格の春樹に至ってはあらゆる手段を使って腕ずくでも阻止してくるだろう。マリエは想像するだけで鳥肌立ち、身震いがした。

 マリエは逸る気持ちを自ら諌めながら母の由美子にだけは自分の気持ちを訥々と伝えた。冷静にマリエの話を聴いていた由美子は言葉少なに静かに涙を流した。

「私は聞かなかったことにします。お父様には置き手紙を書いて行きなさい」

 そう言ってマリエの手を優しく握り締めた。

「気をつけて行くのよ。でもSEDONAって不思議な町ね。お互い変な係わりが出来ちゃったわ。やっぱり何かすごいパワーを持ってるみたいね、SEDONAってとこは」

 由美子の言葉で、マリエが初めてSEDONAを訪ねたとき言葉では言い表せないようなパワーと畏敬の念を身体に感じた意味がこのとき少し理解できたような気がした。

「あっ、ちょっと待って」

 そう言って由美子はタンスの前に行って何やらゴソゴソすると、黙ってマリエに白い封筒を手渡した。

「なに? お母様」

「お守りと、少しだけど足しにして」

 深くうなずいた由美子の大きな目からスーッと涙が落ちた。母とそっくりのマリエの目も今にも涙で溢れそうになっていた。 



「馬鹿もん! なぜあんな死にそこないの中年男の所に行かせた!」

 次の日の朝、栗人の怒号が家中に響き渡った。

「マリエには、春樹君という若い優秀な青年こそがふさわしいのだ。絶対あんな奴の所になんか行かせんぞ。許さん!」

 普段豪放磊落で鷹揚そうな栗人にしては、珍しく感情をあらわに血相を変えてどなりちらした。覚悟してたこととはいえ栗人の怒髪天を衝くほどの激昂ぶりに由美子は座り込んでわなわなと小さな肩を震わせた。

 栗人はすぐに春樹に連絡を入れ状況を説明しマリエを連れ戻すよう指示した。

「し、師匠、分かりました。だっ、大丈夫です、私が必ず何とか致しますので任せてください」

 まったく思いがけないマリエの行動に春樹も狼狽して動揺を隠しきれない。だが同時にある目算を思いつく。


 本当は、春樹にとってはそれどころではない風雲急を告げるほどの雲行きで窮地に追い込まれていたところだった。 

 もともとギャンブル好きの彼はアメリカに留学中、と言っても実際のところはカリフォルニアの語学学校に籍を置いただけのようだが、酒色に耽溺の上、ラスベガスを始め北はリノから南はラフリンまでといったネバダ州の名だたるカジノで有名な街を遊び歩いていた。その結果、サラ金やヤミ金にまで手を染めのっぴきならない状態にまで追い込まれてしまう。あげく、暴力団からその前から今日に至るまでの積もりに積もった数千万円の借金の取り立てにあっていたのだ。

  さらに彼の状況を抜き差しならないものにしていることがある。春樹はイケメンタイプで頭も切れ優しいところも見受けられ、もともと女性にもてる一面は兼ね備えている。さらにギャンブルで勝ったときの金遣いも激しく、手練手管には長けていてその手の女性に事欠くことはない。ただ、金に困ると口八丁手八丁で無心に走り結婚詐欺まがいのトラブルを引き起こすことも少なくなかった。いまや複数の女性から返済を迫られ被害届を出されるような事態にまで追い詰められていた。


 このような放蕩に現を抜かす春樹の性癖は不幸とも言える彼の生い立ちに起因するもののようだ。

 一人息子だった彼は小学生になって間もなく両親を交通事故で亡くした。一旦、養護施設に送られる。しばらくして子供のいない裕福な伯父夫婦に養子として引き取られた。新しい家庭では甘やかされ何不自由なく育ったが、学校では常にひどいいじめにあっていたようだ。微妙に社会での居心地の悪さを味わい、どことなくひねくれた性格になってしまった。その結果媚を売ることで自分で生きて行く術を身につけ、不幸にも歪な形でうまく世渡りをして行くことを余儀なくされた。それはあたかも禁断の果実を口にした結果、死の恐怖をセックスに紛らわせ回避せざるを得なかったアダムとイブのように、ドーパミンを増幅させるギャンブルと女の快楽へとスイッチさせてしまったのだろう。

 勿論栗人やマリエの前ではそんなことはおくびにも出すわけがない。酒もタバコも、ましてやパチンコを始め競艇、競輪、競馬といったギャンブルも一切やらない素直で堅い真面目人間を装い続けている。


 小賢しい春樹は栗人から連絡を受けたとき瞬時にある企みを思いついた。それは、マリエをケビンから遠ざけると同時に、更にケビンを脅迫し抜き差しならない借金の返済にも繋げようという一石二鳥の狡猾な手段だ。

 彼は、執拗に取り立てに来ていた暴力団員の二階堂剛に自分の計画を説明して従涌した。《相手は資産家だ。俺の女に手を出した。不倫をネタに脅迫して金を取る。そうすれば十分な利息をつけて返済できる》

と言ったものだ。しかし春樹にはいつも言葉巧みに言い逃れされているだけに、最初二階堂は懐疑的で慎重だった。だがうまくいけば東森家の資産まで手に入るという魅力に勝てず、結果的に今回も春樹の巧みで扇情的話術にまんまと懐柔させられてしまう。二階堂は春樹に高飛びされないようにとアメリカへ自分も同行することを条件に了承した。


 ただ、この時点でマリエの行き先で分かっているのはSEDONAのどこかという漠然としたものでしかない。とにかくケビンの居所をマリエより先に見つけるのが先決だった。

「大丈夫、向こうの仲間のギャングに調べさせれば、そいつの居場所なんてすぐ分かるはずだ」

 蛇の道は蛇と言わんばかりに、無理に野太さを強調させて二階堂剛は高を括った。

「マリエより先にケビンを捜し出さなければ。時間はない」

 春樹は急かせた。



 すぐさま春樹と二階堂はマリエの後を追って、ロス経由でフェニックスに飛んだ。そこからレンタカーで17号線を一気に飛ばし、約一時間半でその日の夕刻にはSEDONAに着いていた。そこには二階堂の暴力団ルートを通じて連絡していた地元のギャングのダグが待っていた。

「どうだ、ケビンの居場所は分かったか」

 春樹は逸る気持ちを押さえながら聞いた。

「二、三心当たりを探ってはみたが、あんたらの捜しているケビンとかいう男の情報は全く掴めねぇ」

 前以てケビンのことを聞いて調べていたダグは、いかつい外見に似合わず申し訳なさそうにか細い声で言った。

「チッ、頼りにならない野郎だ。任せとけと言ったのはどこのどいつだ」

 日本ではいつも借金の取り立てで脅され痛めつけられている春樹は、このさいとばかり驕慢さを窺わせながら二階堂を睨みつけた。

「とにかくなんとか早く捜しださなきゃ。手遅れになる」

「でも、どこをどうやって捜すんですかい」

 二階堂は完全にお手上げといった情けない表情を見せた。日本では高飛車に構えているが、初めての海外でまったく英語の出来ない彼はアメリカの空港に着いた途端借りてきた猫同様おろおろと春樹に頼りっきりで、立場が完全に逆転している。

「頼みの綱が一つある」

 ダグが自信のある本来のドスの効いた声に戻って言った。

「OK。それでその頼みの綱ってのは何なんだ。早く教えてくれ」

 春樹は期待に胸を弾ませた。

「今から、良い占い師のところへ案内する」

「何? 占い師? 占い師だって? そんなくだらないところに行く時間があったら早くケビンの居そうなところを捜すんだ」

 ダグの声色の割に一見悠長そうな提案に、拍子抜けした春樹は慌てて拒否した。

「おっと、ここはSEDONAだぜ。ここじゃボルテックス・エネルギーに頼るのが一番ってもんだ。こんなときにはパティと言う占い師の女の所へ行くのがてっとりばえぇ。あいつに聞きゃほとんど何でも片付く」


 SEDONAは、ペルーのマチュピチュやイギリスのストーンヘンジ、オーストラリアのエアーズロックなどと並ぶ世界有数のパワースポットと言われている。パワーのエネルギーには電気系、磁力系、そして電磁力系の三つのタイプがあるが、SEDONAはこの三つのタイプを全部兼ね備えた数少ないパワースポットだ。莫大なエネルギーが渦を巻くように発散されていることから、《ボルテックス(渦巻き)》と呼ばれている。

 それだけに、アーティストや文化人など、その《ボルテックス》を売り物にする人々も多く集まってくる。パワーを使って透視する占い師などもその一つだ。あらゆる宗教を凌駕して捜している答えを強く望むことで夢が叶えられるというものらしい。一種の磁力を帯びた神通力のようなものが生まれるのだろうか。そしてこのSEDONAでのその類いの占い師の第一人者がパティという女だ、とダグは言う。

「ちっ、知ったような口利きやがって」

 自信たっぷりに春樹たちに説教するように言うダグに、春樹は日本語で捨てぜりふを吐いた。

「まぁ良いだろう。じゃあそのパティとか言う占い師のところに、早いとこ行こうぜ」

 他に取り付く島もなくとにかく春樹は焦っていた。二階堂もどこまで理解したのか分からないが他愛もなく首を大きく縦に振った。


 89A号線をヒストリック・オールドタウンと称されるコットンウッドというこじんまりした隣町方面へ南西に二十分程車をはしらせる。途中から左に折れロウアー・レッドロック・ループロードに入る。曲がりくねった狭い道をほどなく走ると、うっそうとした木立の中に何の変哲もない小さな古びた民家が見えてくる。その家の前でダグは車を止め玄関のチャイムを鳴らした。間髪を入れずドアーが開く。黒いレースのマントを頭からまとった小柄な老婆が立っていた。どうやらこの女がパティらしい。丸まった背中、クシャクシャの白髪、大きなイボのある尖った鷲鼻、まるで絵に描いたような魔法使いの風貌だ。

 パティは上目使いにダグを睨みつけるように見た。そして無言のまま目で中に入るよう促した。霊能者につきものの憑依性やシャーマニズム性をさほど感じさせるものではない。だがハローウィーンの仮装パーティーでもやっているのかと思うほど滑稽な姿に、春樹は必死で笑いを堪えて神妙な顔で従った。

 三人が案内された部屋はひんやりとして薄暗かった。よく見ると壁全体がパープル色のコールテンでできた分厚いカーテンで覆われている。あらゆる憂鬱を吸い込んでいるかのような噎せるほどのかび臭い臭いがする。パティは同じ生地で覆われた丸いテーブルの前に座りパチンと指を鳴らした。するとミラーボールのような明かりが灯りテーブルの上の水晶玉が輝き出した。芝居染みた子供だましのような演出に春樹は《本当に大丈夫なのか》と疑いを抱きつつ思わず苦笑した。


 パティは無言でしばらく水晶玉を撫でるように凝視していた。ダグと二階堂は柄にもなく小さく肩をすぼめてパティの様子を見守っている。するといきなりパティが酒焼けしたような嗄れ声で口を開いた。

「その男なら、このSEDONAに居る。ここから真北の方角だ」

 意外にも、風貌に負けないぐらいきっぱりと断言するようにしかも力強い声で言い切った。ダグから一様の話を前以て聞いていたらしく返答は思ったより早かった。

「この真北と言えば、ボイントン・キャニオン・ボルテックスじゃねぇか」

 ダグが我が意を得たとばかりに大声を上げた。そこはSEDONAに五カ所あると言われるエネルギー・スポットの一つだ。

「シィーッ! 本当だな。よし、すぐ行こう」

 何故か春樹は辺りを窺うような仕草で小声になって言った。

「待ちな!」

 パティが身体に似合わないどすのきいた大きな声で制した。

「今から行っても遅い。その男は今ナバホ族と一緒にいる。これから行ってはまずい。彼が一人になる明日にしな」

「しかし、マリエより先に見つけなければ、手遅れになる」

 春樹は旦夕に迫る思いで玄関のドアーのノブに手を掛けた。

「馬鹿もん! 慌てなくても大丈夫。今日はもう暗い、とにかく明日の午前中にしなさい。だがその前に、不動産屋に寄りな」

「なに! 不動産屋だって? 家探しに来たんじゃない。ふざけるのもいい加減にしろ! 俺は人捜しに来たんだ」

 今度は春樹が怒りをあらわに馬鹿にしたような大声を上げた。

「シィーッ。どうして俺たちが不動産屋なんかに行かなきゃならねえんだ」

 今度はダグが、なぜか辺りを憚るように小声になって聞いた。

「そこへ行きゃ、その男のもっとはっきりした居場所が分かる。つべこべ言わずに必ずここに寄ってから行くんだ」

 命令口調でそう言うと、パティは不動産屋の名前と住所をしわくちゃの一枚の小さな紙切れに書いて春樹に押し付けた。今一つ納得いかない顔付きで、春樹は報酬として彼女ににピンピンの百ドル紙幣を差し出した。彼女は、《フン》と鼻で息を吐いてその紙幣を明かりの方にかざすと、ニヤリと笑って隣の部屋に消えて行った。



 パティから渡された紙には、《ハドソン不動産》と書かれている。そしてその不動産屋は、アップタウンSEDONAと呼ばれるホテルや土産物屋が多く集まる通りの一画にあった。

「ハロー」

 春樹と二階堂とダグの三人は勢いよくドアーを開けて入っていった。

「おはようございます、なにか御用でしょうか」

事務机の前に座っていた男が立ち上がって返事をした。

「ちょっと・・・・・・」

 春樹は言いかけると、いきなり叫び声を上げた。

「あっ、こいつだ、ケビンきさまこんな所に・・・・・・」

「なに、こいつがケビンなのか」

 ダグはそう言い終わらないうちに、杖をついてびっこを引きながら応対に出た男の胸倉を右手でつかんでいた。

「ち、違う。私はリチャードだ。リチャード・ハドソンだ。ケビンなんかじゃない。いきなり何をするんだ」

 リチャードは杖を振り上げながら怒鳴った。

「ダグ、待て、こいつは似てるけど違うみたいだ」

 ダグは春樹の言葉に振り上げた左手をそっと降ろした。そしてしわくちゃになったリチャードのシャツの襟を整えてやった。    

「悪かった、人違いだ。だが、あんたが捜してる男にあんまり似てたもんだから」

 側杖を食って憤懣やるかたない様子のリチャードに、珍しく春樹は素直に謝った。

「いいかげんにしてくれよ。この間もホームセンターで間違えられたよ。なんでもナバホの居留区に転がり込んでる変な奴がいて、そいつに私が似てるらしい」

「そ、そいつがケビンだ。で、どこにいるか知ってるのか?」

 春樹は勢い込んで聞いた。リチャードは仕事柄なんの疑いもなく答えた。

「ああ、うわさでは、ボイントン・キャニオンから入った山奥に籠もってるらしい」

「ババアの言ったとおりだ」

 ダグが、してやったりとばかりに叫んだ。

「はっきりした場所が知りたけりゃ女房が詳しいと思うよ。同じ種族の出だから」

 聞かれてもいないのにお人よしのリチャードは妻のリンダに電話をかけた。しばらくするとメールで地図が送られてきた。

「ほら、これが詳しい場所だ」

 ご丁寧にもリチャードは、プリントアウトした紙を春樹に手渡す。

 春樹は引ったくるように取ると、

「ありがとよ」

とだけ言って二階堂の腕をつかんで外に飛び出して行った。

「オーイ、あんたら日本人か? 私にも日本に娘がいるんだ」

 リチャードは何がなんだか訳もわからないまま、ドアー越しに彼らに向かって叫んだ。


 そのころ、マリエはおなじアップタウンのホテルやモーテルを昨日から足を棒にして一軒一軒尋ね歩いていた。丁度一年前、同じように一軒の家を捜しながらこの町を彷徨ったことを思い出しながら。いまもこの同じ町に実の父が住んでいるのを感じつつ、今は全く別の目的でSEDONAに来て別の人物を捜し歩いている。マリエはSEDONAという町に奇妙な因縁を覚えた。気丈と思えるマリエも、今にも泣きそうにべそをかきながら《ハドソン不動産》と書かれた看板のある店の前を通り過ぎた。すぐ近くにいながらマリエとリチャードの二人ともそれぞれの存在に気づく由もなかった。



 ケビンはナバホ族のネイティブ・アメリカン居留区の一画で、ティピーと呼ばれるインディアン特有の居住テントの中で寝起きをして暮らしていた。ティピーは簡単に組み立てられて移動も容易で中で火を焚くことも出来、暖を取ったり料理をすることも出来る代物だ。

 ケビンは、髪も伸び髭も生え日に焼けて引き締まった身体になり飄逸さを漂わせた風貌もネイティブ・アメリカンのそれに近づいている。そして毎朝ベアー・マウンテンと言われるレッドロックに上り、七百年前の遺跡になっている洞穴の前で座禅を組んで気を集める修行を行っていた。お香を焚き深くゆっくりと腹式呼吸を続ける。気のエネルギーを頭のてっぺんに受け、身体の芯を通り抜け血流を良くして心身のすべての汚物を洗い流す。彼は独自のヨーガポーズも編み出し、イメージトレーニングと合わせて来る日も来る日も修行を続けていた。 

 

 特に彼にとっては、お香を焚くいわゆるアロマセラピーが脳を刺激し血液の循環をよくし、彼の自然治癒力を高めるのに非常に効果的だった。香りを鼻から吸うと香りの情報を嗅覚細胞がキャッチし嗅覚神経を通り脳へと伝達される。さらに、大脳辺縁系、視床下部から自律神経や精神などの神経系、免疫系、ホルモンなどの内分泌系などに影響を及ぼす。つまり鼻から吸収して直接脳神経に働きかけるのだ。また、鼻だけでなく呼気や皮膚から入った香りは、血液に浸透し脳やさまざまな臓器の細胞に作用し成分独自の抗菌、抗炎症作用などが発揮され身体の免疫力をサポートする。

 ケビンは効能に合う香りというより、ミントやユーカリ、ラベンダー、ローズ系など、自分が好きで最も癒されと思える香りを選んで使った。中でもケビンのお気に入りはサンタル(白檀)の香りだった。それはマリエのお点前を横須賀のマリエの家で初めて経験したときの茶室の香りと同じだった。

 さらに時々トラディショナル・ヒーラーでもあるフレッドが力を貸してくれた。時折彼は気によって熱くなった両手でケビンの頭蓋骨全体を覆うように包み込む。ネイティブ・アメリカンの言語でなにやら呪文めいた言葉を唱えながら十数分間その姿勢を保つ。その都度ケビンは頭の中でパチパチと線香花火が光るような軽い刺激を覚えた。知ってか知らずか、フレッドの手のひらは磁場を纏っている。それもSEDONAの《VORTEX》のなせる技なのだろう。電磁石と化し、ケビンの頭上に翳されたフレッドの手はケビンの脳内に誘導電流を起こし前頭葉を刺激する。ケビンは被っている思いヘルメットを外すような心地よさを感じた。『反復経頭蓋磁気刺激療法(rTMS)』と言われる、近年効果が認められてきた新しい療法だ。もちろんフレッドがそんな最新の西洋医学を知る由はない。フレッドにとっては長くSEDONAのネイティブ・アメリカンに伝わるお呪いの延長線上にしかなかった。


 瞑想とアロマ、さらに気功・ヨーガを組み合わせてケビンは独自の癒しのテクニックを構築していった。

 そこに、音楽療法に最適とされるモーツアルトのピアノ協奏曲的調べがあればもっと効果的なのだろう。だが、そこは人知れぬ大自然。風や鳥の泣き声、川のせせらぎ、コヨーテやもろもろの動物たちの咆哮がその代替品として十分満たしてくれる。加えて森林浴によるオゾンとマイナスイオン効果はそこに居るだけであり余るほどだ。

 更に、ケビンはフレッドから与えられたアパルーサ種の馬といつも一緒にいることを心掛けた。これもマリエが教えてくれたホースセラピーを実践するためだ。彼女が言ってたように馬との共生も十分にケビンを精神的に癒してくれる。

 ケビンは考えつくありとあらゆる方法で心身の鍛練を試みた。それは後に《ケビン・メソッド》として確立されていく。 



 この日は午前中、木と土で作った、《スエットロッジ》と呼ばれる三角錐状の小屋に入って、古くからナバホ族に伝わる清めと癒しのための修行を行っていた。スエットロッジの中に熱く熱した石を何個も入れ、入り口を分厚い布で覆う。真っ暗な中サウナ状態にして素っ裸で汗をかき身心を解放し毒気を出しきる。スエットロッジの中を、言わば母親の子宮に見立て無垢な赤ん坊に帰って心と身体を洗い流すのだ。


 木漏れ日の光が風で踊る。ひとしきり汗をかき眩しそうにスエットロッジを出るとケビンは一旦ねぐらのティピーに戻った。

「ケビンさん、久しぶりですね」

 木陰からの突然の声に、汗にまみれたケビンはビクッと驚いて振り返った。そこには春樹と見知らぬ二人のいかつい男が壁のように立っている。

「随分と面倒掛けてくれますね、色男さん」

 春樹はにやけ顔で皮肉たっぷりに言った。

「春樹さん、どうしてここに? お元気でしたか」

 ケビンは春樹の顔を見てただならぬ雰囲気を悟った。が、悪びれることなく意識的に親しみを込めて挨拶した。

「マリエがもうすぐここに来る」

「エッ、マリエさんが、ここへ?」

「あんたが呼んだんでしょ。このロリコンすけべオヤジが」

 春樹が吐き捨てるように言うと、すかさず横にいた二階堂の左の拳がケビンの鳩尾ににぶい音を立てて食い込んだ。《ウッ》と呻いて、不意を食らったケビンは腹を押さえて地面に跪く。二階堂は間髪をいれずケビンの顔を蹴り上げる。ケビンはもんどり打って仰向けにひっくりかえった。

「ど、どうしてこんなことを」

 ケビンは口から血を流しながら息苦しさに顔を歪め絞り出すような声で聞いた。

「いいですか、ケビンさん。あんたには奇麗な奥さんと可愛い子供たちがいるはずだ。その上、私のマリエに手を出すなんて」

 春樹は厭味な口調でケビンの耳元にささやきかけた。そして腹部をを押さえてよろよろと立ち上がろうとするケビンの横っ面を、今度は春樹が思いっきり殴った。ケビンはドタッとうつ伏せに倒れる。殴った自分のこぶしの痛さをなだめるように、反対の手のひらでさすりながら春樹は倒れたケビンの顔に《ペッ》とツバを吐き掛けた。

「いいか、これ以上マリエに近づくな。そうでないとあんただけでなく、あんたの家族やマリエさんにも危害が及びますよ。それから、ティピーの中にあった金とカードは口止め料として頂いていきますよ。おっと、カードのパスワードも聞いとかなくっちゃ」

 春樹は恫喝と同時に抜け目のなさも忘れない。なす術もなく春樹に後頭部の長く伸びた髪の毛を鷲掴みにされたケビンは、マリエのことが心配であっさりとパスワードを教えた。

「金はあるだけ持って行け。その代わりマリエさんには絶対手を出さないでくれ」

 ケビンはまた喉を絞るように言った。

「それはあんた次第ですよ。いいかマリエがここへ来てもすぐに追い返せ。そして二度とマリエの前に顔を出すな。分かりましたね、ロリコンの色男さん」

 最後は慇懃に念を押すと、春樹はもう一度ケビンの痛みに歪んだ顔に向けてツバを吐いた。そして笑い袋から出たような奇妙な声で《ヒッツヒッツヒ》とあざ笑いながら立ち去って行った。



 そのころマリエはまだ観光客で賑わうアップタウンにいた。本来、単なる観光旅行であれば頭の中でシミュレーションできるほど現地の地図を嘗めるように調べて目的地に赴く。だが前回実父、リチャードを訪ねたとき以上になんの情報もなく押っ取り刀で日本を飛び出して来ていた。歩き疲れケビンの所在が掴めない絶望感に襲われ今にも泣きそうな顔をしている。そのとき、道路脇の一段上がったところに小さなネイティブ・アメリカンのギフトショップが目に入った。とぼとぼとゆるやかな坂を上がり、一縷の望みを抱きつつその店のドアーを開ける。中に入るといかにもネイティブ・アメリカン風のがっちりとした体格の男がロッキングチェアーをゆらしながら物憂げに座っていた。顔中髭だらけの中にメガネと少し赤みがかった鼻だけが浮き出て見える。

「あのー、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」

 マリエは恐る恐る切り出した。髭男は、メガネの下からジロッと飛び出しそうな大きな目の玉でマリエを一瞥した。が、何も言わない。

「人を捜しているんですけど。五十歳ぐらいの男性で、最近ロスからインディアン居留区に移り住んで病気療養している人なんです。御存じないでしょうか」

 しばらく沈黙が続く。マリエは今にも泣き出しそうな顔を保ったまま、あきらめて帰ろうときびすを返した。

「あんた、マリエさんだね」

 男は顎髭を手で撫でながらやおら口を開いた。

「は、はい。どうして私の名前を・・・・・・」

 マリエは驚いた。それには答えず髭男は黙ったまますくっと立ち上がった。椅子に身を沈めているときはずんぐりとしてなんだかひしゃげたように見えたが、マリエが見上げるほどの大男だ。髭もじゃの大男はインディアングッズの並んだディスプレイの棚の方に向かった。髭男はその中から小さなドリーム・キャッチャーを一つ掴むとゆっくりとマリエの目の前に差し出した。

「ケビンが作ったハート形のドリーム・キャッチャーだよ。あんた、彼が言ってた通りの人だな。あんたが入って来たときすぐ分かったよ。彼からいつもあんたのことを聞かされて、もううんざりしてるくらいだから」

 髭男は見知ったなつっこい顔になって笑いながらウインクをして見せた。

「彼ならボイントン・キャニオンに居るよ。きっと喜ぶよ。早く行ってやりな」

 彼はもう一度サンタクロースのような優しい目をして笑った。そしてマリエの手にハートをグローブのような手を添えてそっと握らせた。ケビンはネイティブ・アメリカンの魔よけとして飾られるドリーム・キャッチャーの作り方を彼らから習って、生活の足しにこの店で売ってもらっていた。それはマリエに想いを込めた、ドリーム・キャッチャーにしては珍しいハート形のものだった。

「これ、買います」

「いいよ、あげるよ。持っていきな」

「いいえ、買わせてください」

 マリエは大きな目いっぱいに涙をためたまま、笑みを浮かべて強引に二十ドル紙幣を押し付けるように髭男に手渡した。


 土産屋の髭男からもらった地図を頼りに、マリエは慣れたハンドルさばきでレンタカーのKIAを飛ばした。やっとケビンに会える期待に胸を弾ませて。89Aを途中で右に折れクリーク・ロードの上り坂をどんどん進んで行く。途中から道は砂利道になりどんどん狭くなる。何度か道を間違えながらゲートの閉まったレッドロックの麓までなんとかやって来た。マリエは地図で確かめると、そこで車を乗り捨てベアー・マウンテンに向かって高鳴る気持ちを押さえながら小人が拵えたようなくねくねとした獣道を急ぎ足で歩いた。顔は憔悴しきったいたがマリエの大きな目はもうすぐケビンに会える喜びに満ち溢れ輝いていた。



「ケビン!」

 バッファローの絵をあしらった生成りのキャンバス生地のティピーの前に、汗と土にまみれ腹を押さえて横たわっているケビンを見つけると、マリエは叫びながら駆け寄った。

「オー、ケビン、どうしたの、何があったの?」

 マリエはケビンの横にひざまづいた。

「やぁ、マリエ、ちょっと転んでしまって。大丈夫だ」

 マリエは、歪んだ顔で無理に笑おうとしているケビンを抱き起こそうとした。

「自分で起きれる。僕に構わないでくれ」

 マリエは、ケビンの意外な言葉に驚いた。

「どうしたの、ケビン、私よ、マリエよ。あなたに会いに来たのよ。大変、血が出てるわ。手当しなくては」

「いいから放っといてくれ」

 ケビンは、ハンカチで顔の血を拭こうとするマリエの手を払いのけた。

「どうしたの、何があったの、誰がこんなことしたの?」

 マリエはお構いなしに矢継ぎ早に言った。そしてハンカチをツバで濡らしてケビンの顔の血を拭く。

「いいかマリエ、よく聞いてくれ」

ケビンは煩悶の中にいた。身体中の痛みをこらえながらマリエに対する自分自身の気持ちを確かめるようにこの瞬間まで思考を巡らして。目の前のマリエを抱き締めたいという衝動を抑えながら。


 マリエを愛惜して止まない気持ちに揺るぎはない。だが嘘偽わりないとはいえ感情だけで判断し行動するにはあまりに年をとりすぎている。それにあいては自分の子供より年下のうら若き娘だ。妻ともぎくしゃくしているとはいえ未だ妻帯者の身。二人の子供たちの子育ても完全に終わった訳でもない。真っ当な思考力を失っている状態でケビンは苦悩の中にも分別ある決断を迫られていた。

「知ってるとおり僕には妻がいる。家族があるんだ。それに君とはあまりにも年が離れ過ぎている。あげくに僕はもう長くは生きられない身だ。君は若くて、素晴らしい未来がある。僕なんかに係わってこんなところに居るべきじゃない。すぐ帰りなさい、日本へ」

 ケビンは腹の痛みを堪えながらありったけの声を絞り出し、自分にも言い聞かせるようにマリエに命令した。

「ケビン、あなた何言ってるの。まさか本気で言ってる訳じゃないわよね」

「いや、本気だ」

「ウソ! 私の知ってるケビンがそんなこと言うわけない」

「君は僕の何を知ってると言うんだ」

「知ってるわ。お願い、ここに居させて。あなたと一緒に居たいの」

 マリエは涙で顔をクシャクシャにさせながら哀願するように叫んだ。

「君がここに居ると僕は迷惑なんだ。帰ってくれ!」

「どうしたって言うのケビン。ホントに、ホントなの?」

「しつこい、もうマリエの顔なんか見たくない。今すぐ帰ってくれ、日本へ」

 マリエは大粒の涙を流しながらふらふらと立ち上がった。ケビンは自分の苦悩に歪んだ顔を見られまいと反対を向いたままだ。

「さようなら。ケビン」

 マリエは力無く言った。ペーソス感に打ちひしがれ血のついたハンカチで涙を拭いた。近寄りがたいほどの寂しげな眼差しを浮かべて。木陰に身を隠すように再びとぼとぼと今来た寂しい細道を遠ざかって行く。涙に曇ったケビンの瞳の中でマリエの小さな背中が悲しげに泳いでいる。やるせなさに胸が詰まる。哀切を極め引き留めたくなる衝動をケビンはやっとのことで抑えた。そして大地に仰臥したままケビンは血の味と一緒に舌唇を噛みしめた。 


「いいのか、ケビン。彼女を帰して」

 途中から駆けつけていたフレッドが、マリエとケビンのやり取りを岩陰から見ていた。

「ひどいことをする連中だ。傷は大丈夫か? 私のいないときを見計らったんだな。すまなかった、ケビン、助けてやれなくて」

「いいんだ、フレッド。これぐらい大丈夫だ」

「いや、彼女にはよくない。彼女はあんたに必要な人じゃ。いまのあんたの身体には、生命力が満ち溢れてきている。だが、あんたの健康が回復しているのは、ここのボルテックス・パワーのお陰だけではない。彼女の愛のパワーがあんたの身体の中に宿っているんだ。その二つの強力なエネルギーが、妙薬として驚異的回復力をあんたにもたらしている。絶対に彼女を失ってはいけない」

 洒脱な風格を持つフレッドは、いかにも年齢を刻んだ重みのある声で諭した。ケビンは一瞬逡巡した。同時に《この恋は実らない》といったケイトの言葉が脳裏を過り迷いを押しのける。キャンバスの描きかけの絵を筆で塗りつぶすかのようにケビンは首を大きく左右に振った。

「ありがとう、フレッド。でも、もう済んだことです」

 心の痛みを物語るように頬の傷が涙で滲みた。




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