第九話 L.A. 2
第 九 話 L.A. 2 (2002年12月)
クリスマスを間近に控えた次の日、ケビンは約九カ月ぶりに帰国の途に就いた。雪景色とは程遠くてもロスの至る所がクリスマスのイルミネーションで彩られている。厳かさと華やかさが演出されいやがおうでも心華やぐ季節だ。
余命一年と宣告されたが、今は殆ど自覚症状はなく気持ちのうえでも生きる意欲がケビンには出てきていた。それは日本での厳しい座禅とイメージトレーニングによる気功を中心とした修行が功を奏していたのだろう。だがそれ以上にマリエの存在がケビンの症状を気が付かないうちに良くしていたことも否めない事実だ。それだけにマリエと別れることはケビンにとって非常につらいものだった。彼女と一緒にいるとケビンは癒されていくのが不思議なくらい実感出来る。ずっとこのまま一緒に居続けたいと思った。しかしそれはどちらの側からも許されるものではない。そしてそのことを二人とも十分理解していた。
ケビンが日本を発つ前、横浜のガンセンターの医師、藤元はケビンの驚異的回復に正直驚いていた。全く前例のないことだった。藤元は、八カ月程前ケビンの主治医であるロスに住むフランクからケビンのことを初めて聞かされた。
《余命一年の末期ガン患者が、全く手術を受けずに日本で東洋医学を受けたいと言っているからフォローして欲しい》
藤元も最初は、《そんなむちゃなことはとても責任が持てない》と断った。しかしフランクとはボストンのハーバード大学の医学部で机を並べた旧知の仲だったこともあり、結果的に引き受けざるを得なかった。そして一旦引き受けたからには藤元も責任ある処方を施さなければならないことは十分承知していた。
「フランケからあなたのことはすべて聞いています。大丈夫、わたしが全面的に責任を持って引き受けます」
藤元は日本では十指に入る優秀なガン専門の外科医師と目されている。だが東洋医学にも造詣が深かった。彼はケビンとの信頼関係を築くことを先決に考えた。ガン治療はもちろんだが、なにより重い鬱を取り除き生きる気力を植え付けなければならない。
「わたしはあなたの考えを尊重する。安心して禅の修行に取り組んで欲しい」
藤元も、ボストンに留学したとき初めての異国の地で身震いするほどの不安に駆られた経験を持つ。増してケビンは余命一年を告げられた病身の身。彼の心境たるや想像して余りあるものがある。
「今までのしがらみを捨て去ること。過去は忘れて今を生きることだけ考えて欲しい。わたしも信じる、あなたは必ず治ると」
藤元のような立派な医師に巡り会ったのもケビンにとって大きな助けとなった。それからケビンはフランクとの約束を守って、月に一回藤元の元を訪れ診察と放射線治療と漢方の投薬を受けた。
そして帰国後、ケビンはロスの病院で再検査を受けた。MRI(磁気共鳴断層撮影)や細胞診検査の結果は藤元医師から報告は受けていたものの、フランクも《信じられない!》と驚くほど回復していた。放射線治療で上腹部が日焼けしたように変色している。当初二インチ程あったガン細胞は完全に消滅した訳ではなかったが、瘢痕が認められる程度でほとんど消えかかっている。進展も転移も見られない。白血球の数値もさほど低くない。吐き気や下痢などの副作用も殆どないという。ケビンの顔色や目の輝きからしても回復が見て取れた。奇跡としか言いようがない。西洋医学においても、ナチュラルキラーと呼ばれる免疫細胞が増殖することで自然治癒力が高まりある程度ガン細胞を叩くことが出来ることは分かっている。それが呼吸法やイメージトレーニングで可能とは。思い込みによるとされるプラシーボ効果も考えられるだろう。勿論ケビンの並々ならぬ努力も窺い知れる。ただまだ転移や再発がいつあってもおかしくはない。だがいずれにせよフランクもあれほど疑っていた東洋医学の力を見直さざるを得ないようだ。
当然、ケビンの家族は彼の帰国と病の回復を一様に大喜びし歓迎してくれた。特に、彼の元気な表情や生き生きとした言動は彼が日本に行く前と格段の違いを見せていた。
「お父さん、ほんとに元気になってよかったね」
「今までの親父が復活したね」
「フランク先生も、《信じられない》って言うぐらいだから、もう大丈夫だわ」
ショーンもグロリアもステファニーも涙を浮かべ口々に喜びを表した。
だがそれもつかの間、ケビンの留守中妻のステファニーはそれまで以上に出版社の取材や編集の仕事が忙しくなり出張で家を空けることも多くなっていた。
子供たちも安心したのか、大学生活を満喫し勉強と自分たちの時間を優先して楽しんでいるようだ。特にショーンは、《東洋医学って捨てたもんじゃないね》と言って、むしろ臨床科目にも積極的に取り入れる姿勢を見せ始めるほどだ。
親離れし自分の好きな道に進み自己管理が出来るようになったそんな子供たちがケビンには誇りだったし、むしろ微笑ましく思えた。
ところが反面、ケビンは職場復帰すると溜まっていた仕事に再び忙殺され始める。家庭生活は前にも増してさらにバラバラになり剰え家族四人が一緒に食事を取ることすら殆どなくなっていった。
やっと職場に戻ったケビンは、それでも秘書のケイトの優しい心遣いもあり最初は気分も晴れやかに張り切っていた。しかし家に帰っても一人で食事をすることも多くなり自分の居場所に再び疑問を持つようになった。鬱が再びじわりとケビンの中に忍び込んできていた。
◇
ある日、ケビンが忘れ物を取りに昼間家に立ち寄った。彼はいつものように玄関のカギを開けて中に入る。するとすぐ右手のリビングに髪を整えながら慌ててソファーから立ちあがるステファニーの姿があった。
「あら、ケ、ケビン、ど、どうしたの、早かったのね」
彼女は幽霊でも見たかのようにびっくりした表情でうろたえたようにしどろもどろに言った。
「忘れ物を取りに。君こそどうして・・・・・・」
と、ケビンもステファニーがこんな時間に家にいることに逆に驚いて言いかけた。そしてソファーに寝そべったもう一人他の人間がいるのに気づいた。テーブルには飲みかけのコニャックの入ったグラスが二つ置かれている。
「やぁ、ケビン、お邪魔してるよ」
恰幅のいい初老の男が、ワイシャツのボタンを留めながら何事もなかったかのようにゆっくり立ち上がって挨拶した。
「ケ、ケビン、こちら私のボスのトム。ちょっと打ち合わせで来てもらったの」
ステファニーは完全に落ち着きを失している。
「ケ、ケビン、誤解しないで。トムもこのところ忙しくて疲れぎみだからちょっとくつろいでもらってただけなの」
なんとか動揺を取り繕うとする。トムはソファーの横の外したネクタイと上着をわしづかみにすると、
「いや、なかなか良い家だね。ところで用件も済んだから私は失礼させてもらうよ」
と言いながら、金縁の大きなメガネを鼻先にずり落とさせたまま横目でケビンを見やっただけで足早に玄関を出て行った。ステファニーの唇が小刻みに震えているのがはた目にも分かる。
「どういうことなんだ」
ケビンは両手を広げて低い声で聞いた。ステファニーは間を置いて荒くなった息を整えている。
「ごめんなさい」
彼女は観念したようにか細い声で答えた。今にも涙が零れそうに目を潤ませて。
「どうして? いつからなんだ!」
ケビンが珍しく怒鳴った。ステファニーは手で顔を覆い惨然と泣き出した。
「だって、あなたが悪いのよ」
しゃくり上げながらケビンを詰るような言い訳がいきなり口をついて出た。
「どうして、僕が悪いんだ。病気はしたけど、僕は今まで家族のために一生懸命やってきた。経済面だって心配させたことはないし、子供たちだって二人とも素直に育った。君も好きな仕事をずっと続けてこれたじゃないか。一体、僕の何が悪いって言うんだ」
「そうね、なんの不自由もない生活だったかもしれないわ。でも、寂しかったのよ。あなたは一年近くも家を空けるし、ウィチタのあなたの娘とは私に隠れてメールや電話で連絡は取ってるみたいだし。仕事に没頭するしか気持ちを紛らわせる術がなかったのよ。その成り行きで仕方なかったの」
思いが込み上げたのかステファニーは開き直ったように高ぶる感情を爆発させて叫んだ。いかにもケビンの方が自分を裏切って浮気でもしていると言いたげだ。確かにウィチタにいる前妻との娘、エミリーとはその後何度かメールや電話のやりとりをしている。だが骨肉分けた実の親子ではないか。なんと甘えた言い草だろう。
ステファニーは自分を落ち着かせようと唇を軽く噛んだ。そして涙で頬に流れたアイシャドウをハンカチで拭った。狼狽を隠すようにチェストのうえのポーチに手を伸ばす。そして普段は殆ど吸わないメンソール系の煙草を取り出した。煙草を挟んだ細い指の震えが反って心の動揺を増幅させる。ステファニーは一服吸うと激しく噎せた。そのままコニャックの入ったグラスの中に握り潰すように煙草を押し込んだ。
「どうして、僕たちはこうなってしまったんだろう。きみとはずっとうまくやって行けると信じてた」
ケビンはため息にのせて質問を投げかけた。そしてどちらからともなく崩れるようにソファーに座り込んだ。全身の力がフワッと抜け出し虚脱感が身体を支配する。ケビンは肩を落として両手で頭を抱え込んでしまった。重苦しい憂愁が二人を閉ざす。
「そうね、私たちずっとうまくやって来たと思うわ。子供たちだって、あなたが言うようにあんなに素晴らしく立派に成人してくれた。あなたも立派なお父さんだったし良い夫だったわ」
「じゃあ、どこでどう歯車が狂ってしまったんだ」
ケビンは、それ以上返す言葉が見つからない。
「ごめんなさい。私って、きっと独占欲が強すぎるのね。あなたには、私たちの子供だけの父親でいて欲しかったの。私たち家族だけを見ていて欲しかった。よそ見はして欲しくなかった。私の我が儘かもしれないけど、どうしてもあなたが忌まわしい過去に引き戻されて行くのが許せないの。思い出したくもないの。私にはあまりにもつらい体験だったから」
ステファニーは、ハンカチで《ブーッ》と音を立てて鼻をかんだ。そして視線を揺らしながら一つ一つ言葉を選ぶように続けた。
「私も過ちを犯したわ。申し訳ないと思っています。あなたが、日本に行ってしまってから、寂しさと心配で心の持って行き場がなかったのかもしれない。言い訳になるけど、魔が差したとしか言いようがないわ」
ケビンはしんみりしたステファニーをソファーに座らせた。これ以上ステファニーをてっ抉する気にはなれない。飽くまでも清廉な世界を保ちたかった。
◇
沈黙が二人を包み込んだまま凍りついた時間だけが流れていく。慣れ切ったこの沈黙をどう打ち破ろうかと二人とも言葉を捜しあぐねていた。
「あなたとキーウエストで初めて出会ったとき、あなたはとっても輝いて見えた。知的な擽りと遊び心が見え隠れして。とっても爽やかな風が吹いているみたいだったわ」
しばらくしてステファニーが、懐かしむような目で窓の外の庭を見つめたままなまめかしい息遣いと供にようやく言葉を繋いだ。最近購入した盆栽の上に設えたパーゴラに掛けられたウィンドチャイムが風にあおられて《チリリン》と鳴った。
「あの頃の僕は、自分自身を見失ってボロボロだったけどね」
ケビンは、ステファニーの言葉を律義に受け止め深刻な雰囲気を和らげようとした。そして当時に思いを馳せた。
三十年余りも前になる。ケビンは放浪の旅の途中フロリダのキーウエストに立ち寄った。ヘミングェイをして《人生を賭けて探していたものがようやく手に入った》と言わしめた場所に来てみたかったのだ。ケビンは、キューバまで九十マイルと書かれた碑があるアメリカ合衆国最南端の岬に立ち遠く海彼に思いを巡らせた。
夕刻になると多くの観光客は申し合わせたように誰もがカリブ海に突き出たデッキにぞろぞろと集まってくる。世界屈指のサンセット・エリアだ。そのために誂えられた広大なデッキの上に設けられているステージから軽快なジャズが生演奏で流れ出す。ボーカルの女性歌手がなまめかしい歌声でロマンティックな雰囲気を一層盛り上げる。恋を囁くにはうってつけだ。雰囲気に飲まれてキスを交わす若者達。誰ともなく抱き合って踊りだすカップル。
その中で一人浮いた状態の場違いな自分を自覚しながら、ケビンも水平線に今にも沈もうとしているオレンジ色の夕陽を虚ろに眺めていた。サンセット・クルーズの船が乗客の歓声を乗せて夕陽を背景に海の上を行き交う。世界中がカリブ海に沈む夕陽を肴にこの世の春を謳歌するかのように。
そのときケビンは横で一人佇み寂しげに沈む夕陽を自分と同じように見ているスレンダーな女性に気づいた。彼女の横顔には哀愁を帯びた陰りの裏にどことなく滲み出る知的な輝きがあった。
「一人で見るには余りにもったいない」
夕陽を透かして遥か宇宙の彼方を見つめるような眼差しで、まるでモノローグのようにケビンは呟いた。
「全くその通りだわ」
思いがけず返事が返ってきた。それが二人の最初の出会いだ。その時お互いまだ大学生だった。ステファニーは失恋の痛手を引きずった傷心旅行、ケビンは自分の生き方を模索して放浪の旅の途上にあった。
ぎこちない会話が交わされる。オーダーを取りにきたウェイトレスに二人はビールを頼んだ。どちらからともなくグラスを合わせる。デッキの手摺りに鈴なりになった観客の歓声や口笛が引っ切りなしに飛び交う。見送られる夕陽は恥ずかしそうに水平線の中にゆっくりと姿を隠していった。すっぽりと海の底に沈んだ夕陽を確認すると観客は三々五々と思い思いの場所に散り始める。ケビンとステファニーも人の流れに押し流されるようにヘミングウェイの縁のバーと言われる《スロッピー・ジョーズ》に一緒に向かった。ヘミングウェイもまた二人に共通するお気に入りの作家だ。打ち解けすっかり意気投合した二人はお互いの心の灰汁を取り除くようにその夜飲み明かした。
ロスとニューヨークに住む二人は、別れ際お互いの連絡先を教えあう。
その後ステファニーは、大学を卒業して憧れのファッション関係の出版社に就職した。しばらくしてロス出張を任された際なつかしい思いに駆られてケビンを訪ね再会する。
そのときケビンはといえば、学生結婚し既に一子を設けていた。だが大学を卒業は出来たものの定職を持たず憧れだった弁護士試験に落ち続けていた。その当時の妻、キャサリンはそうしたうだつの上がらないケビンに愛想を尽かし、生まれて間もないエミリーを連れて実家のあるカンザス州、ウィチタに帰っしまっていた。
「ロスであなたと再会したとき、キーウェストで始めて会ったときと同じ風をまたあなたに感じたの」
「相変わらず、僕は収入も無くボロボロ状態だったけどね」
ケビンは苦笑した。
「でも、あなたは素敵な夢と希望を纏ってた。エネルギッシュで東部の男にはないラテン的フェロモンを感じさせる粗野な情熱を感じたわ。その時私は、あなたの風に吹かれてみたいと思った。この人ならきっと私の知らない未知への世界へと誘ってくれると」
ケビンも激情と官能を織り混ぜた不思議な魅力を持ったステファニーに誘かれ始めていた。当時、ステファニーの勤めるニューヨークの出版会社はロスに支店を出すべく彼女を頻繁にロスに出張させた。ステファニーはその都度ケビンと会いお互いの夢を語り合った。二人が愛し合い結ばれるのにそう時間はかからなかった。
だが、やがて二人の関係は妻、キャサリンの知るところとなる。二人は不倫の汚名を着せられる。キャサリンはステファニーの勤め先まで電話を入れ散々嫌がらせを繰り返した。ステファニーがノイローゼになるほどだった。女同士の性が醜く交錯する。それが後々トラウマとなりエミリーさえも受け入れられなくしていく。
結局裁判を経て、ケビンはステファニーを選んだ。そこまでして結ばれた二人だっただけに琴瑟相和す関係がこの先未来永劫続くものと信じて疑わなかった。
それが、今になって何故?
「あなたは見事弁護士になってステイタスも得た。理想的な夫で良いパパにもなった。でも、そのことであなたがあなたでなくなったのよ」
「僕が僕でなくなった? どういう意味だい、それは?」
ステファニーは力無く作り笑いを浮かべながら続けた。
「目的を達した時点であなたの風が止まったの。一生懸命夢を追いかけて全てを手に入れてしまったのね。《燃え付き症候群》って言うのかしら、もぬけの殻みたいになってしまった。未知の世界への扉を頑なに閉ざしてしまって。でもそうしたのはきっと私のせいね。あなたを追い込んで自由を奪ったから。あなたはケンタウロスの放った矢のように、夢を求めてどこまでも飛んでいたかった。きっと、それがあなたの《風》だったのでしょうね。私は、あなたの爽やかな風に吹かれることで、良い音を奏でるウィンドチャイムだったのかもしれない」
今度は、ステファニーは庭を見て優しい微笑みを浮かべた。そしてむしろさばさばした口調で呟くように言った。
「でも、もう私たちも年を取ったわ。今、またあなたに新しい風が吹いても、そして奔放に描くあなたの絵に私自信が付いて行けるかどうか自信がないの。あなたに良い夫良い父親を求めて束縛しておきながら、私は仕事と子育てにかまけてあなたのことを充分見ていて上げられなかった。妻として失格だったわ」
ステファニーは込み上げてくるものを抑え切れなくなった。彼女の頬をスーッと涙がつたい潤いを失った唇を濡らす。ケビンは包み込むようにそっと彼女の肩を抱いた。
たしかに、ケビンは理想的な夫であり良い父親であろうと意識的に努力してきた。そしてうまくやってきたつもりだった。その何がいけなかったのか。離婚という同じ過ちはもう二度と繰り返したくはない。空虚な孤独感がケビンを激しく襲う。
ケビン自身もステファニーから奔放と称された自分の生き方に懐疑的になっていた。一度結婚生活に失敗しているケビンは今の家族や家庭を守るために真面目に一生懸命仕事に打ち込んだ。子供たちが小さいころ、務めて休みの日にはいつも一緒にいろんなところに出かけるように努力した。キャンピングトレーラーを牽引してレイクタホやヨセミテに出かけアウトドアーライフを楽しむ。モンタナのイエローストーンのゲストランチには毎年乗馬を楽しみに家族で出かけた。冬にはカナダのウィスラーやコロラドのアスペンにスキーにも行った。バーミューダーのコンドミニアムで休暇を楽しく過ごす。そのようにしていつも家族と一緒に行動することを常に心掛けた。
しかし子供が大きくなるにつれ親離れし当然のようにその機会は少なくなる。子供の習い事や教育費が嵩むようになるに従い、何かが違うと感じつつも自ずと家庭より仕事に使う時間が増えていく。寄る辺のない営みの中で安らかさと危うさの上に成り立った家庭の綻びが随所に見え隠れしていた。茫漠とした現実認識だけでは耐えられない。現実を越えようとする目に見えない理想、または幻想に惑わされながら忍んでいるようだった。
ケビンは子供たちが独立した後、老後の残照ともいえる夢を密に抱いていた。
ステファニーと一緒に、《キャンピング・トレーラーでアメリカ大陸を回りながら生活しよう》、《世界一周のクルーズを楽しもう》、《こじんまりした家を建て、医療や安全が保障されるゲーティッド・コミュニティでの充実した生活を楽しもう》などと夢は膨らむばかりだった。
しかし、なんと独りよがりな馬鹿げた妄想だったのだろうか。空回りするように今やガラガラと剥がれ落ちるような家庭崩壊の音が聞こえてくる。《熟年離婚》という言葉が頭を過る。『今までの自分の人生は一体なんだったんだろうか』。『幸せとは一体どういうことなのだろうか』。トラウマが雪だるまのように膨らんでいくのをひしと感じる。治まったかに見えた疼きが再び蘇る。ケビンは愕然として息苦しい営みを増幅させ言いようのない不安に駆られていた。
◇
日に日に変貌し精彩を欠いていくケビンの姿を見るにつれ、秘書のケイトはとても傍観者足り得なくなっていた。心配でしかたなかった。仕事に復帰して一カ月も経たないうちにケビンは再び激しい頭痛や吐き気をもよおすようになった。食欲も落ち誰もいない家に帰って眠れない夜が続く。再び死について考える日が多くなってきた。ガン細胞は幸い悪化はしていないらしいが、どうやら鬱が卒然とぶり返したようだ。その様子を見るに見かねたケイトがとうとう堪えきれずに切り出した。
「ケビン、このところとってもつらそうですね。日本から帰ってきた直後のあなたは生き生きしてましたわ。きっと日本はあなたにとってすごく居心地のいい場所だったのでしょうね。これならあなたの病気も必ず克服出来ると信じていました。でも最近、日に日に元気がなくなっていってるみたい。このままここにいてはあなたはまた駄目になるのじゃないかしら」
ケイトは、母親のように優しく声をかけた。
「ああ、君の言うとうりだ、ケイト。今の僕には、もうどこにも居場所がないんだ」
ケビンは、力無くか細い声で答えた。
「大丈夫ですよ、ケビン。日本と同じようにあなたを癒してくれる場所が、このアメリカにもあるんです」
「エッ、アメリカに? アメリカのどこに? 君はその場所を知っているのか」
ケビンは以前と同じようにケイトの言葉に目を輝かせた。ケイトはいつもケビンの知らない世界を垣間見せてくれる。
「ええ、知っています。ここからそう遠くないところです。すごいパワーを持った所ですわ」
「どこなんだ、ケイト。焦らさずに教えてくれよ」
ケイトは自分のダイエットが高じて色んな情報収集に余念が無い。むしろ毒されていると言ってもよい。その中で癒しのパワーのある場所を捜し当て、数週間前自分でもその場所を訪れていた。そしてその町の虜になった。彼女は一呼吸置くともったいぶるように言った。
「SEDONAというところです」
「SEDONA? SEDONAって、アリゾナの?」
「そう、ご存じなの? 行ったことがおありなんですか?」
「いや。たしかマリエが言ってた場所だ」
ケビンは独り言のようにつぶやいた。ケイトはケビンのかすかに息を伝って出た言葉を聞き逃さなかった。
「えっ、マリエって?」
「いや、なんでもない。ただちょっと日本で知り合った女性だ」
「あーはぁ。ケビン、あなたどうやらその娘と恋をしたのですね」
「エッ、いや、そ、そんなことは・・・・・・」
ケビンはあわてて打ち消そうとした。
「いいのよ、分かりますわ。きっとその娘の力が大きいようですね、あなたをここまで治したのは」
ケビンは、ケイトの鋭い勘に観念したように日本でのマリエのことをかいつまんで話した。
「よく分かりました。でも、今度あなたが日本に戻ったらきっとまずいことになる気がします。あなたには妻子があるんです。それに彼女は、まだうら若き娘さんでしょ。悪いけどこの恋は実らないと思います。無理すればきっと取り返しのつかない不幸が起こるような気がしてなりません。SEDONAに行ってらっしゃい。そこでまた元気になって下さい。そして家庭に戻りもう一度奥さんとやり直して下さい」
日本でのケビンとマリエのことを黙って聞いていたケイトは、子供を諭すような口調で言いきった。
「SEDONAに行けば、何があるんだ」
「きれいな夕陽が見れる、パワースポットがあります。そこに私の知り合いのネイティブ・アメリカンがいます。ナバホ族の元酋長です。フレッドっていいます。ナバホの伝統的儀式や療法を司る、トラディショナル・ヒーラーでもあるんです。きっと彼があなたを助けてくれますわ。彼らは《死は住居を汚す》と言う考えを持っているから、あなたを病院送りなんかしないはずです。人の手で《治療》するのでなく、自らの心で《治癒》させるんです。彼らは地球をマザーアース(母なる大地)、宇宙をファザースカイ(父なる空)と呼んでいて、彼らの自然に即したライフスタイルはあなたもきっと日本と同じくらい気に入ると思います。あなたは、日本で精神的修養をしたはずです。それを実際の生活の中に生かすんです。あなたに取って今、何が大切で何が必要かもう一度ようく考えて下さい。あなたが日本で培った《気》と、ナバホの《癒し》が、SEDONAのパワーできっと実を結ぶはずです。あなたなら、そこでもう一度必ず健康を取り戻せるわ。さあ、ケビン、荷造りして。SEDONAに行って下さい。そして何が何でも生きて。でないと私失業してしまいますから」
二人は顔を見合わせて笑った。ケビンは心の憂きものがいくらか軽くなったような気がした。
SEDONAには、もともと七百年以上も前から、ナバホ族以外にヤバパイ族やアパッチ族などのネイティブ・アメリカンが住んでいた。彼らは、《ホジョー》と呼ばれる『心』『情』『知』『体』の四つの調和の中で生きることを、ナバホフィロソフィーとして常に心掛けて来た。そして彼らの時代から、SEDONAのレッドロックには不思議なパワーや特別なエネルギーが存在することが分かっていた。後に、ゴールドラッシュとともにカーボーイを始めとする新しい住民が入り込んで来る。彼らもまたSEDONAのボルテックスと呼ばれる自然の脅威と調和を保つことで新しい生活を築いてきた。それだけにSEDONAでは、聖なるレッドロックはネイティブ・アメリカンのライフスタイルとともに今も脈々とこの地に受け継がれている。
◇
ケビンは家に帰ると、早速ステファニーにSEDONA行きのことを話した。彼女はコレクションの取材でイタリアのミラノへの出張の準備を相変わらず忙しそうにしていた。子供の手前もあって、それ以後、不倫事件の事はお互い暗黙のうちに触れないようにしている。仮面夫婦を装って。
「今度はSEDONA? また始まったのね、あなたの放浪癖が。でもそこへ行けばまた元気になれるの。あなたが日本に行くって言ったとき、最初反対したけど帰ってきたとき、正直言ってあなたの元気な姿を見て心底安心したわ。元のあなた、いえ、それ以上私が今まで見てきた中で最高に生き生き輝いてるようだった。でもここ一月ほどまた苦しそうなあなたに戻ってしまってる。私も忙しくてあなたに何もしてあげられないわ。あなたがそうしたいなら仕方ないわね。子供たちも自由勝手に伸び伸びやってるし、家のローンも少なくなったことだし、私の収入で十分やっていけそうだから心配ないわ。いいわ、SEDONAでゆっくり休養してらっしゃい。まずはあなたの身体を完全に治すことが先決だわ。それから私たちのことはゆっくり考えましょう」
気力が失せ思考力も低下している今のケビンにとっても、このままの状態でいくら彼女と話し合っても良い結果は期待出来そうもなかった。
ステファニーは日本に行くとき猛反対したのと対照的に、むしろ勧めるように気持ち良く了解した。日本に行く前のイライラしたヒステリックな彼女とは別人のように随分と物分かりが良くなっている。ステファニーも海外出張も任され仕事が順調で今まで以上にやり甲斐を感じているようだ。だがそれより前に、すでに家庭内別居的状態で会話も殆ど交わすことなく夫婦としての関係は事実上消滅していた。ケビンにもSEDONAでしばらく生活していくぐらいの蓄えは十分ある。
「SEDONAだったら日本と違って近いし、僕らも行けるし、パパもいつでも帰ってこれるよね。僕らのことは、心配しなくても大丈夫だから。うまくやっていけるよ」
そう言って子供たちも今回は反対しなかった。鬱症状は重かったが、ガンの再発ことはあまり心配していなかったのかもしれない。むしろショーンに至っては東洋医学の効用を見直し、それが父、ケビンには特に効果的なことを認めていた。今や東洋医学の力を疑う余地すら持っていなかった。むしろSEDONAの神秘的パワーに強い興味を示し初めていた。
ケビンは早速旅支度をした。二日後、ケイトからもらった行き先を書いたメモを確認すると、車をアリゾナに向けてヒストリック・ルート66のフリーウェイをひたすら東に飛ばした。