ケース2 井上夏海
いわゆる第二話です
冬空は抜けるように晴れていたが、路面には氷が張っていた。雲が無いおかげで地表の熱が逃げてしまう、放射冷却現象である。つまり、いよいよ本格的な冬の到来、ということだ。
それでも私は水バケツを提げて、この厳しい自然環境に立ち向かわねばならない。私の財産である愛車を洗ってやらなければならないからだ。
本音を言うならばすでに指先はかじかみ始めて、感覚を失っている。ももひきを履いていないダンディな太ももさえ、針で突かれている感覚だ。
それでもやらなければならない。私は汚れた車が嫌いなのだ。泥や水垢で汚れた車を見るだけで、それが他人の所有物であっても、行って洗車してやりたくなるくらいだ。
そんな訳で私は、この寒空の下コートを脱いだ袖まくり。愛車の汚れと取り組んだ。しかし汚れという奴は、濡れた毛ブラシでこすったくらいでは、なかなか歯が立たない。
コートを脱いだハンディキャップが、私にはある。何度となく冬の寒さに、打ちのめされそうになった。しかしその度、「私はハードボイルド、私はタフガイ」と自らに呪文をかけ、困難に挑み続けた。
しかし私は、どうにか男のダンディズムを保ったまま、作業を終えることができた。輝きを取り戻した愛車を眺めながら、私はキャメルの紙巻きをくわえた。無風の屋外でくゆらす、仕事後の一服は格別な味わいである。私はくわえ煙草のまま、コートに袖を通した。
「朝からお仕事、探偵さん?」
あたらと張りがあって底抜けに明るい声が、私の鼓膜を貫いた。もちろんその声は、知った者の声である。
すかさずソフトのツバを指先で引いて、目深にかぶり直した。当然その表情はしかるべきものであり、低い視線を保ったまま軸のぶれないターンで振り返る。
「おっと、この私に声をかけるとは、どちらの美しいレディかな?」
まず目に飛び込んできたのは、学生らしい黒のローファーと真っ白なクルーソックス。そして筋肉は発達していても形の良いふくらはぎ。標準丈の黒いスカートに冬物セーラー服。さらには、あっさりとショートに刈った学生らしい髪。
大家の孫娘、井上夏海は悪ガキのように笑っていた。
「期待はずれでゴメンね、アタシだよ!」
「期待はずれだなんてとんでもない!」
私は両手を広げ、アメリカ人のように大きなジェスチャーで、喜びを表現した。
「朝からこんな美人に会えるだなんて、今日の私はきっと一日、すごくツイてるぞ!」
「やだなぁ探偵さん。……でもそこまでアタシのことホメるって、今月苦しいの? おじいちゃんに部屋代待ってくれるよう、頼んでみようか?」
「男性に容姿をホメられて反応がそれって、どうかね?」
「アタシみたいなのを無理矢理ホメる、探偵さんが悪いよね、絶対」
ポンポンと言葉が返ってくる。昔からそうだったのだが、最近ではとみに遠慮がなくなっていた。
私の留守中、事務所兼住居兼居間に勝手に上がり込み、掃除するわ洗濯するわ頼んでもいないのに料理までするわ。そのうち食事に連れて行けとか遊びに連れて行けとか、かえって高い代償を払わされるのではないかと、彼女の逆襲に恐々とした日々を送っている私だ。
「探偵さんも早くお嫁さんもらってさ、お日さまの下で働く仕事に乗り換えた方がいいよ?」
「その時はなっちゃんのような、気立てのよい器量よしを相手にしようと決めてるんだが、理想が高すぎるのかなかなかねぇ」
「もうっ、探偵さんったら! そんな本当のこと!」
「少しは否定しようか、自分の容姿を」
「だって探偵さん、昔から言うでしょ?」
片目をつぶって、なっちゃんは髪をかき上げる。
「ショートが似合うのは、美人の証拠、って」
「……………………」
私はキャメルを地面に叩きつけ、靴裏で踏みにじった。
「なによっ探偵さんっ! その失礼な態度っ!」
「美人を自分で口にするかね、君ィ……」
「アタシだって恥ずかしいの我慢してんだから! ちょっとくらい付き合ってくれたっていいジャン!」
そろそろ通勤途中の人々から、非難めいた眼差しを向けられはじめた。朝の御挨拶も、そろそろ潮時のようだ。
「さ、もう学校に行かないと遅刻するぞ」
「え?」
井上夏海の笑顔にかすかな不安の色が差したのを、私は見逃さなかった。
「どうした、なっちゃん?」
「ん? いや、何でもないよ」
何かを言おうとして、ためらった。その口調と仕草に、私は事件の匂いを嗅ぎとる。
しかしこんな開け透けな少女が、どのような事件と関わっているのだろうか? この段階では想像もつかない。
「あの、探偵さん!」
「なんだい?」
「……やっぱり、なんでもない」
行ってきます。そう言い残して、井上夏海は背をむけた。いつもと違う頼りない後ろ姿だった。そしてこちらを振り返り、私が見送っているのを知るや、手を振り笑顔をみせる。
だがその笑顔は、作り物にしか見えない。
私はふたたびキャメルに火を着けた。そして金庫にしまった税務署には内緒の現金と、貯金通帳の残高を照らし合わせる。
私の計算では、軍資金は十分な額であった。
「……今回はタダ働きか」
プロフェッショナルたるもの、報酬なしに働いてはならない。これは鉄則である。しかし井上夏海に支払い能力があるでなし。親族から依頼を受けている訳でもない。さらに言うならば、事件と確定した訳でもない。
だが、井上夏海は家族のようなものであり、これを失いたいなどとは全く思わない。
ソフトの下の髪をかきむしり、苦笑いするしかなかった。
そうと決まれば早速行動だ。
洗い水を捨てて、バケツとブラシをトランクに押し込む。そのまま運転席に乗り込み、エンジンをスタートさせた。車の燃料はもったいないが、足は必要だった。彼女の通う天宮南高校は、軽く一〇キロは離れているからだ。
しかし、その前に寄らなければならない所がある。私の事務所が入った、第一井上ビルである。どことなくノスタルジック。悪く言えば昭和臭い個人ビルである。
私は表通りなのか裏通りなのかわからない、遺跡のような五番街で車を停めた。
井上翁はビルの前の掃除をしていた。車を降りた私を、目を丸くして迎える。
「おやおや探偵さん、どうしたんだい?」
「や、どーもどーも大家さん」
私はできるだけ愛想よく応じる。
「いやね大家さん、さっきそこでなっちゃんに会ったんですが……」
「嫁に出した覚えはないから、夏海に会ったあったところで不思議は無いがね」
「知らない間になっちゃんが嫁に行ったら、私は涙に暮れますよ。先を越されたってね」
「口の減らない男だね」
「ホント、年の割に口が減りませんなぁ」
「……………………」
「……………………」
家賃の値下げを要求したり滞納したことのない私に、このような口をきく年寄りである。井上翁にはこれくらい返してやるのが、店子としての私の勤めだ。
「……で? 夏海がどうしたって?」
笑顔を崩してはいないが、細められた老人の目は鋭く光る。
「翁、なっちゃんは最近、おかしなところはありませんでしたか?」
「具体的には?」
「イジメを受けているとか、男ができた……妙に色気づいてきた、とか」
「……………………」
「ありますか?」
「無いな」
表情ひとつ変えずに、断言しやがった。
「イジメを甘んじるような根性なしに育てた覚えは無いし、男なんぞは一〇〇〇年早い」
翁は口角を吊り上げた。笑顔という意味ではない。細められた目は相変わらず底光りしていて、不気味なかがやきを放っている。
そのかがやきは仇敵に向けられるものであり、翁が見据えている相手は、他ならぬ私であった。
「翁?」
「なにかね?」
「なにか誤解をしていませんか?」
「お前さん、夏海をたぶらかそうとか考えとるじゃろ?」
「それはありませんね、私の好みはグラマー美人のテクニシャン。腰つきのたまらん大人の女性ですから」
「じゃあバーのマダムかい? あれはワシも狙っとるからのぉ」
「年考えろよ、えろジジイ」
「なんか言ったか?」
「風の妖精がささやいたのでしょう」
もっとも、マダムを狙うのは翁ばかりではない。雑貨屋のエディさんもそうだし、女ゴロシを気取った情報通もその一人。マダムからすれば、ありがたくない選り取りみどりという奴だ。
話を元に戻して。
「実はですね、さっきなっちゃんが学校に行きたくないような素振りを見せましたのでね、私も少し気になりまして」
「学校自体にゃ問題ないじゃろ。あればワシなり友達に相談するじゃろ。しかもお前さんにそんな素振りみせたってこたぁ……お前さんを頼りにしたいとか?」
「つまりは、友達では解決できない……事件?」
「あのハナ垂れがか?」
「翁、孫娘とはいえなっちゃんも年頃ですよ」
そう言って、彼女の様子をうかがうことに許可を得た。
私は事務所に上がり、金庫を開いた。福沢諭吉を一〇人ほど拐い、財布に監禁する。そして金属ケースに入ったカメラと望遠レンズを取り出した。金庫を閉じるとロッカーの中から、三脚を出して小脇に抱える。
ビルを出て愛車に乗り込んだ。荷物は後部座席だ。玄関に翁の姿は無かったが、気にすることはない。すでに聞き込みは終わっていたからだ。
愛車をスタートさせて、ハンドルを南に切る。目指すは天宮南高校だ。
あの近辺に、見張りに適した高台はあっただろうか? できれば目立たなくて、車を停められる場所がいい。私は記憶の地図帳をめくり倒した。
それに、高校周辺も徒歩で確認すべきであろう。
運転をしながら、私の頭は次々とプランを弾き出していた。