その三
スコッチのグラスをかたむけると、冷水のように引き締まった液体が、口の中を洗ってくれた。マダムは待ってくれている。ひとつの事件を解決した私に、わずかながら憩いの時を与えてくれたのだ。もちろん私もその好意に甘えさせていただく。
タフガイにも休息は必要だ。事実、休息をとるに足るだけの難解な事件だった。
この街は病んでいる。
なにを今さらという台詞だったが、心の中で噛みしめる。そして病んでいる街だからこそ、私のような裏家業が必要とされているのだ。
私はグラスを空けた。何かにすがりたくなる夜ではあったが、ここから先は非情の世界。銃弾と札束の飛び交う、男だけの世界なのだ。
アルコールが血液に回る独特の感覚を楽しんでいると、書類用の封筒が差し出される。私は頭を上げた。マダムが黙って微笑んでいる。
私も笑顔をむけた。
「お待たせしたね」
「かまいませんよ、ゆっくりくつろいで」
二杯目のスコッチが注がれた。しかしそれには手をつけず、私は封筒を開いた。
書類が数枚、そして一葉の写真。ブレザーの制服も着なれていない、黒髪セミロングの少女が映っている。
「その娘を捜し出してほしいの」
書類は捜索の依頼書。そして少女のプロフィールをまとめたものだ。
娘の名は桜野深雪。この街の名門私立に通う高校一年生だ。交遊関係にも問題はなく、いたって普通……いや、なかなかの優等生なようである。
しかし探偵をビジネスと割り切る私にとって、より魅力的な項目は、彼女の父が大手農業器具メーカー『サクラ農機』の桜野代表だ、という点だった。
「なるほど、報酬はゴキゲンな額が期待できそうだね」
「あら探偵さん、レディの写真を手に入れたなら、まずその容姿に心奪われるのがエチケットよ?」
「これは失礼」
私は写真に目を落とした。
マダムは心奪われるべきと言うが、それはなかなかに難しいお題であった。何故ならこちらのレディ、優等生というだけあって、めっぽう地味な見てくれなのだ。
「……しかし、こんな娘さんが行方不明とは……。親御さんの身分を考えて、誘拐なんてことはないだろうね?」
それならば警察の出番であって、私のようにチンケな探偵の出る幕ではない。しかし何事にも例外はつきものだし、桜野氏の身分を考慮すれば、ケチな探偵こそふさわしい事件かもしれない。
「そんなことないわ、単純な家出よ」
確かに。依頼書にもそう書いてある。
「食うに困らぬ家に生まれ育って、何が不満なものやら。……私には理解し難いね」
「探偵さん、女の子には複雑な事情があるの、わからない?」
「これで家出の理由が、毎日の夕食にピーマンが出るからだとか言ったら、お尻をペンペンしてやらないとな」
私はさらにプロフィールを読む。身長は一五〇センチ。体重は四〇キロを下回っている。グラマラスとは無縁な人生らしい。趣味は読書、得意科目は古文で苦手は体育。まあ、あまり活発なようには見えないので、意外性もなにもありはしない。友人が多い方ではないが、同じような優等生タイプと交流しているようだ。
「ん?」
「どうしたの?」
「こちらのお嬢さん、婚約者がいるらしいね」
「あら本当ね。でも家柄を考えたら、婚約者の五人や六人、いても不思議ではないわ」
「婚約者が五人も六人もという発想は、どこから出てくるのかな?」
しかし年若いとはいえ、男と女。様々な思惑がからむのも仕方ない。当たり前の発想が許されるのならば、この婚約者氏に不満があるのか、はたまた婚約者同士で共謀し破談をねらった小芝居、などと考える。なんとも判断しにくいところではあるが、まずはその線で調査を始めたいと思う。
グラスの氷は角がとけて、かなり丸みを帯びていた。好みの濃さにくらべれば、いささか薄い味わいになったが、私は大きく一口いただいた。
婚約者の名は藤井和之。中部地方を中心に展開する、大型スーパーマーケットの経営者藤井一郎氏を父に持つ、いわば御曹司というやつである。年齢は二〇歳。こちらも地元で名門私立の誉たかい大学に通い、品行方正を絵に描いたような好青年だった。
「マダム、彼の写真は無いのかな?」
「依頼主からは受け取ってないわね。もしかしたら彼には近づくな、というメッセージなのかしら?」
「可能性はあるね。桜野氏とすれば、娘の家出なんて先方に知られたくないだろうから」
依頼主の名は当然のように、サクラ農機代表取締役桜野栄一郎となっている。
「それでマダム、今回の報酬はいかほどなのかな?」
「まずこちらが返済の必要が無い、つまり領収書を求めていない、真っ黒な経費」
マダムはカウンターの下から、無造作に札束を出した。一〇〇万円である。
「そしてこちらは、深雪ちゃんを無事桜野家へ送り届けた際の、成功報酬」
こちらも一本。当然のように一〇〇万円だ。
口笛を吹いて迎えたくなるような額だったが、マダムの前である。品のない真似はできない。
そのかわりに一本を背広の内ポケットに突っ込み、残ったスコッチを喉の奥に放り込んだ。
マダムがカウンターの下に片付ける残りの札束に、思わずはしたない視線を向けてしまう。だがすぐに顔を引き締めて、口の中の細かい氷を噛み砕いた。
「それじゃあ早速とりかかるとしますか」
家出人の写真はシャツの胸ポケットへ。依頼書の類いはマダムに頼み、焼却処分だ。
「まずはどこから攻めるの?」
「そうだね……彼女の実家界隈には夜遊びできそうな場所が無い。ならば通学路からアクセスしやすい、ミナミから攻めてみようかな?」
「それからどぶ板通り?」
「そのあたりで今夜はお開きだろう」
「探偵さん、ピストルは必要かしら?」
「いや、いらないね。今回の舞台は街中だ。轟音を響かせるわけにはいかない」
そうだ。今回の依頼は、単純な家出人捜索にすぎない。なにも問題は無いはずだ。
私はマダムの親切心に感謝しながら、スツールから腰を上げた。
そしてまた、すぐ座席に尻をもどす。ソフトは頭に乗せたまま、トレンチは座布団代わりに、シャツの胸ポケットから家出人の写真を取り出した。
そして家出人の姿に目を落とす。その視線が写真を焦がしそうだったのだろう。マダムは不安げな声で。
「どうしたの、探偵さん?」
「静かに、マダム」
申し訳ないのだが、集中させてもらう。
私は写真の肖像から、家出人の鼻の高さから頬の平坦ぶりを、頭の中に描いた。その顔は極めてペッタンコ。それが影響してか、全体に地味感が拭えない。立体的なグラフィックを頭の中に描けるくらい、私は写真を凝視し続けた。
それから私は、視線を店の奥にむけた。カウンター席には、まだ先客の女性が座っている。横顔は平坦で地味な印象の女性だ。グラマラスとはほど遠い、小柄で華奢な体のライン。そして何より、横顔がまだ子供である。
「……………………」
私は無言でマダムを見た。
「……………………」
マダムも無言で微笑みを返してくる。
思わずマダムに言った。
「なんで家出人がこの店におんねん」
「あら、本当ね」
「本当ねって、気づいてなかったんかい!」
「不思議なこともあるのねぇ」
マダムはあくまで、シラを切るつもりらしい。まあ、それならばそれでいい。こちらも無駄に靴底をスリ減らさなくて済むというものだ。
私はソフトを目深にかぶり直し、椅子から尻を外した。
私が立ち上がると女性客、つまり桜野深雪とおぼしき少女は、明らかに身を固くした。おそらくは、私たちの会話を盗み聞きしていたのだろう。
私が歩を進めると、彼女も席を立った。急ぎ足でドアに向かう……つもりなのだろうが、私に急接近しただけだ。
「待ちたまえ、君!」
軽く肩を掴んだだけで、少女は簡単に振り向いた。
「小生に、何か用かな?」
涼しい声で、少女は応えた。自分が呼び止められる理由が、まったく解らない。と、すっトボケた顔だ。正体を見破られない自信があるらしい。
その根拠が、顔にかけた「鼻メガネ」にあるようなのだが……。
「用がないのでしたら、小生これで失敬するよ」
「お待ちなさいって」
彼女の頭にツッコミ・チョップ。もちろん、軽くである。
「……桜野深雪さを、ですね?」
渾身の演技で、可能な限り優しい声を出す。
「私は探偵、あなたのような、弱者の味方です」
子供を騙す趣味は無いが、嘘がオリーブオイルよりも滑らかに、唇からこぼれ出た。もちろんその隙に、彼女と出口の間に回り込む。
「……弱者の味方?」
ずれてしまった鼻メガネをそっと外し、彼女の手に握らせた。
「そう、私は貴女の味方。……レディが家を出るんだ、なにか深刻な事情があったのでしょう?」
「深刻だなんて、そんな」
「悩みでしたらうかがいます。幸いここには、貴女の先輩とも言える素敵なマダムもいる」
悪魔のささやきは効果があったようだ。
桜野深雪は、素直にカウンターの席席へ戻った。




