その14
そして一五時三〇分。授業終了の鐘が鳴り、まもなくホームルームが始まる。ここまでの収穫といえば、近隣住民から浴びせられた冷たい視線と、吠えかかってくる犬の洗礼であった。
私は腕時計から顔を上げると、神社の方に目をやった。いくらなんでも、マダムの撮影会は終わっているだろう。今時分なっちゃんの監視に移っていてもおかしくはないのだが、いかんせん泥酔者の群れ。あてにはならない。
スマホを取り出す。ディスプレイに着信の表示は無い。
一度マダムに連絡を入れるべきだろうか? いや、それでは私の信条が……。
だが私はプロ。自分の信条よりも井上夏海のトラブルを解消する。結果を求めてこそのプロである。たとえ私の中の美学を捨て去ろうともだ。
いや、むしろその姿勢こそが真のハードボイルドではないだろうか?
己の虚しくし、いかなる屈辱にも耐えて、耐えて耐え抜いて、一気に爆発するカタルシス。これこそが真の美学というものである。
ならば何を迷うことがあろう。スマホでマダムにアクセスする。呼び出し音は五回。酔っている割には、なかなか素早い対応であった。
「お久しぶりね、探偵さん」
「やあ、マダム。我慢しきれなくて、とうとう電話してしまったよ」
「なっちゃんのことね? 今のところ異常はないわ」
「だがしかし、そろそろホームルームが終わる。」
「そうなると、今度は部活動の時間ね」
「その通り」
私は今日何本目かのキャメルに火を着けた。
「オヤジ臭い言い方をすれば、ジャージ姿のなっちゃんがあらわれる」
私はかつての家出娘、桜野深雪のジャージ姿を思い出した。
「マダム、グランドで溌剌と躍動するなっちゃんを、ストーカーが見逃すと思うかい?」
「あり得ないわね。私もさっき、一眼レフを購入したばかりよ」
当然、望遠レンズと三脚つきだろう。確認するまでもない。
「ところでマダム、翁と〇〇氏は?」
「井上さんは仮眠の最中、〇〇さんは撮影会終了で仕事に戻られたわ」
「仕事中だったんだ、彼……」
「井上さんは部活が始まったら起こす約束になってるけど、どうする?」
翁を起こそうか? と訊いてきた。私は部活の時間まで寝かせてやってくれ、と伝えた。
神社からの監視は、怠りなくおこなわれていた。そのことが確認できただけで収穫だ。私はマダムに礼を言い、通話を終えた。
校舎に目をやると、窓から生徒たちが見えた。かなりランダムに歩き回っている。どうやらホームルームは終わったようで、掃除が始まったようだ。
ならば、部活の時間まであと少し。私はこの場でなっちゃんを待ち受けていればいい。彼女は陸上部なのだ。短くなったキャメルを捨てて、靴底で踏みにじる。ぽつりぽつりと帰路につく学生たちが、私の目の前を通り過ぎて行った。
「そこのあなたっ!」
突然声をかけられた。顔をむけると、天宮南の制服を着た少女が私をにらんでいる。少しクセのある髪にパッチリとした瞳。なかなかのお人形さん顔で、美少女と言える。
「ここで何をしているのかしら!」
はて? このような少女ににらまれる筋合いがあっただろうか? 記憶の糸をたぐるが、身に覚えがない。そもそも私には女子高生の知り合いなどいないのだ。
当然、私の返答はひとつである。
「どちらさまで?」
「私は小鹿さとみ! 天宮南高校の生徒よ!」
「それは制服を見ればわかります」
「なんですかっ、その態度はっ!」
私の返答が気に入らなかったのか、小鹿さとみは眉尻を逆立てる。
「さてはあなた、近頃ウワサになっているストーカーねっ!」
「もし本当にストーカーなら、ハイそうですよとは答えないでしょうな」
私は名刺を差し出した。小鹿さとみは、私をにらみつけたまま名刺を手にする。
「……私立探偵?」
「そう、あなたがいま言ったストーカーに関して、少しばかり調査してましてね」
「夏海さんの言ってた探偵さんって、もしかして……」
「井上夏海さんを御存知で?」
「同級生よ」
「なっちゃんは君にも、ストーカーの話を?」
彼女はかぶりを振った。
「今日、見たことのない先輩が教室にあらわれて、それで……」
マダムのことだ。つまりなっちゃんは、それまでストーカーの件を誰にも話していなかった、ということになる。たった一人で犯罪者の影に怯え耐えてきたのだ。その孤独を思うと、目頭が熱くなってくる。
「ところで探偵さん、犯人の目星はついているんでしょうね?」
「それがなかなか尻尾を出さない奴でしてね。私としては、部活動の時間に期待をかけているところです」
「部活動……それは外せないポイントよね」
やはり彼女も、躍動するなっちゃんの姿を推している。マダムもそうであった。私の狙いは的中ということだ。
「小鹿さん、私は校舎の造りに不案内なのですが、監視のポイントなどは知りませんか?」
可愛らしい唇に人差し指を当てて、小鹿さとみは記憶のページをめくっているようだった。
「私はストーカーじゃないから、思い当たる場所はそんなに無いけど……」
人差し指がアンテナのようにピッピッと動く。
「のぞくんだったらやっぱり、敷地の中に入らないとダメね」
「ところがどっこい、なっちゃんが所属するのは陸上部。確か短距離の選手だったはずだから、グランドでの活動が多い」
「となるとグランド周辺の道路と言いたいですが、周囲の目があまりに痛いですよね……」
「周囲の目が痛いのは、敷地内でも同じだろう」
レディの前ではあるが、キャメルに火を着ける。煙草の煙に魔法の知恵を授けてもらうためだ。
「だけど探偵さん、技術というものは年々進歩しているわ」
小鹿さとみはスカートのポケットから、スマホを取り出した。さらにコードのようなものまでだ。そのコードは黒い円柱形の物体から生えていて、円柱形の物体には小さなガラス玉のようなものがはめられている。
彼女はスマホにコードを接続し、慣れた手つきで操作をはじめた。
「はい、探偵さん。こちらのモニターをどうぞ」
差し出されたスマホの画面をのぞき込むと、そこにはグランドを歩く野球部の姿が映し出されていた。
「今度はこっち」
画像が流れて、今度は校舎が映し出される。しかし、小鹿さとみのスマホは動かされていない。薄々気づいてはいたが、これで確信できた。黒い円柱形の物体は、カメラなのだ。
「これさえあればグランドに背中をむけて、スマホをイジッてるフリしてれば、怪しまれることなくのぞきができるのよ」
「なっちゃんのストーカーは、君とかいうオチじゃないだろうね?」
「失礼なっ! 私はのぞき趣味があるだけであって、ストーカーなどではありませんっ!」
「どっちもほめられた趣味じゃないのは確かだがね」
小鹿さとみは画像をオフにして、スマホをスカートのポケットにしまった。もちろんカメラつきのコードも一緒にだ。
「……まあ、私の趣味は置いておくとして」
彼女は澄ました顔で続けた。
「つきまとい、ストーカーが重大な犯罪に結びつきやすいのは、事実です」
どうやら自分ののぞき趣味は、軽微な罪だと言いたいらしい。
「しかも技術はいたずらに進歩と発展を続け、今や誰もが簡単にストーカー行為をおこなえる世の中になってしまいました」
なるほど、悪いのは世の中であって私じゃない、と言いたいのか。
というか、あのカメラは販売が許可されるようなサイズではない。言わばプロ用の逸品だ。
私はキャメルを一口。肺の中に深々と煙を送り込む。
「では小鹿さん、ここで提案だ」
彼女の演説を遮った。
少女は身を固くする。身構えているのだろう。
私は彼女を刺激しないように、可能な限りさわやかな笑顔を作った。
「そのように便利な道具を、なっちゃんのために役立てるというのはどうだろうか?」
小鹿さとみは目を丸くした。予想外な提案だったのだろう。だが私としては、ストーカー犯であろうこの娘を、なっちゃんとの関係を崩さずに処理するには、これしか方法が無いのだ。奇妙奇天裂な提案であろうとも、ゴリ押しするしかない。
「つまり、それは……」
食いついてきた。小鹿さとみは、真ん丸な目を輝かせている。
「私が夏海さんを守る、と解釈していいのかしら!」
「すいません小鹿さん、胸ぐらフン掴まえないでください」
「さらに言えば、四六時中夏海さんにつきまとってもよろしい、ということよね!」
「ネクタイ絞るな……く、苦しい! 苦しいってば!」
「まかせて下さい、探偵さん! あなたが立ち入れない学校の中は、この小鹿さとみが完璧なまでに護衛の目を光らせてやります!」
柔の技術を使って、どうにか少女の呪縛から抜け出した。
危ないところだった。危うく世界の裏側へ旅立ってしまうところだった。
私は襟元を正し、短くなったキャメルを捨てた。
「まあ小鹿さん、そう事を急かずに。井上夏海さんの護衛は、彼女の許可が必要ですから。まずその交渉をしなくては」
「それでしたら私が今から! さいわい夏海さんもグランドに入場して来ましたし!」
「だからあせるなというのに」
フェンスをよじ登ろうとした小鹿さとみを、どうにか取り押さえる。セクハラと叫ばれぬように取り押さえるのは、なかなか技術が必要だった。
しかしいざ取り押さえてみると、なるほどなっちゃんよりも女性らしい身体つきのようだ。
だというのに女の子に御執心とは。まったく、世の中まちがっている。




