その2
店の名は、「BARポロイ・トニカ」。以前この店のマダムから聞いたのだが、どこかの国の言葉で旅立ちを意味し、転じて酔っ払ってしまおう、という使われ方もする。酒好きにはたまらない名前なのだが、立地条件のためかこの店は客が少ない。
私は、古めかしく重厚な木製のドアを、体ごと押し込んだ。
「いらっしゃいませ、探偵さん」
マダムの声だ。カウンター以外にボックス席がふたつしか無いという狭い店だ。おかげでドアをくぐるなり、引き締まったマダムの美貌を間近で拝むことができる。
マダムはブラウスに蝶ネクタイ。チェックのベストにスラックスという、バー・テンダーのようないでたちだが、長い黒髪が女性を表している。
年齢は私より若く見えるのだが、氏素性は不明である。私とて、無粋な詮索はしたくないのだ。
「今日は先客がいるんだね」
「ウチも毎日閑古鳥ってわけじゃないのよ?」
入口側、カウンターの一席には会社員風、三十路手前の男性が。奥の方の席には小柄な女性が、それぞれ大事そうにグラスの酒を舐めていた。
頭のソフトとバーバリー紛いのコートを渡すより先に、氷の詰まったグラスが出てきた。スコットランド・ウィスキーのバランタインが注がれる。ダブルでだ。
「まるてかけつけ三杯だね」
「私の用件以外に、探偵さんに急なお客さんが入ったの」
「口を湿らせるだけの時間はいただけるかな?」
「もちろん、ここは止まり木ですから」
私はキリリと引き締まった味わいの酒で、最初の一口を楽しんだ。
「で、マダム。君の用件を押しのけた急用とは?」
レディを待たせるものではない。その急用とやらをさっさと片付けて、マダムの用件に取り組まなければならない。
「それは私のことなのですが……」
三十路手前、真面目なサラリーマン風の男性客が、いつの間にか私の隣に立っていた。
「探偵さんの話をしたら、是非ともって」
マダムは申し訳なさそうにもらす。
どうぞと言って、私は隣の席をすすめた。男性客は少し遠慮がちに腰をおろした。
「失礼ながら、私の仕事はあまり低価格ではありませんが、それでもよろしいですか?」
「貯金をはたけばどうにかなるかと……」
「できれば私としては刺激的……タフな仕事だとより嬉しいのですが」
「場合によっては、人類最大の難題とも言えます」
「うかがいましょう」
脚を組んだまま椅子を回転させて、私は男性客に向き直った。
彼は雨だれのように、ポツポツと語りだす。
「実は私、この年になっても独身でして……」
あなたの年齢で独身だとしても、珍しくはありません。と思ったが、口には出さない。ついでに言うならば、私は彼より明らかに年上。当然のごとく独身である。
「未婚がお悩みでしたら、お見合いパーティーなどは?」
「もちろん行きましたが、どうにも馴染めなくて」
さて、彼は結婚に関する悩みを抱えているらしいが、それだけで探偵に依頼する訳がない。それも、おそらくは虎の子の貯金を切り崩してまで。
ならばどのような話が、私に降りかかるのか? 気づかれぬようこっそりと身構えた。
男性客は、意を決したように口を開く。
「そこで探偵さん! 私のエンジェルを捜してもらえませんかっ!」
「……エンジェル……ですか?」
しまった、と心の中で自分を罵る。
これは私が求めるベクトルとは、また別方向でタフな依頼なのだ。別な言い方をするならば、地雷案件というやつだ。
しかし、私は探偵。組織に属さぬ、タフでクールな都会派の一匹狼、野獣派だ。そんな動揺は一切顔に出さない。
だが男性客は、身を乗り出して私に迫る。
「そうです探偵さん! 私のエンジェルは、是非とも童顔でお願いしますっ!」
「……他に、御要望は?」
「聞くまでもありませんよ、探偵さん! 童顔ときたら小柄なボディ! だがしかしっ、胸まで貧相ではいけませんっ! ならば私の要望はただひとつっ! 年若いレディでありながら、バストは特盛二倍増しっ! これ以外は認めませんっ!」
「……………………」
彼に対したまま、私は瞑目した。彼の要望を理解する必要がある。そしてまた、彼の趣味に対して、さらなる理解をしめさなくてはならない。
だが私の準備が整わぬうちに、依頼人はさらなる矢を放ってくる。
「さらに言わせていただけるのなら、声は甘ったるく舌っ足らずな感じで、ハグが好きなちょっぴり甘えん坊。私のことはお兄ちゃんと呼んでくれて、性格は素直で……従順! そうです、これは外せませんっ!」
「……なるほど、よい御趣味で」
そろそろ話を切り上げたくなってきた。依頼人は鼻息も荒く、目が血走ってきたからだ。
「わかってくれますかっ、探偵さんっ!」
しかし私の希望もむなしく、彼はさらなる要望を提示してきた。それは髪型や服装といった比較的どうでもいいことから、夜の作法やら特殊な趣味にいたるまで、よくぞここまで女性に打ち込めるものだと、感心してしまうほどだった。
「なるほど、あなたのエンジェルの全貌がだいたい掴めました」
「御理解いただけて嬉しいです、探偵さん。いやぁ、同好の士がいるなんて、頼もしいものですねぇ」
しかもちゃっかり、私まで特殊性癖の持ち主、ということにしてくれている。
「今まで私の理想を語っても笑われるばかりで、これほど真剣に聞いてくれる人はいなかったんですよ」
正直私もうんざりしている。だが、マダムからの依頼だ。むげにはできない。
「ではさっそく、あなたのエンジェルについて調査をしたいのですが、かなり骨の折れる仕事になりそうですね」
「やはり私のエンジェルは、見つかりそうにありませんか?」
「いえ、その逆です。むしろよりどりみどりの選びたい放題、目移りして大変なくらいです」
私は手帳に簡単な地図を描き、そのページを破いてカウンターをすべらせた。
「西町駅前の地図ですが、これでわかりますか?」
「えぇ、大丈夫です」
「駅前ビル三階、アウト・ロードという店。そこにあなた好みの素敵なエンジェルたちが、あなたの来店を待ちわびていますよ」
「風俗ですか?」
依頼人は不快の表情を見せる。そういった店、そういった女性は嫌いなのだろう。
「とんでもない」
私は答えた。
「どのレディも清潔な……条件にはありませんでしたが、清純な娘たちです」
依頼人は手帳の切れ端を大事そうに抱えて立ち上がった。
「ありがとうございます、探偵さん。……それで、依頼料の方は……」
私は首を横に振った。
「それはあなたが、最高のエンジェルと廻り合えたときに、ということで」
依頼人は何度も頭をさげて、店を出ていった。
彼の人生に幸あれ。私は祈るばかりである。
彼に紹介した店アウト・ロードとは、アニメグッズの専門店だからだ。